【人生】父を亡くして9か月
あっという間に9ヶ月がたった。父の月命日は丁度春分の日と重なり、お彼岸のお参りでバタバタしたので、落ち着いてきた今書き記すことになった。
落ち着いてくるのかなと思ったが、全然乗り越えられず、まだメソメソしている。
父に対してひどく失礼だが、まさかそこまでなってしまう存在だなんて思ってなくて。
これは時間の問題だけではなくて、後悔、やり残したことが多くあるせいだと思う。
関係もよく、蟠りもなく、何となく親子出来てそこそこ親孝行して、甘えたりもしていて、
そんな関係で、望みも知っていてより本人の望むかたちで生き抜いたから良いんでないかという何かがあれば、納得して前を向けそうだが、
私はもう少し父と見たいものがあったし、話したいこともあったと思っている。
うまく心が通わず、噛み合わず、喧嘩ばかりで、距離も開いて、悲しいおもいをさせてしまったけもしれないし、
私だって辛かったみたいな気持ちがごちゃごちゃになって、
ただ悔しくて悔しくて叫びだしたい衝動に駆られることもある。
こんな中空に「父さん」と話しかけるくらいなら、亡骸に話しかけるくらいなら、どうして生きているうちにたくさん話せなかったかなぁとおもう。
でも、まあ、生きていてもボケちゃってて話は噛み合ってなかったし、ボケちゃう前はお酒飲んでとんちんかんになっては怒鳴ってきていたから話にもならなかった。
決めつけや妄想で捲し立てられて、唖然として会話を諦めた青年期くらいで、父とのコミュニケーションらしいコミュニケーションの記憶は途切れてるが、
どうしたら、会話になっただろうと思わなくもない。シラフのときは会話が成り立つが、普段の怖いイメージにより話しかけるのにもものすごい勇気が要った。
義親との間でもコミュニケーションのかみあわなさがあるが、コミュニケーションを諦めちゃうクセが出てきてしまい、あまりよくない。
投げたボールと全然違うものを返してくるところや、話したことを聞いてない、忘れてることが多いが、仕方がないとわかっていても存外むなしくなるものだ。
もう何を言っても自分の話しかしないなら、しんどいから話したくないなと自分を守るクセかついた。
わかってもらうとか納得してもらおうとは思わなくなり、ダメージを受けないように生活するのみだ。ああ、これはクセなんだなあ。
やってみたかったことは、一緒に楽しいお酒を飲むこと。
私は父が、お酒を飲むと目が座って頭がおかしくなるアル中でなければ、父とお酒を飲んでみたかった。楽しいお酒を飲んで、腹を割って本音で話して、理解して、理解されてみたかった。
笑って美味しいねえと言いたかった。
お酒の味が少しはわかるようになったんだよ…
それから、もう少し御苦労を理解してあげたかった。その御苦労を言葉で労いたかった。
しかし、お給料日にありがとうを言おうとしても、何でだか理由もよくわからないまんま怒鳴られ、ひっぱたかれるので「ありがとう」という雰囲気ではなくなり呑み込んでしまった。
感謝してるけどそれ以上に嫌なことや怖いことが多すぎて、感謝さえも諦めた。やりたいことなんて、さらに言えない。
これもそれなりに言動から理解していて、時代と環境が違いすぎた。
父は、極端なほどの男系家族で、男六人+勘当された兄の息子とで育っている。
途中親戚が籍に増えているので、プライバシーもへちまもないだろうし、豆腐屋さんと博打でそんな人数養ってきた気性の粗い祖母と、戦争で負傷して外で仕事が出来ない父にデレキで殴られたりしながら生きていた。
兄を頼り札幌に出てきた。お陰で憧れた「電車にかかわること」ができた。
自力ですごく勉強して、将来を勝ち取った。
お金だしてもらいながら病んで勉強できないなんて父にとっては論外なのだ。
父の努力は本当に素晴らしい。
しかし、状況も時代も違うし、少しは私のことも理解してほしかった。
何が好きで何が嫌いで、何が得意で苦手なのか、どんなことが嬉しくてどんなことが嫌なのか。
学歴とか、できるできないとか、点数とかではない私のことを見てほしかった。私が記憶してるのは、好きな絵なんかを描いてるのを見つかれば烈火のごとく怒られることのみだ。
成績がよければ喜び、悪ければ脅される(学費打ち切るなど)
私の性格や人生にはまるで関心がないようにしか感じていなかった。
大人になると、やはり長い人生を生きるのに、仕事が大事だったりお金が大事だったりする。
父は父なりに、「こうしたら食いっぱぐれない」という答えをもっていたから、そうするように言ってきた。
でもそれは、そのときの私の関心事ではなく、唐突に押し付けられたような嫌なものでしかなかったので、反抗した。まして人生も人格も否定してくる人の要求になど応えたくない。
私は私の興味があることを口にするたびに機嫌を損ねてしまうので、絶対にやりたいことなど口に出さなくなっていった。
そうして心を殺して、出来るだけ従い、ストレスを避けた。
正直、勉強をこなし、いじめに耐えながら暴力をふるわれないような点数をとることだけのために生活していたようなものだから、心身ともに、壊れた。
父は、自分がそれはもう日々必死に働いたお金を使っているわけだから、もう体も心も音をあげてるとかいう甘えに怒り狂い、私も妹も代わる代わる学校に行けなくなり、寝込んだ。
ばれたら怒鳴られ罵られ、ひっぱたかれた。
布団に潜り居なくなるまでやり過ごした。怖かった。自分のことが出来なくて悔しいのは私自身なのに、私が自分で悔しがる余裕はなかったし、回復して頑張ろうという気力もなかった。
家が安全だという記憶はない。
他人事であれば、「そんな親はおかしいから忘れちまえ」くらいいってやりたい程には酷かったとおもう。
しかし、実際に私は親をしたことはないが器用ではないなりに必死に生きる苦労を知ると、まあ。気持ちはわからなくはない。小言のひとつや二つ出てきて当然だ。親も人間だ。
妹は精神病で、生活保護であり、私に養うだけの力も環境もないので、せめて独り暮らしをはじめるときの必需品だとか、服だとか、色々結構買った。
それが当然であるかのように振る舞い、まして(病気で仕方ないが)秒で壊す、処分せざるを得ないなどのことが頻繁に起これば、もう縁を切ってしまいたい程度にはムカつく。
私はお前に踏み付けにされるために日々苦労して働いたわけではないと言いたくなる
言って縁を切ってしまいたい場面が実際にたくさんある。
こうした不満やイライラを家族に持ってる以上、それを表面的に隠していても漏れ出ていると思う。隠して頑張って接してみても、何処か態度などに出ていたに違いない。
そのような態度だったかなとおもうと、私への嫌そうな対応も頷ける。
意味はわかるがボタンがかけ違ってしまっていたなと思う。
結果ダメな自分を責めるだけになるならば、そんな自責は要らないと思う。
私がすべきことは、親の要求を飲むことでなく、自分の人生を歩むことだ。
恐怖でその場では感じられなかったが、たくさんの人の転落を見てきた父は、子どもが人生から転落してほしくない一心だったのだと思う。
その行動が追い詰めるだけ追い詰める結果となったのだが。
いま、あの時代に戻っても、出来ないことは出来ないし、暴力ふるわれてありがとうもへちまもないのは変わらないから、仕方なかったことだと思う。
ただ吠える人間は存外弱い。そこを見たとき少しは労えたりしたら良かったかなと思うこともある。
認められたい、尊敬されたい、バカにされたくないという気持ちがすごく強く感じられた。兎に角中卒であることをものすごくコンプレックスにしていた。
大学出たときも、「自分の家系から大学出を出した」という特殊な喜びかたしていた。三流ではあるが。
地頭はよい父は、学問を沢山したかったかもしれない。
私の人生は健康に長生きできれば、父がなくなった年から見て、折り返し地点にきたばかり。
父を亡くして懐古的な生活になってきた。
前を向くより振替って眺める。
そんな時間が父の死からもたらされている。
そのやり残したことも含めて、私は人生を歩んでいく。
この命は父から分けてもらった命なのだ。
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