悪意の源泉は悪意に限られるのか。
朝、通勤で道を歩いているとき、目の前で鳥の糞が落ちた。 あと一歩、前を歩いていたら、僕の頭上にピタリと命中していただろう。もし髪の毛に当たっていたら、ひどく落ち込んだ1日になったに違いない。上司に「鳥の糞が落ちてきたんです」と言ったって、「だから?」で終わりである。そこに軽い同情はあったとしても、数秒後には上司は忘れている。他人にとってどうだっていい話だ。
しかし、あの鳥は僕を狙ったのだろうか。僕の朝のルンルン気分が気に食わなくて狙い撃ちしたのだろうか。それとも、ただ便意を催したから尻の穴から糞をフンッ!と発射しただけなのだろうか。 おそらく、後者だと思う。そこに彼の意思はないはずだ。きっと。
本人に悪意はなくても、周りに被害を及ぼす事態はままあると思う。悪意のない悪意的行為が世の中には、はびこっているのである。その悪意的行為を被った人が、さらなる悪意を生んでしまう。悪意の波紋が同心円状に大きく広がってしまう。でも、鳥の糞のように悪意の源泉は悪意でないこともあるのである。 意図せず、誰かに被害を与えてしまうことがあるのだ。その時に、僕は許せる大人になりたいと思う。たとえ、電車の中で足を踏まれても、これは、鳥の糞だ、と思うようにする。