【人生】父が亡くなり1年5ヶ月
父が亡くなりもう少しで1年と半年。
夏至の前日に亡くなり、ああもう冬至が近いと思う。
この記事を書こうという前に「谷川俊太郎氏」の訃報の記事を読んだ。
父の月命日、をきっかけに、忘れたくない人物を記していくようなnoteになってきたが、許してほしい。
思えばおともだちの誕生日よりも、忘れたくない命日をノートに記すようになってきた。人生が後半にさしかかってきたのかもしれない。
父の思い出はそもそも語るほど多くない。
ポツリと思い出して涙することはまだある。
思い出したときにまたかいておこう。
前回の頃は、西田敏行氏だった。
谷川俊太郎さんご自身とは私は縁もゆかりもないが、母校の校歌を親子で書いたということで、脳裏に存在があった。
私の友人(と呼んでもいいのだろうか。片思いだったらごめんなさい)に、
古川奈央さんという方がいて、札幌で谷川俊太郎さんの詩が読める本人公認のカフェを開いた。
一つの詩との出会いから谷川俊太郎という人物に心酔し、「谷川俊太郎さんになりたい」と思ったようで、
私より年上の彼女が恋をする少女のようにその詩人のことを語るのが心地よくて、俊カフェに通うようになった。
私が札幌を去ることになったお引っ越しの日、2018年の5月26日。上川地方は5月なのに30℃を越えていた日に「俊読」という谷川俊太郎さんご本人の前で、俊太郎さんの詩を朗読…というか詩のパフォーマンスをする熱いイベントが行われており、行きたかったなというのが心残りだった。
そのオーディションもかねたようなイベントがあって、誘われるまま参加した。私は「ひも」を読んだ。あと校歌を歌った。
歌詞の一部がどうしても「あーあ、あほくせえ」に聞こえたというどうしようもない内容で、まかり間違って偉人の目にふれなくて良かったとも思う。
人前で話すのが極度に苦手で。毎年の行事の司会がしどろもどろな私としては、心臓を吐きそうなほど緊張したが、めちゃくちゃ楽しかった。
谷川氏が存在しない世界では経験し得ないことだった。
私の大切な一冊となった、俊カフェで出会った本、「へろへろ」に出てくる谷川氏も、すごく素敵で、何度でも読みたいし、誰にでも勧めたい。
ご本人が見ても、「どなた?」となるような私にとっても、谷川氏の詩は、付かず離れず励ましてくれる友人のようになっていた。
「朝のリレー」は教科書で習ったのを覚えている
まずカムチャッカという地名を初めて聞いたのは絶対この詩がきっかけだ。
「二十億光年の孤独」は、俊カフェとの出会いの詩だ。中高生の頃に、月経由で火星に住むことになった孤独な預言者の物語を書いたというどうでも良いけど大事な思い出を話したときに、奈央さんが本棚から出してきてくれたとても有名な詩だ。
孤独の時が優しくなる詩。
「peanuts」ことスヌーピーの翻訳、
スイミーなどレオレオニの絵本の翻訳。
至るところに谷川氏だ。
出会わずに大人になる方が難しい。
もこ、もこもこみたいなオノマトペみたいなものから、え、こんな詩も書くんですか?みたいな本当にズンと重たいものまで、言葉の豊かさを見せてくれる。
氏は戦争を、経験しているのだ。ペンで戦っている。ペンでの闘いの力は、言葉が存在する限り、消えない。
言葉は武器にもなるけれど、毛布にも薬にもなる、ということを、教えてくれている人のようにおもう。
親交があった彼女の悲しみは、私の比ではないだろうけど、私はもっともっと、「谷川俊太郎」さんの魅力をこれから生まれてくるような世代まで伝えてほしいと願っている。
こんな素晴らしいバトンを受け継げる人はそう、多くはいない。
私にもまた、どんなに素敵なのか「圧が強い!」と思うほどに教えてほしい。
微力な助けしかできないけれど、いつも谷川氏が経営を心配しながら、沢山蔵書を奈央さんに託してきた「俊カフェ」を応援して、知ってもらうことが私にとっての追悼であり、詩人が「生きた証」への敬意だ。風化してはいけない大切な言葉を沢山紡いでいる。
私が読める日本語で綴られた宝物だとおもう。
その「あーあほくせえ」の母校の恩師も昨年冬に亡くなられたと聞いた。影響力のある先生で退官と共に手出し口出しをしないことを徹底していたようだ。この教授が居なかったら、私は自殺をしていた恐れもあった。
21歳、20年前の今頃、私は様々な重圧と親の暴力などで、病んで、狂って、壊れた。人間は本当に壊れる。
言葉の話が重なるが、私はこの頃、精神が壊れ、文字が認識できなくなった。新聞ほどの情報は恐怖で、バケツで新聞を洗った。
何なら読めるだろうと「ノンタン」を図書館で読んだが、理解できなかった。
尺取り虫のように文字が動き出すのだ。
幻覚なのだが。
先が見えない恐怖、底のない穴の縁に立つような、光の見えないトンネルにいるような。何の希望も見えないという状況にあった。
鬱を症状とするなにかだ。
「あの生徒学校来ないな」とゼミの先生である教授は思ってたとおもう。突然壊れて引きこもりになってしまったし、状態異常すぎて、外に出られない。
太陽見たら死ぬと思ってたし、黒い車に殺されると思っていたし、もう二度と経験したくはないが「妄想」というのは本当に修正がきかない、不合理なルールを、太陽が明日も昇るのと同じくらいに疑い無くそう思ってしまう。
よく、戻ってきたと思う。
妹はもう慢性的にその妄想のなかにいる統合失調症だ。死んだ父もというか、うちの家族は全員変だったときがある。
そういう種を強めに持った遺伝子もあるかもしれない。
引きこもる、外がこわい、人が怖いというのは、それを経験した人でないとわからない独特のものだとおもう。何なのだろうな。
直接教授が助けてくれた、というよりかは、ひょんなことなのだが、そこまでの恐怖に勝ったのは、「虫歯」のせいだ。虫歯が痛くて、学校の近くの歯医者にいったら、そこに、なんとゼミの教授がいたのだ。
よりによってちょっと離れた治療台で歯を削られてる時に、やはり治療中の教授と目があった。
二人とも口のなかをあれこれされてるので、目だけ見開いて、あふあふして、会話も交わさずに終わった。
でも、これは天啓だと思った。
こんな偶然あるかと思った。
数ヵ月ぶりの外に出たら見知った怖い顔と
こんなコミカルな形で再会してしまうなんて。
「学校へ…いこう」と思ったきっかけは、
口を開けてあふあふしていた
教授を見かけたからなのだ。
とはいえ、半年本当に夜中のコンビニ以外なにも外出していないので、学校までが異世界すぎる。
のちに彼女の絵本の挿し絵を描くこととなる、スクールカウンセラーに相談して、春休み中に学校へ通うリハビリをして、何とか復帰して卒業までこぎつけたというかんじ。
文字の認識も虫ではなくなったものの難しい。
頭も壊れてるので時間割りや単位計算も困難だ。
そこは、ゼミの仲間が助けてくれた。福祉科で良かった。
休んでしまった一年分を含めた二年分を、ポンコツ頭でこなしていたので何かとめちゃくちゃだったが、真剣に一番前で休まず寝ずに受けたのに2回も落とした統計学も何とかクリアし、必修科目もゼミの二年分も教授のスパルタな指導でパスして、学部7位とかで卒業した。
父の悪口側に傾いてきているが、
…20年前はものすごい地獄だった。
けれど、私は生きている。それで今は十分だ。
あのころは大嫌いだったし、
大嫌いになるほどには
理解されたかったし
仲良くしたかった存在ではあった。
悔やまれる。悔しい。
しかし、思春期反抗期で、散々な目にあってきてぶっ壊れていた過去の私に父を助けろとか間違えても言えない。
よく頑張ったよそんな状態でと言いたい。
今なら父の不安や弱さも含めて理解可能な部分もある。大人はそれほど強くない。
結構、満身創痍なのだ。
バブル崩壊後の闇のような時代を、転げ落ちないようにしがみついていた父も、えらかった。
八つ当たりは勘弁だけど。
同年代だったら、声のかけ方もわかったかもしれない。声のかけ方がわかる程度の経験を遺してくれたのかもしれない。
明日、父が亡くなり、1年5ヶ月。
静かに悲しみは思い出に変わり、その生きた意味を自分の人生の中に見いだして何かを継いでいくというのはこれからかもしれない。
私は、未来を描く企画に参加しているけど、その幾重にも広がるだろう枝葉を支えていく今の幹を真っ直ぐもたせている、過去という根を同時に掘り下げていきたい。
私が好きな歌で、どうしてもうるっとしてしまう言葉が「生きた証」という言葉なのだが、
この凡庸な私が、「何を遺していくか」ということを日々考えて生きていきたい。
三回目になる粗大ごみの日の確認を義母にされながらのモーニングタイムに綴っている。