赤字の世界。
制作者の端くれとして、上司やクライアントから赤字をいただくことがある。「ことがある」というよりも、ほとんど必ずといっていいほど、赤字をいただく。切れ味鋭い刀で全身を切り刻まれることもあれば、急所をひと突きするような深手を負うこともある。無傷のまま、作ったものが世の中に出るということはあまり記憶にない。ものを作るということは時に銃弾を、時に刀傷を負うことを覚悟しなければならないと思っている。
先日、肺腑をえぐられる赤字をいただいた。そういう深い傷を負うと自分がダメ人間に思えてくる。いや、実際ダメ人間だということはあまり否定できないけれど、その事実が重くのしかかってくるのです。自分の存在価値なんてないんだ、とか、またひとつ信頼を失った、とか、負の分子が頭の中を駆け巡る。もう何もかも投げ出したくなって山にこもりたくなってしまうけど、でも、振り返った時に、自分の血肉になっているのは、そういう経験をした時です。深手を追う傷ほど、養分になっている。
街中を見渡せば、人間が作ったもので溢れている。自動車、洋服、建築物、インテリア、食器、家具、飛行機、公園、庭園、外灯、信号機、テレビ番組、映画など、数え出したらきりがない。そういう世界の中で、一つの赤字も受けずに生まれたものは、おそらくないんじゃないかと思う。そのどれもが、大なり小なりの赤字をもらっているはずだ。僕らの前に顔を出しているときは、涼しい顔をして苦労のあとなんてちっとも見えないけれど、その裏側ではたくさんの汗やたくさんの赤い血が流れている。
この世界は美しいという。しかし、その美しい世界を作っているのは、数々の赤字だ。赤字が美しい世界を作っているのだ(と思う)。