「ボランティア」との付き合い方が下手すぎる私の話。

 東京オリンピック・パラリンピックの医療ボランティアの件が話題になっていますね。
 「ボランティア」という概念自体をネガティブだと捉える人は、そんなに多くはないかもしれません。でも、今回のように、時と場合によって、「それどうなの?」と考えることはありますよね。
 私自身、「ボランティア」との付き合い方が下手すぎるところがあり、最近はちょっと、距離を置きがちです。
 今回は、自分がぶつかったボランティアもやもやを書いていきます。

①誰のためにやってるんだっけ…?

 東日本大震災関連で、クリスマスイベントをお手伝いするというボランティアをしたことがあります。
 震災の時、留学中で日本にいなかったため、何となく後ろめたさがあって、何かしたいと思ったのが動機の一つでした。

 仲間にも恵まれ、ボランティアは楽しいものでした。仮設住宅にサプライズでプレゼントを渡しに行ったとき、泣いて喜んでくださる方もいて、やって良かったとも思いました。
 でも、中にはプレゼントを嫌がって、仮設住宅のドアを閉めて出てこない方もいましたし、「こんなのいらない!」と拒否される場面もありました。
 その瞬間の私は、ひどいなぁ、傷ついたなぁ、なんて、感じてしまったのですが……その気持ちってボランティア側の自分勝手かも? なんて、後になって思いました。

 震災で大変な思いをされた方の中には、そっとしておいてほしい方もいるでしょうし、クリスマスイベント自体、苦手な方もいると思います。でも、そんな人たちの存在は想定せず、自分の中で、「ボランティアは歓迎されて当然!」と思っていたところがあったような気もします。

 それってものすごく自分勝手な気がして、もやもやしてしまいました。

 また、私のボランティアの動機だった「後ろめたさ」というのも、すごく身勝手なものに思えました。震災当時自分が日本にいなかったのはわざとではないし、いなかったことを誰かに責められたわけではありません。ボランティアをすることで勝手に罪滅ぼしみたいに思っていたところがあったけれど、別に誰かが許してくれるわけでもありません。
 つまり、自分が「許されている気分になりたかっただけ」だったのだと気が付きました。

 つまりこれ、誰のためのボランティア? 自己満足?

 当時の私は、誰かに貢献することよりも、自分が満たされたい思いの方が上回っていたような気がします。そこにもやもやしてしまいました。

②期待に沿えて当然!なんだっけ…?

 ボランティアをする側もそれぞれなら、受ける側もそれぞれ。善意でやってくれていることなら何でもありがたい、と思う方もいれば、「好きでやってるなら、これくらいしてくれて当然だろう!」という態度の人もいます。

 先ほどのクリスマスイベントで言えば、プレゼントを渡したときに、「こんなのいらない!」と言われたり、「他のないの?」と言われたりする場面がありました。
 ボランティアなので、こっちが勝手にやっていることと言えばそれまでですが、素直に悲しい気持ちはありました。
 また、「善意でやってあげているのに!」と、なんだか上から目線で苛立っている自分にも気が付きました。

 これがもし、店員とお客さん、という関係だったら、「うちにはないので、他のお店に行ってみてください」と言えます。お金をもらっていなければ、当然サービスも提供しません。割り切った関係でいられます。お客さんだって、自分の欲しいもののなさそうなお店にはわざわざ来ないでしょう。

 でも、そんなわけにはいかないのがボランティア。

 言われていることが理不尽だったとしても、期待に沿えないのは申し訳ない気持ちになるし、「好きでやってるんだろ!」と言われたら何も言い返せません……。それに、たとえば炊き出しなんかの緊急性の高い場面だと、受け手もお店みたいに自分で選べないのが実情だと思います。
 また、ボランティア側が「やってあげている」という気持ちになるのも良くないですよね。

 私はそんな割り切れない関係に、もやもやしてしまいました。

 にじまゆプロジェクトのイベントを有料化した背景にも、実は同じようなことがあります。個人で好きなことをやっているだけですし、誰に頼まれたわけでもないので、無料でやっていると、「期待外れだ!」と言われたときの感情の持っていき場に悩むんです。万人の期待に応えるつもりはないんですけど……って思ってました。同じようなことをしているところはたくさんありますしね。

 確かに、「居場所づくり支援」という言い方をしてしまったこともあるので、その点はボランティアだと思われてもおかしくなかったと反省。
 今は、興味を持ってくださる方だけ来られる仕組みにするため、個人事業の一つという位置づけにしています。ボランティアではなく、お金をもらって提供しているサービスです。きっちり帳簿もつけてます。
 参加者側のハードルは上がってしまったかもしれませんが、トラブルは減り、イベントの質も、私のモチベーションもアップしました。
 今のところ、このスタイルにして正解だったと思っています。

③自分を犠牲にしてまでやることなんだっけ…?

 私が参加した震災のボランティアは、週末に泊まりがけで行われたものでした。当時の私は就活を終えた学生だったので、平日の授業もほとんどなく、ボランティア後は普通に休んでいられました。
 でも、社会人の方は、翌日からお仕事です。一緒に活動していた方に、「週末休めなくて大変じゃないですか?」と聞いたところ、

「自分のことが満足にできて初めてボランティアができると思ってる。本業に影響が出ないようにするのは当たり前」

 と、返ってきました。今も印象に残っている言葉です。

 世の中には社畜という言葉がありますが、ボランティア活動でも同じような状況に陥っている方が、時々いらっしゃいます。中には自己犠牲的に我が身を削ってボランティアをされている方もいます。
 もちろん、本人がやりたくてやっているのなら良いのですが、どうやら私はそこまで献身的にはなれないようです^^;

 がめついと言われてしまったらそれまでなのですが、時間を使って何かを提供する以上、そのうち見返りが欲しいと思ってしまうんですね。だから、割に合わないとか、どんどん俗なことを考えて、そのうち嫌になってしまうパターンが多いんです。
 その一方で、目の前のことに熱中してしまうタイプでもあるので、やることがたくさんあるボランティアがあると、私生活そっちのけでやってしまうという一面もあります。そして、自分を犠牲にしているとか、見返りがない不満を募らせる私……。

 ボランティアとの付き合い方が下手すぎる!

 自己犠牲的に取り組むタイプのボランティアは、どうやら私には向かないようですね。(社畜気質なので、仕事でなら多分できます)

何であれ自分が納得できればOK

 ボランティアに対するスタンスは、人それぞれ違うと思いますが、大切なことは「自分で納得できているか」だと思っています。

 私個人としては、今回挙げた3つの点に納得できないボランティアは、自分も幸せじゃないし、受け手にも失礼なので、基本的に受けません。

 いろいろな意見が飛び交うオリンピック・パラリンピックのボランティアも、せめて本人が納得して参加できるものであってほしいなぁ……と、密かに思っている次第です。

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穂積歩夜(ほよ)
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