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【第615回】教育者・経営者・政治家!?「山田太郎」って何者!?波瀾万丈の人生を深掘り!(2025/02/19)山田太郎のさんちゃんねる【文字起こし要約】

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出演者:
山田 太郎 参議院議員・全国比例
小寺 直子 山田さんの秘書


今回の概要

山田太郎のさんちゃんねるです。
この番組は、政治・経済やさまざまな社会問題について考えることを趣旨として作られています。

そして今日は、なんと「山田太郎ってどんな人?」というテーマで、私自身について小寺さんが中心となって質問し、まるで丸裸にされるような回になると思います。どうぞよろしくお願いします。

山田さんといえば、非常に独自の路線を歩み、そのチャーミングな風貌と異色の経歴で知られています。今日は、そんな風変わりな山田さんの人生を深掘りする企画です。

私が山田さんと出会ってから丸5年になりますが、毎回雑談するたびに、これまで知らなかった面白い経験がどんどん出てきます。今日は1時間の中でも、私自身が知らなかったことがたくさん明らかになるでしょう。

なお、今回はサプライズとして、山田さんには台本を直前にしか渡していません。私が聞きたいことを、できるだけラフな感じでどんどん質問していくつもりです。

山田太郎の原点

山田さんは、「経営者」「教育者」「政治家」という三つの顔を持っており、これをよく売りにしているので、ご存知の方も多いと思います。

まず、経営者としての側面ですが、外資系企業のバイスプレジデント、上場企業の社長という経歴はご存知の方も多いでしょう。しかし、ビルの経営や中華料理店、接骨院の経営も行っていたと伺っていますが、これは本当でしょうか?

そうなんです。元々実家は、5階建てのそれほど大きくないマンションですが、母親がビルを建て、1階に店舗を構えていました。一時期は中華料理店や接骨院の経営にも携わっていました。(現在は行っていません。)

そんな経歴を持つ山田さんが、上場企業の社長をして、今は国会議員として活動しているというのは、本当に珍しいことですよね。

「創業オーナーであり、上場企業経験者で国会議員をしているのは、私だけだと思います。」
昔は、タリーズの松田さんや弁護士ドットコムの元榮さん、ワタミの渡邉美樹さんなどもいらっしゃいました。

なぜ政治家になったのか

多くの方が何百回も聞かれているかもしれませんが、私も最初に山田さんに一番聞きたかったのは、「そもそもなぜ経営者から政治家になったのか」という点です。

なる気はなかったんですけど、あれは2010年ごろのことです。みんなの党は2009年8月8日に設立され、その翌年、みんなの党でアジェンダという公約集を作ることになりました。

たまたま私もみんなのサポートをしていたので、経営者としての経験を活かし、経済編の公約集をかなり作りました。すると、浅尾慶一郎さん(現環境大臣)のもとで『あんたは政策を作ったんだから、責任を取って出馬しろ』と言われ、2010年7月に選挙に出る羽目になったのです。

本当に、自分で国会議員になるとは思っていませんでしたし、出馬しようとは考えてもいなかったのです。

今の国会議員の方々は、昔から国会議員になりたくて、ひたすら準備を重ねているイメージがありましたが、ひょんなことから国会議員になったという点も面白いと感じています。

実際、国会議員はただ「なりたいからなれる」のではなく、選挙で勝つことはもちろん、党等で席を確保することが大切です。

かつて民間で働いていた時は、勝てる見込みのない選挙に出るのは馬鹿馬鹿しいと思っていました。しかし、実際には党に選ばれてまず選挙に出ること自体が大変であり、そうした経験の積み重ねが、将来当選するために必要だと後から実感しました。

さらに、もう一つよく聞かれるのが、経営者として活動していた方が、収入面で有利だったのではないかという点です。

確かにそう言われますし、自分でもそのように感じています。経営者としては、上場企業の社長まで務めたので、それなりに高い報酬をいただいていました。

また、私はもともと人前で話すのがあまり好きではなく、まさか人前で演説することになるとは思っていませんでした。今でも演説はあまり得意ではありません。

学生時代~経営者時代

そんな山田さんですが、どんな人生を歩んできたのかということで、山田さんに「人生グラフ」を作っていただきました。そこで、全体像を見ながら、ざっとどんな人生だったのかを説明してもらいます。

学生時代については後ほど詳しくお聞きしますが、まずは25歳以降の流れについて簡単に説明していただけますか。

まず、25歳で就職しました。大学は3年遅れで卒業したので、25歳頃に就職したのかな。最初はコンサルティング会社に勤めましたが、とてもつまらなかったんです。

なんでつまらなかったんですか?

だって、想像していたものと違ったんです。コンサルティングといえば、経営者の前でかっこよくプレゼンテーションをし、経営はこうだ、こうしたら会社は儲かる、といった姿を想像するじゃないですか。しかし、実際は、若くて経営経験もない私がそんなことをできるわけがなく、幻想にすぎなかったんです。

当時はパワーポイントもなく、Macでお絵かきツールを使って必死に作成していました。今ではパワーポイントで1日何枚でも作れるのに、当時はせいぜい1日2、3枚作るのが精一杯でした。当時使っていたのはMacintosh、Mac IIといったもので、非常に地味な作業でした。

その後、PTCで副社長(バイスプレジデント)になって、高収入を得るようになりました。そこから独立し、業績不振により一気に人生が下落。その後、上場企業となり、40代半ばで売上40億円、従業員240名の会社に育て上げたと。そして、その後は債務超過に陥るなど、本当に波乱万丈の人生を歩んでこられました。

まず、PTCで副社長(バイスプレジデント)になったときはとても嬉しかったです。外資系のトップというか、国内ではマーケティングやテクノロジーマーケットを担当していましたので、ボストン本社と行ったり来たりする機会もありました。

ちなみに、私が新卒で入社したのは今のアクセンチュアで、当時はアンダーセンコンサルティングと呼ばれていました。その後、プライスウォーターハウスクーパースなど、外資系企業を転々としてきました。外資系でバイスプレジデントや副社長格になるのは、非常にハードルが高いポジションです。

また、米系企業であれば本当のトップにはアメリカ人しかならないため、日本人としてはこれ以上上がるのは難しい状況でした。そういう意味では、収入も非常に高かったし、良い経験だったのですが、さまざまな事情があって退職することになりました。

収入も良かったのでお金も貯まり、辞めてプラプラしていると、お客さんがたくさんついていました。これについては、オムロンの副社長から「信じて投資したのに、どうしてくれるんだ? 20数億CAD買ったのに」と責任を取ってうちに来い、と言われたのがきっかけです。

副社長から直接「うちに来い」と言うのもどうかと思い、顧問業をやるよう勧められました。そこで、ネクステックという会社を作ることにしたのです。

個人でやろうと思ったのですが、大手企業は会社、しかも株式会社でなければ発注してくれないということで、慌てて法人化したのが最初の経緯でした。

最初は個人コンサルとしてスタートしたときは非常にうまくいっていました。しかし、その後、あるところから何人かの技術者が、前の会社のオーナーと喧嘩したという理由で、5、6人を連れて転がり込んできました。

彼らは「迷惑はかけないから、軒だけ貸してくれ」と、何か母屋を取られたような形で合流してきたのです。結果として、5、6人分の給料を支払う必要が出てしまい、一生懸命に営業しなければならなくなりました。

しかし、システム開発の案件はすぐに取れるものではありませんでした。1人でやっていれば大したことなかったのですが、5、6人分の仕事を取らざるを得なくなったた大変でした。

しかも、依頼があったからといって儲かるわけではなく、実はキャッシュフローが非常に厳しかったのです。プロジェクトの完了後、入金が2、3ヶ月遅れるため、給料が月末払いで、人数が増えるとキャッシュアウトが先行し、入金が追いつかなくなりました。その結果、数ヶ月後には、いわゆる下手をすると黒字倒産になりかねない状況に陥ったのです。

実際、業績は不振で、キャッシュ不足に悩まされ、個人保証もあって、通帳にはたった30万円しか残らない状態でした。それでも仕事はどんどん取れ、従業員は30人にまで膨れ上がったのです。本当に倒産状態に近い、従業員30人に対して通帳残高が30万円という状況でした。

そのときどんな気持ちでしたか?

いや、どうしようもなくて、毎日金策に追われました。そこで銀行に借り入れを始め、最大で2億4000万円ほど、借り入れることができました。会社を回していると、銀行にも2億数千万円の借金が積み重なっていきました。これはまずいと感じ、ベンチャーキャピタルの力を借りることにしたんです。

市場やIPOが割としやすくなったのは、実は2001年にマザーズができた時期の話です。当時は新興市場というものがほとんど何なのか分からず、東証マザーズに上場している会社も100社もなく、実際には何十社しかなかった時代です。

その後、UFJつばさなどから資金を調達し、何とか資金繰りを乗り越えました。そして、上場後の売上が40億円に達したときが、人生のピークだと思っています(実際にはM&Aも経験し、最大で60億円の売上、従業員280名まで拡大しました)。

会社設立からわずか3年半で上場したのも、非常に短期間であったと言えます。私の会社は、2社目くらいに早く上場した例だったかもしれません。

上場後、M&Aなどを多数実施していたんですが、その途中で会計基準が変更されました。具体的には、M&Aで買収した先の会社、特に海外投資をした場合、予定した売上が1年以内に立たなければ、会計上「保護主義」という処理でアセットをゼロにするというお達しがありました。

そのため、2008年になってから、非常に利益率の高い会社であったにもかかわらず、キャッシュポジションが2億~3億あったにも関わらず、なんとその会社が20数億の債務超過に陥ってしまったのです。

私としては、ゴールポストが途中で変わってしまったように感じました。上場時、自分もかなりいい気になっていたんですが、実際にうちの会社は上場後、3日間ほど株価がつかず、注目銘柄となった時の時価総額は200億円ほどになりました。

上場で株価を安定させるため、3日目に東証から強制的に私が保有する株式の一部を排出し、20億円のキャッシュを得たのです。当時は、株式の10%に対して税金がかからなかったため、実質18億円を手にし、その資金で調布の家を購入するなど、いろいろと個人投資を積極的に行っていました。

しかし、結果的にその投資や自己資金の投入が裏目に出て、会社は20数億円の債務超過に陥りました。会社のためだということで自分の家も全て売って、資金調達を行い債務超過の解消に努めたのです。

国会議員の方々には、本当に驚かされます。人生の一番奈落の底に突き落とされた後、それでもなお選挙に出ようとするそのバイタリティは、まさにすごいと感じます。

ちなみに、債務超過が明らかになったのは、品川にある本社の会計を2008年4月頃に締めた時でした。アセットなどを整理してみたところ、20数億円の債務超過になっていることが分かりました。

会計年度は3月末で、6月の株主総会までに何とか資金を投入してもらおうとしたのですが、皆さんご存知の通り、債務超過状態ではいくらお金を借りても根本的な解決にはならないのです。

上場している会社というのは、株価が過度に高くつく傾向があります。純資産に対してPERが何十倍も付くような会社であったため、正直なところ、そんなボロボロの株式会社に資金を提供してくれるところはなかなかありませんでした。

そこで、100社ほどのベンチャーキャピタルやエンジェル投資家に頭を下げ、捨てる神あれば拾う神ありという形で、私自身が投下した資産も含め、何とか会社を再生・立て直すことができたのです。

そして政治家へ

ネクステックの話は後ほどもう少し深掘りさせていただきますが、政治家時代については、全体像をさらっと振り返ります。最初はみんなの党から始まり、その後ネット選挙へと移行しました。

当時、みんなの党は非常に人気があり、現在の国民民主党のような存在感もあったのですが、参議院選挙では800万票を獲得するほどの勢いがありました。

全体を見てみると、山田さんの面白い特徴として、「最少得票当選」と「最多得票落選者」という、政治家としては非常にユニークな経歴が挙げられます。具体的には、29万票を獲得して落選したという結果があり、政治家としての流れも一風変わっているのです。

まず、みんなの党で出馬した際、六本木に事務所を構えました。なぜそこを選んだかというと、たくさんの人が通るし、非常に目立つと考えたからです。しかし、結果は3万660票しか得られず、順位は7人までは入ったものの、最終的には10位に終わり、落選となりました。

ところが、人生は何が起こるか分かりません。2012年12月、比例代表で復活当選するというサプライズがありました。当時、みんなの党に在籍していた私よりも順位が上だった3名が衆議院に鞍替えすることになり、参議院議員を辞めたため、まさか10位だった私が繰り上げ当選するとは思いもよりませんでした。急遽、2012年12月から繰り上げ当選し、野党として国会議員をスタートすることになりました。

まずはみんなの党に所属していましたが、内紛が勃発し、党が途中で消滅してしまいました。どうすべきか悩んでいたところ、一緒に活動していた松田さんや猪木さんと共に「日本を元気にする会」を結成し、国会議員を5名集めることで政党要件を満たしました。しかし、その後、1名が抜けてしまい、2016年の選挙を迎える際には自分の党がなくなってしまいました。

そのままでは選挙に出られず引退も考えましたが、これまでの経験を踏まえ、もう1期はしっかりやろうという思いがありました。中途半端な状態で、繰り上げ当選で3年半しか務めていなかったため、もう1期は頑張るべきだと判断しました。

そこで、維新の会に2日間ほどいたりとか、最終的には新党改革の荒井さんの元で推薦枠として比例代表で出馬する形となりました。これが、いわゆるネット選挙で、ネットだけで29万票を獲得するという形でした。

ただし、新党改革は1議席も獲得できなかったため、結局、私は最多得票落選者となってしまいました。これにより、みんなの党時代には「最少得票当選者」、次の選挙では「最多得票落選者」という、ウィキペディアにも記載される非常に珍しい二つの肩書きを持つことになったのです。

さらに、得票数も10倍に増加しており、憲政史上、たった3年で選挙票が10倍に増えた人はいないと言われています。

幼少期~学生時代

山田さんの社会人としての経歴はこれまで見てきましたが、今回は社会人になる前の山田さん、つまり幼少期についてもいろいろ伺いたいと思います。まず、山田さんはどのような家庭環境で、どのような場所で育ったのでしょうか。

大田区の普通の環境で、実は母子家庭で育ちました。小学校3年生ごろに離婚し、父親はおらず、一人っ子として育ちました。家はとても静かで、典型的な鍵っ子で、家に一人でいることが多く、ほとんど無口な生活でした。

中学2年生ごろから人格が変わったという印象もあります。人前で話すのは恥ずかしく、クラスのムードメーカー的な存在ではなく、学級委員になったのは名前が「山田太郎」だからという理由で、無口なままで票が入ってしまった感じです。本当に静かで暗い雰囲気でした。

何をして遊んでいたかといえば、毎日百科事典や図鑑を読んでいました。小学生ながら、ブリタニカや学研の百科事典、全集を持っていて、暗記にも熱中していました。

たとえば、円周率の3.14159265358979…といった100桁近くまで覚えたり、有機化合物のアルカンや、さらに大きな数字の桁や、東海道線の駅名(東京から神戸まで)を、2回ほど見れば100個は簡単に覚えられるほどの特殊能力がありました。

これが小学校までの成績に表れ、成績は常に100点を取っていたほどです。あまりにも優秀すぎたため、「なぜ自分だけ点数が取れるのか分からない」、あまりにも変わりすぎていたため、かえっていじめられることもなかったです。

しかし、中学に入ってからは、成績が激変しました。下から数えて『四天王』と呼ばれるほどの成績不振、いわば超おちこぼれとなりました。小学校までは勉強しなくてもなんとかいけたのですが、英語や数学など、基礎が求められる科目に入ると全く勉強しなくなり、最悪の状態になりました。

私も地方出身なので、麻布中学というと『御三家』のひとつとして有名です。麻布出身の有名人は非常に多く、その中には総理大臣が2人以上いるなど、特徴的な存在です。

最近では成田悠輔さんという後輩もいます(3年前に食事を共にしたこともあります)。麻布は有名人の中でも変わった人物が多い印象です。宮台真司や湯浅卓(弁護士)、ドクター中松など、個性的な人たちが多いです。

さらに、大手企業の社長や学者も多く、現在の東京大学の総長も麻布出身です。実際、東大、京大、早慶あたりが名門であるのは当然ですが、累積東大卒業生の中で麻布出身が4位となっていますが、今後は開成が抜いて上位に来るのではないかと思われます。

あとは、山田さんの昔の写真をいろいろ掘り出して、1枚のパワーポイントにまとめてみました。

これ、左の白黒の写真はいつですか?

これは、多分高校生の頃かな。自分でも見返すと、すごく首が長いなと感じる。高校生までは痩せ型で、身体検査でも『痩せ型』と判定されたり。食べ物もあまり好きじゃなかったから、あまり食べなかったんだよ。今では『食べなきゃ』という感じで、食べ物に執着しているけれど、昔は全く違っていた。

それから、山田さんがよく話していた麻布の『予算議長』というシステムですが、これがよく分からないんです。

麻布では、昔、学園闘争があって、東大などでも紛争があったとき、間違えて勝ってしまった学校という経緯があるんですよ。その際、生徒会を解体したんです。

生徒会は教師に支配されがちという理由で廃止されたんですが、文化祭や運動会、クラブ活動を行うためには予算の統制が必要。そこで、学生が集めた資金を管理するための『予算委員会』が設置され、これが対外的な生徒会長に代わる存在となりました。

高校1年生で予算委員会の事務局長、そして高校2年生で議長になるのが普通で、左下の写真はその頃の懐かしい記憶です。卒業後、予算委員会専用の部屋(第2応接室)を持っていたのですが、そこは先輩たちの落書きが経年とともに残り、歴史を感じさせるものでした。なお、教師は立ち入り禁止です。面白い学校でしたね。

中央の写真は、大学生のときのものですか?

そうです。これは、TBSラジオの『好奇心の大統領』の制作に携わっていたときの写真です。

また、とある国の大使である同級生、遠藤くん(現在のイラク大使)が、事務所に来た際に、山田さんの映画に出演したというエピソード。実際、私が『あの映画に出たんだよ』と言ったところ、山田さんはその映画のことを全く覚えていなかったという、ちょっとひどいエピソードもあります。

つまり、芸術的な才能もあったということですか?

いや、全くそんなことはなかった。予算委員会の事務局長としての実績は、事実上、生徒会のように文化祭のお金など全てを管理していて、まさにお金に関しては独裁者と言っても過言ではありません。

全てのクラブ活動の予算を決めていたので、先輩から『予算を削るな、リンチしてやるぞ』なんて脅されたこともあり、授業中に『先生、今日リンチされそうだから早く帰っていいですか?』なんて話もあったほどで、命の危険を感じることもあったかもしれません。

制服はありましたか?体操着は?

『標準服』がありましたが、たった3ヶ月ほどみんなが着ていただけで、それ以降は制服も体操着もなかったんです。体育の時間はジーパンで平気で通っていたので、今では想像もつかないような自由な学校でした。

本当に面白い学校ですね。これまでの中高・大学生(慶応)時代、適当というよりは非常に個性的で印象深いエピソードばかりですね。

世界放浪の旅

山田さんといえば「地球放浪の旅」で有名で、知る人ぞ知る面白いエピソードがたくさんあります。今回はその中からいくつか詳しく伺いたいと思います。

以前、エピソードをまとめた資料がありまして、1件1件読んでみるととんでもない話ばかりです。では、小寺さん、興味のあるものを教えてください。

「ネパールでバスが崖から転落」
これは取り上げたくなかった話です。なぜなら、犠牲者が出たエピソードなので、あまり詳しく語りたくありませんが、本当に命の危機に直面した出来事でした。

「エジプトで特急列車が脱線」
乗っていた列車が脱線すると、シートベルトがないため、突然体が投げ出されます。幸い、大きな怪我はなかったのですが、問題はその後。砂漠の真ん中で列車が止まってしまい、助けが全く来ませんでした。

仕方なく歩いてハイウェイに出ると、カイロ行きのヒッチハイクで何とか脱出できました。このエピソードの前後では、エジプトでさらに恐ろしい思いをした話もあり、ルクソールの神殿で新婚旅行者が虐殺されたという事件があったそうです。当時は現地が大騒ぎになったものの、ニュースもなくて、何が起こっているのか分からなかったんです。


「バハマで飛行機のトラブル」
これは非常に怖い体験でした。多分バードストライクが原因でエンジンから火が噴き、エンジンが炎上。マイアミからバハマに向かっていた飛行機は引き返し、猛烈な勢いでマイアミ空港に降下しました。

着陸すると消防車が一斉に追いかけてきて、ドアが勢いよく開く中、暗い機内から明るい出口に向かって一斉に逃げ出して、初めて滑り台を使いました(当時の素材はゴムでできており、滑りにくかった)。

20mほどの高さから突き落とされるような感覚で、もし躊躇していたら転倒して周囲にいた人たちにぶつかってしまう。結果、乗客に被害はなかったものの、荷物はダメになってしまいました。

「カンボジアで火災に巻き込まれる」
これは国会議員になってからの体験です。カンボジアでホテルが火災に巻き込まれ全焼するという事件もあり、これらはニュースになりました。

「ニカラグアで内乱が勃発」
ある日、ご飯を食べていると突然銃声が響き、辺りが一変。状況が物騒になったため、脱出を決意。飛行場に向かったものの、すでに閉鎖されており、仕方なくタクシーの運転手に200ドルを渡して、隣国のコスタリカまで逃げました。

「インドで腸チフスに感染」
インドへ行った際、ガンジス川の聖地で沐浴を行ったときに腸チフスと食中毒にかかり、現地でひどい体調不良に陥りながらも何とか帰国した話があります。

当時は携帯電話もネットもGoogleもなく、トラベラーズチェックを使って現金を用意する時代でした。英語での交渉については、インドでは基本的に通じなかったため、ある時は「汽車ぽっぽ」の絵を描いて駅を訪ねるなど、独自の方法でなんとか切り抜けたというエピソードもあります。駅に着くと、イギリス植民地時代の影響で英語が通じたんです。

これらのエピソードを聞くと、山田さんは本当に常人離れした体験をしてきたことが分かります。海外での体験は、当時の命がけの状況や、自分の力ではどうにもならない恐怖を感じた瞬間ばかりだったようです。

「何か、これまでの海外エピソードで言い残したことはありますか?」
「もう大丈夫です。話し始めると終わらないので…」

就職(社会人時代)

最初はコンサルティング会社に入社しました。当初、就職活動ではコンサルに絞っていたのではなく、マスコミに進むと思っていました。なぜなら、世界中を見て回っているうえに、危険な経験もしていたため、マスコミに進むのが自然だと考え、NHKなどを受験し、NHKに合格しました。ディレクター職として13回の面接を受け、NHKに行くつもりだったのです。

なぜ最終的にコンサルを選んだのでしょうか?

『入口が綺麗だったから。』

当時は外資系企業がほとんど存在していなかったため、非常に珍しい環境でした。1985年のプラザ合意以降、外資系企業が解禁される、当時は外資系に進むのは非常に珍しいことでした。

アンダーセンに入社した当初は、システム開発を担当することになりました。当時はERPやパッケージソフトは存在せず、ゼロからC言語やCOBOLでシステムを開発し、RDBMSのセレクト文を多用しながら大量のテーブルを構築していました。

この経験は後に、ネクステックでマスターや部品表を作成する際に大いに役立ち、また、デジタル庁で政務官を務める際にも、マスター整備に関する知識として生きています。

その後、バーンジャパンというオランダのERP企業で働くことになりました。アクセンチュアがあまり面白くなかったため、早く辞めたいと考えていた一方、データベース技術者としてのキャリアを築きたかったのです。

当時、サイベースというデータベースが存在しており、昔はページロック方式という、1ページを誰かが使っていると他の人は全く使えないという酷い仕組みでした。

日本の代理店としてサービスイレブンに入る予定だったところ、バーンという会社に買収され、結果的にバーンに所属することになりました。そのとき、「バーンの営業をやれ」と声をかけられ、バーンに入社しました。

バーンは製造業に強く、元々バーンの技術者はSAPの技術者が多かったため、SAPの裏側のバグ情報を持っており、その情報を口にすればSAPの案件が落ちるという事態も発生しました。

そのため、プライスウォーターハウスクのヘッドハントを受け、製造部門に移動することになりました。

あるとき、社長にシステム立て直しの現場に行けと命じられ、現場のシステムが全く合わない「無理です撤退するしかありません」と伝えたところ、クビを言い渡されながらも、辞めずにそのまま残りましたが、土日も出社して徹底的に教え込まれる過酷な環境でした。

ドロドロとした状況の中、自分でしか解決できない課題に直面し、技術についても自分しか分からない部分が多く、顧客からの要求や怒りにも対応しなければなりませんでした。

5年間勤務した後、米国系企業へと転職しました。これがサラリーマン時代の最後の転職、PTC(パラメトリック・テクノロジー・コーポレーション)時代は、コンサルタントとしての仕事が多く、面白い経験がたくさんありました。

2000年頃、プレゼンテーションやCAD、PLM(製品ライフサイクル管理)の重要性を認識し、プレゼンテーションを行う機会がありました。その際、ダッソーのCEOやPTCのCEOが講師室に現れ、モデレーターを務めたとき、PTCから突然オファーがあり、副社長(バイスプレジデント)に昇進する話が持ち上がり、非常にラッキーだと感じ、そのままサインしてしまいました。

こうして、PTCに移籍。PTCでは、外資系のVPとして非常に高い給料を得ながら、デルテクノロジーズマーケティング部門で、顧客に説明し、本社と連携するという重要な役割を担っていました。

1989年頃から、いわゆる「CAD元年」とも言われる時期に、CADは製品の品質を直接左右する戦略的な要素となり、日本のメーカーにとって生き残りを賭けた重要情報となりました。その情報を握り、あちこちから引っ張られながら本社と連携し、極めて大きな影響力を持つことになったのです。

経営者時代

面白いサラリーマン時代の7年間を経て、最終的にネクステックという会社を立ち上げることになりました。そこで、まず「ネクステック」とはどんな会社なのかという点からお聞きします。

一言で言えば、製造業向けのコンサルティング会社です。製造業のコンサルティングといっても、その範囲は非常に広く、生産管理だけではなく、設計や上流工程、製品の構成、原価情報、品質管理など、製品を作る際に必要なマスターデータの整理や整備を主な業務としています。

なぜこの分野に着目したかというと、PwCやPTCに在籍していたとき、散々プロジェクトが失敗する原因の8割は、マスターデータの整備不足にあることがわかっていたからです。

たとえば、国のデジタル化推進でも、戸籍などのマスターデータが整備されていなければ、全体が機能しません。外側からはリソースを投入しても、中身がなければ意味がない。そんな中で、誰も真剣にマスターデータの整備に取り組んでいなかったため、これが大当たりだったといえます。

ネクステックは、最初は1人で始め、最終的には最大280人にまで成長しました。経営のノウハウというのは、最初から完璧に持っていたわけではなく、現場で「やりながら」覚えていったものです。

よく「社長ばかりが育つ」と言われますが、投資家や銀行、顧客からも厳しい言葉を受け、頼れる人がいない中で自分一人で乗り越えるしかなかったため、孤独でもありましたが、自由でもあったという感じです。

起業して良かったこと・辛かったことは?

常にキャッシュフローに追われ、毎月売上を確保しなければならない状況でした。受注残が最高で40〜60億に達することもありましたが、プロジェクトが順調に完了して入金があるためには、その倍以上の受注残を抱えておかなければなりません。

たとえば、80億円規模のプロジェクトをそれを20本ほど抱え、朝から晩までレビューする日々は、まるで新幹線に乗るために生まれてきたかのような激務でした。製造業は日本中にあるから、常に移動しながらお客様に営業する生活を続けました。

山田さんの講演で使われる写真もいくつか見つかりました。左上の写真は上場時のもので、右上は社長室の写真です。どちらも、当時の山田さんはまだやせていていますね。下段の写真は展示会の様子で、いつも人が集まる中で、山田さんの名物講座が開催されていました。

講演内容としては、今のシステム開発は駄目だ、IBMなども駄目だと他社の悪口を並べ立て、代わりに自社に頼むべきだといったシンプルな内容でした。

システム開発の失敗を回避するためには、マスターデータの整備が不可欠だと説いており、PLM(プロダクトライフサイクルマネジメント)や部品表の整備に関しては、当時業界の第一人者として評価されました。

実際、山田さんの著書も売れ、大変なビジネス書となり、紀伊國屋などでランキング上位に入ったほどです。

初代オフィスは自転車2台分の横幅しかなく、ペンシルビルの狭いオフィスでした。新橋にあるビルの4階を使っていたのですが、最初はとても狭かったのです。

その後吉木ビルなどに移り、スタッフ全員が肩を寄せ合って執務するスタートアップらしい雰囲気が漂っていました。

約束手形で借金を抱え、トータルで2億数千万円の借金をしていたこともありました。上場直前には資金調達に成功し、品川駅近くのイーストワンタワーへ移転。駅からわずか3分半という好立地を確保しました。

山田さんは海外展開にも非常に積極的で、中国にも進出していました。例えば、香港やアジアを拠点に事業を展開し、その際、北京航空航天大学の教授として就任されたこともあったようです。

元々は2006年頃に中国で買収をいろいろ行っており、システム開発のための拠点として、SAPやERPを扱える大学が求められていました。当時の中国は2005年にWTOに加盟してから急速に近代化が進み、人民服から普通の服へ、また自転車から車へと移行し始めた時期でした。

そのため、ERPを実践できる人材が限られており、清華大学や北京航空航天大学といった大学が、名誉教授などの肩書きを発行される形で関わっていました。

それが原因で「中国のスパイ」などと噂されることもありますが、講義は1~2回程度しか行っておらず、また卒業生が日本に来た際に訪ねてくるなどのエピソードはあるものの、スパイとは全く関係ないです。

最近、ネット上では「USAIDの回し者」といった噂もありますが、私自身はUSAIDと仕事をしたことはなく、参議院のODA委員会に所属していた際も、農林水産委員会や総務委員会と同様に、普通の委員として活動していただけです。

USAIDはアメリカ政府の開発援助、すなわちアメリカ版ODAであり、私の経歴とも直接の関係はありません。

さて、話は変わりますが、山田さんのことを知る前に、私が読んだ本「次世代プロフェッショナル働き方」が非常に印象に残っています。私自身もこの本が大好きで、友人たちも読んで感動していました。内容としては、35歳までにプロとしてのスキルを身につけなければならないという点が強調されていました。

本書では、プロジェクト型の仕事とルーチンワークの仕事がある中で、成長するためにはプロジェクト型の仕事をこなすことが重要だと説いています。また、外資系企業での経験に基づき、会社に長く留まることよりも、個々人が持つユニークな能力―いわゆるポータブルスキル―をプロジェクトを通じて習得していくことが大切だと述べられています。

どこの会社に所属しようと、健康であればそのスキルがあれば何とかなるという話です。ぜひ皆さんもこの本を読んでみてください。

大学教員時代

山田さんのもう一つの大きな顔として、大学で教鞭を執った経歴があります。合計で約15年間、五つの大学で教えていたそうです。

【印象に残った授業について】
特に印象的だったのは東大での講義です。東大では、2001年から2015年の14年間、正規のゼミを持っていました。必須科目であったため、単位が取れなければ留年するという厳しい環境でした。

東大工学部のゼミは非常に難関とされ、木曜日の13時から深夜12時まで毎週続けられました。当局からは「終電までに学生たちを帰してくれ」との要請がありましたが、学生は帰宅できず、3号館のラウンジにあるソファーで寝泊りすることもしばしばありました。

【授業内容】
授業は前期と後期に分かれており、前期はアントレプレナーシップに関する講座でした。実際、ワタミの社長やグッドウィルの折口さんなど、実業家本人によるプレゼンテーションを学生が受け、その成功や失敗の要因を直接学ぶ形式でした。

後期では、ゴールドマンサックスやモルガン・スタンレーといった大手投資銀行のプレゼンルームでプロジェクトを進め、実際に投資が決まれば報奨が得られるという実践的な内容でした。

現役の上場企業の社長もやりながら、2001年から15年間にわたり教鞭を執っていました。後に国会議員として忙しくなったため、最後は講義を辞めることになりましたが、それまで継続して教育活動に取り組んでいたのです。

【なぜ教え続けたのか】
「東大に落ちたから、リベンジだ」というのが一つの理由です。上場企業の経営者や現職社長が身近にいない中で、実際の現場で学んだ生の知識やリアルな経験は、学生にとって非常に貴重な学びとなったのでしょう。

【教員としてのユニークな一面】
また、山田さんは全て理系の授業を担当しており、文系の知識はあまり重視されなかったといいます。慶應では「経済学のけの字もわからない」ほどさぼっていたというエピソードもあり、マクロ経済とミクロ経済の違いすら曖昧な状態で卒業したと、さらにはゼミを追い出され、卒論なしで卒業したという、珍しいパターンの劣等生でもあったそうです。

私がこの事務所でいつも感じるのは、何人かのインターンの学生がよく出入りしているんですが、山田さんは本当にインターンの面倒見がよく、就職活動の面接練習や「こういう企業がいいんじゃないか」といったアドバイス、さらには人生全般にわたる指導をしておられるのを、いつも目の当たりにしています。

【山田さんが学生を好きな理由】
その理由は二つあります。まず一つ目は、「青年即未来」という考え方です。これは、麻布を作った江原素六先生が唱えたもので、青年こそ未来を担っていると本気で信じているからです。

大人になってからでは手遅れだと考え、若いうちに自分たちの未来や社会を憂うのであれば、彼らに頑張ってもらわなければならないという思いからです。

二つ目は、自分が若いときにいろいろな人に育ててもらった経験です。私が「先生」と呼べるのは、心から尊敬している二人だけです。ひとりは元参議院議員の國弘正雄さん。高校時代、父親がいなかった私を面倒見よく育て、様々な面で支えてくださいました。

國弘先生には、無償でしてもらった恩に対し、偉くなった際に次の若者たちに恩返しをする、という教えを守っています。

もうひとりは、松島克守先生です。上場を目指すにあたって、経営者として欠かせない大先生であり、私が東大で講師として15年間勤められたのも、松島先生のご支援のおかげです。

松島先生は、東大工学部の小宮山さんが総長に就任する際、小宮山改革の一環として外部の経営者も東大内に取り入れ、授業を作ってもいいという面白い提案をされたことがありまして、実際、松島先生のおかげで、東大の講師の肩書きが信用に繋がったのです。

残念ながら松島先生は膵臓がんで79歳で亡くなられましたが、私はこの二人の大先生に本当に育てられたと感じています。そして、その恩に報いるためにも、私が受けた指導を次の世代に伝えていくことが何よりも大切だと考えています。

山田さんが夜遅くまでインターンの面接練習や指導に情熱を注いでいる理由が、今よく分かった気がします。

山田さんへの質問

山田塾の学生に事前に質問を募ったところ、いくつか寄せられていましたので、紹介します。

【質問①】
「20代の男性です。やりたいことが見つけられません。得意なことを伸ばせと言われても、何が得意かも分かっていない。何から始めたらいいでしょうか?」

私は、そういった人生相談はあまり好んでしません。上から目線で「こうした方がいい」と言えるほど自分が偉くもないので、単に「自分がどうだったか、どう考えるか」を示すに留めています。

人は皆、個性的で自由です。もし「やりたいこと」が見つからないのなら、無理に見つけようとせず、流れに身を任せ、やりたくなったらやればいい。私自身、政治家になりたかったわけでも、上場企業を作りたかったわけでもなく、目の前のことに一生懸命取り組んだ結果、こうなったのです。

大成功したとは思っていませんが、次に何をするか明確な目標があるわけでもないので、とにかく自分がコミットしたことを、ひたすら真面目にやる。それだけです。

【質問②】
「10代の女性です。春から大学生になります。在学中にしておくべきことと、しておくべきでなかったことを、山田さんの経験から教えてほしいです。」

まずは、思いっきり遊んでみたらどうでしょう。時間はあっという間に過ぎますし、何が起こるか分かりません。チャンスは皆平等にやってくるので、たまたまチャンスだと思ったら即行動することが大切です。

私の経験から言うと、世界各国を回る中で、どこに行ったら学びがあるかというと、インドは行く価値があります。ただし、病気にならないよう自己責任でお願いします。

私自身、海外でさまざまな刺激を受けましたが、特にインドでは、目の前で多くの人が命を落としている現実を目の当たりにしました。例えば、火葬にかかる時間が長く、金持ちは灰にまでできる一方、貧しい人は黒焦げのままガンジス川に流される現実を見ると、人は死ぬものであり、リインカーネーション(輪廻転生)という考え方も自然と受け入れられるようになります。

さらに、インドは値段交渉が徹底しており、日本人は時に100倍をつけてくるほどです。そんな面倒な部分もありますが、生きていることの実感や、自分の殻を破る経験として、ぜひ体験してほしいです。

私自身もインドでは何度も、事故で死にそうになった経験がありますが、そういった体験があれば、悩みや苦しみがいかに些細なものか、改めて感じることができるでしょう。ただし、危険な場所には行かないよう、くれぐれも自己責任で、身を守りながら世界中を回ってほしいと思います。

ただし、前述の通り、自己責任でお願いします。インドでは、実際に人々の生と死、そしてヒンドゥー教や仏教の悠久の世界を体感できます。例えば、ブッダガヤには菩提樹があり、40度近い猛暑の中で瞑想し、悟りを開いたという伝説があります。これを目の当たりにすると、自分の悩みがいかに馬鹿馬鹿しいものか、そして違う視点で物事を考え直す必要性を感じるでしょう。

私は世界中を回り、事故で死にかけた経験もありますが、これらの経験は全て、生きていることの貴重な実感と、これから何をすべきかを考えるきっかけになりました。もちろん、危険な場所には行かないよう、十分に注意してください。

山田さんのこれからの夢や挑戦したいことには?

「夢はない」というか、政治家として掲げた公約を淡々と守り、実務に基づいた活動を続けることが最も大切。

政治家というと「大きな夢」を語る方が多いですが、「まずは自分に与えられたミッションや使命を考え、それを確実に実現すること」が先決。まずは自分がやるべきことを全うする。その先に何かが見えてくるのだろうと思っています。

エンディングと次回予告

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今日はこれぐらいで、次回は能登に実際に行った際の震災やデジタル防災の現場の様子をお伝えする予定です。現状、震災で何が起こっているのか、今後どうしていかなければならないのかを、感情論ではなく構造的な視点で伝える必要があると考えています。

特に、過疎地域での震災は、復興が非常に困難になる問題をはらんでおり、液状化の問題など、口では言われるものの実情は深刻です。
金沢で実施されたデジタル化の実証実験なども踏まえ、今後の防災対策や地方創生における課題について、与党議員としての責任も感じながら、しっかりとお伝えしていきたいと思います。

以上、政治家編はまた別の機会にお話しします。ありがとうございました。