Q. 水のバプテスマ、聖体、聖霊のバプテスマとは?
まず、聖体はカトリックでの教義になります。イエスさまが最後の晩餐でご自分の記念として表徴として定められた聖餐のパンとぶどう酒のうち、カトリックでは、パンに表徴以上のイエス様の実体が宿る(実体変化)という教義になりました。
*秘蹟については https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E8%B7%A1
この解説を読まれるとお分かりのように、マリア像や聖遺物もそうですが、カトリックには多分に偶像崇拝要素が含まれています。ローマ国教となり、世界征服にキリスト教を利用した戦略で、各地域の宗教、民衆の偶像崇拝を取り入れながら拡大してきた歴史がそこには刻まれています(☞「7つの山に座る大淫婦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%AB%E5%A9%A6%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%B3
ただしくは、スエデンボルグの解説によるもので、霊的な内意があります)。
https://ameblo.jp/nijipsych/entry-12738375463.html
私はこの女を見たとき、非常に驚いた。
すると、御使いは私にこう言った。「なぜ驚くのですか。私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話して あげましょう。
あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めか らいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。
ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。
あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。
この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。
この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ば れた者、忠実な者だからです。」
御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。
あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされた からです。
あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
黙示録17:6~18
ウィキペディア☞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%AB%E5%A9%A6%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%B3
スエデンボルグの『啓示による黙示録解説』によれば、大淫婦の記事は、カトリックとその誤った教理であることが書かれています(下巻142頁~)。そうすると、ルターによる黙示録のこの箇所の解釈はけっこう近しいところに迫っていると言えるようです。
み言葉の諸黙示から、一番私たちが受け取るべきメッセージは、スエデンボルグの啓く解釈ですが、不思議と歴史上の事実を予言しているとの内容とも符合したりしています。
(☞ https://ameblo.jp/nijipsych/entry-12746706438.html)。
この辺りはどこまで真理なのかわかりません。
カトリックは“食べる”礼拝(ミサ)、プロテスタントは“聴く”礼拝(説教)、ギリシャ正教は“見る”礼拝(イコン)と言われます。カトリックのミサでは、パンを食べる(=聖体拝領)ことが、儀礼のクライマックスになります。ほとんどの場合、信者には、パンのみでぶどう酒(=真理)配られず、パンに比べぶどう酒が軽視されていることもとても象徴的です。
わたしたちは、あくまで表徴としていただいています。
水のバプテスマ=み言葉による理性の照らし
聖霊のバプテスマ=より内部の理知の浄化
別の個所では「火と聖霊のバプテスマ」とあります。
火のバプテスマ=意思の浄化
となります。
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