熱き氷の祭典2019 「氷艶 月かりの如く」が 照らす新しい未来
2019年7月26日。あの新しい歴史の一歩を踏み出した「氷艶 」から2年、新作「氷艶 月かりの如く」は演出に宮本亜門を迎え、高橋大輔単独主演としてスケールをアップし、横浜アリーナを舞台に幕を開けた。閉幕後も「氷艶ロス」と言われ心を掴んで離さない魅力を、その初演から千秋楽まで主に高橋大輔にフィーチャーしつつプレイバックする。
氷を一面に敷かれたステージは、しかし熱く煮えたぎっていた。
まさにスタンディングオベーション。氷の上でカーテンコールをする演者達は泣き笑いの表情に彩られ、会場は渦を巻くような熱気に包まれた。2019年氷艶「月かりの如く」の千秋楽である。
現地で心配されていた台風は千秋楽を前に姿を消し、公演中灼熱の太陽の恵みが降り注いだ。
雨は降っても夜くらいであった。
前回の氷艶同様、青空が会場の上空を彩った。
台風の影響を受け東海地方では雨が降っていたため、会場に足を運ぶ観客は車窓から虹を見た人も少なくなかった。晴れの国岡山出身である主演の高橋大輔はやはり氷艶に天の恵みを招いたようだ。
2月上旬、かつて氷艶2017破沙羅のトップページとして存在していたURLは突然「氷艶」の文字とブラックバックに秒単位のカウントダウンのみとなって現れた。
氷艶2017の公式アカウトとして眠っていたツイッターアカウトがカウントダウンの開始を告げた。
SNS上では氷艶2017破沙羅で感動を分かち合った人々がざわつき始める。
思えばこの時から氷艶「月かりの如く」は始まっていたのかもしれない。
カウントダウンが終了する数日前、突然音楽が伴うようになる。洋風でもあり和風にもアレンジされたその音色は実に耳に馴染んだ泣きのギターだ。SNS上では「B'zの松本孝弘氏ではないのか?」と噂され、ギター愛好家の「GGC(ガチンコギタークラブ)」と言われる人たちがその音色をコピーして演奏したものを返信としてアップする「ぶら下げる」という展開をし、氷艶2019は詳細が発表される前からすでに祭の様相だった。
これは公式サイドから見ても嬉しい誤算だったに違いない。
氷艶2017破沙羅が月かりの如くを導いた功績は絶大だった
氷艶2017破沙羅で、スケートリンクという舞台の無限の可能性を示した効果は絶大だった。
スケートリンクはスケーターが表現をするためのステージエリアであるのみならず、さまざまなものに現実感のない浮遊感のある動きを与え、を映画の特撮のようなスピード感を生で体感出来る唯一無二の場所にし、どのような場面にも姿を変える生きた舞台セットとなることを知らしめた。
フィギュアスケートはバンクーバー五輪の年に世界選手権100周年をむかえるなど長い歴史を持つが、これほど雄大で万能たりえるステージとしての進化にかんしては手付かずだった。
それが、近年進化の一途を辿るプロジェクションマッピングと融合することで、あらゆる場所も場面になりうる「まるで映像が実体化したように姿を変えるステージ」にとなり、かつて目撃したことがないほど巨大なステージを、高速で大きく使う舞台として伸び代が膨大にあるということを我々は目撃した。
そういう意味で前回氷艶2017破沙羅が与えた今後への影響は膨大である。
全くの未知数からの挑戦を成功させ、そしてさまざまな演出家が新しい表現のかたちに想像の翼を広げたであろう初回氷艶を足がかりに、これほどもったいぶってカウントダウンをするのだ、否が応でも期待が高まる。期待の高さだけプレッシャーになるはずだが、これは相当な自信があると見る。
カウントダウンが0になる前日に大方の予想通り主演として高橋大輔の番組出演が告知された。なんとカウントダウンが終了した直後の時間である。
前回の氷艶はプロモーションが充分でなく、存在を知る人が一部にとどまったが、今回はまったく体制が異なることをここで感じることができた。
そしてついにベールが剥がされ、公表された新・氷艶は、大きな期待をはるかに超えるスケールであった。主演・高橋大輔。演出・宮本亜門。テーマ曲・松本孝弘(これはまさにカウントダウン段階の予想的中である)。ストーリーのテーマは「源氏物語」。
前回氷艶にも出演していたスケーターはもちろん、今回は歌舞伎勢ではなく、様々な分野のプロのエンターテイナーが集まった。
ジュピターで鮮烈デビューした後ミュージカルなどで活躍の場を広げている本格派シンガーの平原綾香。朝ドラやのだめカンタービレなどで注目され、実力派若手俳優としてまた歌や歌舞伎など様々な挑戦をしている福士誠治。元宝塚トップスターで新しいキャリアを着々と築いていた容姿端麗で歌にも定評のある柚希礼音。バイプレイヤーとして多くの作品の肝を支えている実績を持つベテラン波岡一喜。大御所俳優として物語に重みを持たせる大ベテランの西岡徳馬など、そうそうたる面々が発表された。
また、スケーターでは今回は海外から、高橋大輔と並び立つ稀代の表現者スイスのステファン・ランビエールと、若くに競技者としてのキャリアを終え、アイスショーの出演自体がほとんどないにもかかわらず根強いファンを持つロシアのユリア・リプニツカヤが招集されることがわかった。
高橋大輔に通用しない「当たり前」
情報解禁と同時に番組に生出演した高橋大輔に加え、さらに宮本亜門が登場した。
まだ詳しいことはわかっていないので、と話しながらも宮本亜門であること、ほかの出演陣の顔ぶれから歌舞伎とのコラボであった氷艶2017破沙羅と違いミュージカル仕立てになるだろうことは予想がついていた。
「歌える?」「僕下手くそなんで…」「今下手くそって言った?!」判断は宮本さんにしてもらいますと話をしながら見てる方も軽く捉えて聞き流していた。
本業の歌手が出ているのだからまさか歌まではしないだろうと。
しかしこれから5ヶ月後、何度もその奇跡を目の当たりにしていながら、改めて「高橋大輔に当たり前は通用しない」ことを思い知ることになるのだ。
源氏物語は日本最古の長編小説と言われ、原作は基本的に主人公光源氏を取り巻く情愛の物語が描かれている。
何しろ最古であるので、これまで様々な映像化がなされてきたが、現代に受け止めやすいアレンジがなされてきており、今回の氷艶も殺陣があることが事前の情報でわかっていたため大幅に手を加えるであろうことは予想されていた。
わざわざリンクを使いスケートのショーとして展開するからには動きの少ない展開にはならないだろうことは予想がついたが、それがどのように源氏物語と融合するのかまったく想像もつかないまま、1ヶ月ほどの合宿期間から漏れ聞く頼りなどを楽しみに初回公演を迎える。
こまめな番宣や幅広いジャンルの出演者の参加から、より広範囲の人が氷艶を見ることがわかっており、何も想像つかないままワクワクした。自分も想像がついていないのに見た後どんな反応をするだろうと、そればかりが楽しみでしかたなかったのだ。
初日初回公演は平日の昼にもかかわらず、空席を見つけるのが難しいほど盛況であった。何しろ横浜アリーナで行われるアイスショーはディズニーオンアイスのみで、まったく想像がつかず、これはおそらく演出家である宮本氏も満席は予想してなかったのではないだろうか。 (初回公演後に現れたときは「すごい人!!」と驚いていた)
始まる前からグッズ売り場やガチャコーナーは最後尾も見えないほどの人だかりで、公演開始に合わせて列を打ち切られるほどであった。
会場が暗くなり、美しいチームラボによるプロジェクションマッピングで月と宇宙のように周囲が包まれる。川井憲次のキャッチーで壮大な音楽とともに主題である「月かりの如く」が浮かぶとともにそこは平安時代の帝の宮殿へと姿を変えた。
そこから1部終了まではあまりにも「あ」っと言う間であった。
期待に応えてくれた、だがあまりにそれ以上だったためなかなか言葉にすることは難しいと感じた。
高橋大輔はほかの役者陣の中で当たり前のように「俳優」としての演技をしてのけたのである。
前回氷艶2017破沙羅でも彼はその圧倒的なオーラと本来滑ることも困難な重い衣装で義経を演じ、美しくもキレのある本格的な殺陣をスケートのスピードでやりこなし、さらにスケート靴を脱いで「阿国」に扮して日舞とヒップホップを融合させたコンテンポラリーダンスで度肝を抜いてきた。日舞で一人で踊らせようという提案をしたのは当時の市川染五郎(今の松本幸四郎)氏だが、東京ゲゲゲイとのコラボを提案したのは高橋本人だったという。
故に恐らくまた何か驚くことをするだろう、陸ダンスもするだろうと予想はしていたが、これほど当たり前のように演技をしてくるとは想定外だった。
義経の時も彼は「演じる」というよりそのものとなって、マイクには拾われないながらも義経として振る舞い言葉を発してるという話を聞いて納得するほど迫力の演技を見せてはいる。
だが、台詞となると話は大きく変わってくる。
どうしてもこればかりは才と経験値に左右されるからである。
だが目の前の高橋大輔は、彼本来の声とまったく違っていたため、最初は誰が声を発したのかわからないほどであった。
発声から、できあがった基礎をベースに演技がされていたのである。
交わし合う相手は演技巧者の福士誠治であることも幸いした。時にコミカルに、時にシリアスに、また頼もしく、伸びやかな声を持つ彼の演技の安定感は流石であった。悪役サイドで演技を一手に担う形になった長道役の波岡一喜はそのキャリアを発揮し見事な悪の迫力で引っ張って行く。
西岡徳馬は流石の声量と貫禄でみごと静の演技で場を締めて、平原綾香は非常にクリアでありながらクラシカルで品のある声を台詞でも歌でも魅せて聞かせた。恋愛が主になりがちな物語で、俗っぽさが残るといやらしくなりかねないところを見事に美しい存在感を示した。
ところが高橋大輔は何なのか。あくまで合宿前までまともに台詞も稽古したことがない素人だったはずだ。
舞台演技はドラマ慣れした俳優ですら舞台慣れしてないうちは叫ぶような声の出し方になりがちだ。だが高橋は地声ともだいぶ違う、自然に腹から響く若々しい声を出し、成長に伴って話し方や声音すら変えてきているではないか。
きっと沢山の先輩方から色々なアドバイスをもらったのだろう。優しいそして力のある実力者ばかりなので教えるのもうまかったとは思う。素直な性質で吸収力も高かったに違いない。だが、アドバイスをすれば誰でもできるようになるのなら誰も苦労はしない。
恐るべきことに、スケーターとして生を受けたことが運命としか言えないような才をもった青年は演技というカテゴリ全般に渡る才と、貴重なほど強い声帯まで持っていたらしい。
「高橋大輔が喋って台詞を言っている」という事にヒヤヒヤしたりびっくりしたりする余地を与えないままそれ以上をしてきたのだ。
この驚きを一言で表すことができないため、リアルタイムでSNSを駆け巡った単語は「何者」という言葉だった。
それぞれの挑戦、スケートが軸に
高橋大輔の演技への向き合い方に驚いて直後の驚きばかりが言葉になってしまったが、前半があっという間に過ぎたのは決してその驚きのせいではない。
しっかり「演技」に取り組みながらそれは確実に「アイスショー」であり、そして「舞台」であった。
演技の専門家、歌の専門家、スケートの専門家…他にもさまざまなプロフェッショナルが顔を並べているが、それぞれがそれぞれの持ち味を発揮すればそれだけで大変に豪華なエンタメになるだろう。だが、宮本亜門の言う「これまで見たことのないエンターテイメント」、そして月光りのキャッチコピーである「誰が想像しただろう、これほどの光源氏を」はそんな枠で満足するつもりはなかったのだ。
演技、スケート、歌、それぞれの境界線を破壊して、エンターテイメントとしてより心地よく、より美しく、見せることに全てを活かしつくす。
そしてその最大の土台はやはりスケートなのである。
今回高橋大輔演じる光源氏と、非常にナイーブな関係と立ち位置にある朱雀を演じるのはステファン・ランビエールだ。これは当初俳優が当てられる予定だったのをフィギュアに造詣が深い宮本が高橋との関係性を活かすためにステファンを指名したという。なるほど、光源氏は朱雀に友としての親密さと認め敬意を払う気持ちと背中合わせにコンプレックスのようなものを持っている。また朱雀も母親である弘徽殿の女御に逆らえない立場ながらに同じような感情を光源氏に抱いている。これはまさに絶妙な当て書きではなかったか。
長道が対抗心を煽るためか、藤壺の前でうたくらべを煽るのだが、そのうたくらべが実に名シーンであるのだ。
朱雀に男性の声、源氏に女性の声で歌を乗せ持つ性質の差を表現しながら彼らの滑りに合わせて歌がプロジェクションマッピングで描かれて行くという、心憎い演出!ソロで競い合うように滑り、舞い、そして協奏曲になってゆく。ステファンの深くダイナミックで優雅な舞は朱雀そのものであり、柔らかく繊細で軽やかで優雅な舞は光源氏そのものである。
またうたくらべを囃し立てられ、双方しぶしぶ…かと思いきや、この時の表情がまたよいのだ。競争を楽しむように、試しあうように、不敵な笑みを浮かべて視線を合わせて始まるこの名シーンは、おそらく他では再現のできないものだ。
ステファンはそもそも日本でも珍しいストーリー仕立ての和をモチーフにしたショーに出ること自体が挑戦なわけだが、思えばアイス・レジェンドで自ら作ったストーリーに合わせて高橋大輔と共演しているのだ。ここは見る方も心が躍るところだ。
このような共演は道長の策の過程である狩りのシーンでもまた繰り返される。このような滑りで対抗しあう場面において、やはり高橋大輔と対になれるのはステファン・ランビエールしかなく、この配役以外の結末が想像できないようになってしまった。
この配役、後に触れるがリプニツカヤの配役によって、高橋大輔は新たな挑戦にしっかり向き合いながらもより洗練されたさらに進化したスケートを魅せることも妥協せず魅せており、その挑戦とスケートの境界線をなくし、「どっちもやっててすごい」のではなく、スケートによる表現の幅と階層と可能性を大幅にあげてきたのだ。
しかもこれはタイトなスケジュールの中で本人曰く「なんとか形にした」のであり、つまりまだスタート地点なのだ。
何かこれというとっかかりを見つけると驚異的な伸びを見せる高橋大輔は今後どうなってしまうのかそら恐ろしいほどである。
そして高橋大輔の挑戦について大きく触れたが、絶対に触れなければならないのは俳優陣のスケートである。これも彼らにとっては完全に分野外のことにチャレンジしながら本業を発揮しているのだが、ドラマ「プライド」に出演していたことでスケーター枠だったと本人が言っていた波岡一喜のスケートはあまりに自然すぎて当たり前のように滑っていることに驚きさえできなかった。
特筆すべきは完全に初心者だったはずの福士誠治のスケートである。まったくあぶなげなく、当たり前のように前にも後ろにも滑り、あまつさえ光源氏を下がらせてソロの殺陣シーンすら演じる彼の身体能力には舌を巻くしかない。のだめカンタービレの時にも音楽が吹き替えになるのにリアリティのために本当にオーボエを演奏できるようにしていたり、その徹底的に極め妥協しない姿勢と能力の高さは素晴らしく、まさに「演技のために障害となるものを言い訳にしない」という強いプロ意識を感じられた。
ほかの俳優や歌手たちもスケートにチャレンジしていたが、腹から声を出すということは重心が非常に大事で、スケートで足元が危うくなるとこれが非常に難しくなる。それをクリアしてアイスショーという土俵に乗り、見事な舞台としてくれたプロフェッショナルに拍手を送りたい。
主演の高橋大輔の新たな伸び代とともに広がる、総合エンターテインメントの可能性
ユニバーサルスポーツマネジメントからの発案ではあるが、前回氷艶2017破沙羅はアイデアの根幹に現松本幸四郎が長年温めていた「歌舞伎オンアイス」の構想があり、また未知の領域への挑戦から「歌舞伎とどうコラボするのか」ということが軸にあった。本来は本番用に軽い衣装を身にまとう予定だった義経役の高橋がキービジュアル用の本格的な衣装を気に入りそれを着たままスピードを落とさず滑りながらの殺陣という新たなエンタメの形を構築したが、驚きと話題はスケート靴を脱いでの「阿国の舞」に特に注目が集まった。
今回は強く関わるポジションに朱雀と紫の上と藤壺がおり、藤壺が歌で表現してゆくのと呼応するように光源氏が恋心や傷心を舞うのだが、ほかの2人朱雀と紫の上をトップスケーターであり、容姿端麗なステファン・ランビエールとユリア・リプニツカヤが演じることで、よりスケートを主体とした見せ場を強く構築することになり、そこが前回の経験を踏まえて2度目だからこそ強化された「主体がスケートである」という氷艶の強さであった。リプニツカヤはショーの出演経験自体があまりないとは思えぬほど繊細にいたいけに紫の上を表情でも滑りでも好演し、光源氏との連れ舞の息は驚くほどピタリと合っており、大人の悲恋を表現した藤壺とのシーンと対比して無垢で純粋なシーンとして際立った。
ステファンとの競い舞の見事さは前述した通りである。
そして前回氷艶で「新しい殺陣の形」を示したわけだが、その経験を踏まえて今回はさらに殺陣のシーンが激増した。まるで映画の特撮で表現された必殺技でも見るような、例えて言えばるろうに剣心の流を生で体感するような、そのような陸だけでは再現できないスピードと刀の煌めきと急停止、急加速の繰り返される迫力の殺陣はまさに氷艶でしか見ることの出来ないものだ。この殺陣だけをとっても氷艶は生で足を運ぶことをお勧めしたくなるものである。
1部だけでかなりのボリュームなのだが、さらなる驚きは2部に待ち構えていたのである。初回公演1部で言葉を失ったままだったところにさらなる追い討ちをかけてくる。
これは氷艶の恒例なのか、ぜひ続けてほしいのだが、2部の開幕は荒くれ者たちの祭からスタートする。氷艶2017破沙羅でも仁木弾正の悪陣営が勝利の宴をしているシーンから幕をあけたが、今回は海賊たちの海神を讃える祭だ。和太鼓エンターテイメントのスペシャリストたちが客席を煽り盛り上げ、痺れる太鼓の鼓動に高揚したところに登場する柚希礼音扮する海賊の長、松浦のオーラは流石のトップスターであった。
地を響かせる低音で歌い上げる声と全身から発されるカリスマは見ただけで海賊たちの中でどのような存在であるかは説明不要だ。魅力的であり、汚れた姿まで気品を感じさせる。そこに1部最後で流された源氏が漂着するのだから、構成として計算され尽くしており、実に2部の祭の開幕を盛り上げる。
闇に落ちた都を救うべく源氏を探していた頭の中将がついに源氏を見つけ、都を救うべく海賊たちとともに向かうレミゼラブルかと思うようなオリジナルのシーンで事態が動いた。
松浦の歌声に、これまたシンガーとしても活躍している福士誠治演ずる頭の中将が続く。そしてその後に続いて「さあ立ち上がれ」と見事なビブラートで歌を続けたのがなんと光源氏…すなわち高橋大輔なのである。
濁りなき低音、よく通る歌声、安定したビブラート。口の動きと演技の所作で今歌っているのが光源氏であることは理性では理解しているが感情が追いつかない。現地で初回公演を見た人は「今歌ってるのは誰?」と頭が理解に追いつくのに数分のインターバルを取ったに違いない。驚くまでに時差があったので、ざわつく暇もなかった。それが高橋大輔が初めて公の場で歌声を披露した、その瞬間の出来事だった。
少し離れた話をしよう。
大河や映画で活躍する岡田准一などは自分で馬に乗り、槍を投げ、壁を走り、剣術を行い…到底本人がやらなくてもいいのではということを自分でやってしまうが、その根幹は「スタントに頼るとその分カメラワークが限定されてしまい、妥協した構図になってしまう」ということだった。
今回頭の中将を演じる福士誠治も似たような理由で前述したようにのだめカンタービレでオーボエ協奏曲のソロ部分を本当に演奏できるまでになっている。
何が言いたいかと言うと、やはり主演として顔となる人が「なんでもできる」ほうが、演目としての可能性は膨大に広がるのだ。
ここで高橋が歌わなければ、ここで高橋が台詞を言わなければ、生でなければ、それに合わせた妥協点で構成することになるだろう。自分で台詞をいい、独唱をし、その上でかつ滑るからこそ、従来型の「歌手とスケーターとのコラボレーション」のかたちの限界を突破することができる。自身で表現の幅の上限を天井知らずまで上げることができる。
これは今回の氷艶の成功を足がかりにさらに未踏の地が膨大に開拓を待っていることを意味する。
火は放たれた。それぞれの宝物を胸に次のステージへ
正直完走する気はなかったのだが、もうすぐ終わりそうなので行ってしまおう。
ここから最終決戦を経てエンディングまで駆け抜けてゆくのだが、細かい内容については9月1日の放送を待つとしよう。
ここから前半と比べ物にならないほど光源氏の台詞、歌、そして殺陣、舞が怒涛のように続く。
ほぼ出ずっぱりでその量と質たるや信じがたいもので、本来フィギュアスケートは無呼吸運動レベルで4分の時間の中にプログラムを凝縮させるので、一般の舞台レベルの時間の演技の続行は不可能に近い。
だがこの高橋大輔の体力はなんなのか。高橋大輔には及ばずともステファンも相当な出番の多さだ。(2人ともガリガリに痩せてしまったが…)
しかもどういうわけか回を追うごとに演技も声も力強さを増してゆくのだ。
従来型の舞台のように主演が出ずっぱりで演技をし続けることは体力的に無理だと思っていたのだが、ここで可能にしてしまった男が現れたのだ。
(特別すごかったのが源氏だったが、ほぼ悪陣営の伝え手となっていた波岡一喜やほぼ全ての場面で支えとなっていた福士誠治の出演時間と大車輪の活躍は繰り返し強調したい。彼ら抜きの月かりの如くは想像ができない)
途中で言及したが、新たな挑戦に対して高橋大輔は生まれたてのスタート地点だ。そして、これという何かを掴んで光が見えるとみるみる別人のように成長を始める。
生の舞台をよく見る人ならわかると思うが、舞台は生き物だ。どれほどの稽古を積んでいても、一回の公演以上に得られるものはない。
本物の「ライブの人」は、稽古で整えた土台から、生の空気や実践で何かを掴み、どんどん吸収して変えてゆく、否変わってゆくのだ。
それが見たくて最初と最後にチケットを取る通は多い。全ての公演を同じように演じろというのは不可能であるのみならず、生のライブの醍醐味や成長を否定することになる。
実際回数を重ねるごとにアドリブなのか話し合いをしたのか全体的に台詞が増えていた。舞台が熱を帯びてきた証拠である。
そして主演の高橋大輔である。彼ほどライブの空気から吸収するスピードが早い人は稀だ。新しいことを吸収するスキルをメタスキルと言うが、彼はこれが異常に高い。
初めて客前で台詞を言い、歌を歌ってからものすごい勢いスピードで成長をし続けた。
源氏の若き頃から大人になるまでの成長と変化の演じ分けから、演技のリアリティが1公演ごとに別人のようになっていった。
すべての時が満ちて
ついに千秋楽を迎えた。 たった三日、だがとてつもない三日間だった。
カンパニーの空気の熱さはSNSのみならず舞台からもビンビンに伝わってきた。この最後に全てを叩きつけようという気概が圧倒されるほどだった。
その素晴らしい公演の、素晴らしい千秋楽にクライマックスを飾るのが光源氏の独白、独唱、そして嘆きの舞である。
前述したようにとてつもない運動量を1日2公演こなし、最後まで声が掠れるどころか迫力を増してゆくのが驚異的なのだが、壮絶な迫力で観客を圧倒したのは最後の舞、つまりはやはり高橋大輔のスケートだったのだ。
本来こんなに長時間できるような動きではない。どこにこんなパワーが湧き出てくるのか? エッジは深く、倒れないのが不思議な程の無重力感から生まれる非現実感が感情というかたちなきものの具象化となる。
あれほど初挑戦とは思えない演技と歌で評価されてもやはり彼の中で最も雄弁に伝えてくるのはスケートなのだ。
そのスケートをより増幅して伝えるために彼は挑戦を続けさまざまなことを身につけてきた、まさにこの瞬間のために。
心底これだというものが見つかるまで、曖昧なことは絶対に受け入れないのが高橋大輔だ。故にこれまでの引退からの数年をずっと迷子だったと言う。彼の心が、気持ちが入っていないは基準が普通ではない。本人の言葉を額面通り受け取っていたら面食らうことになる。
その彼が1つの方向性と自信を芽生えさせたきっかけがおそらく前回氷艶2017破沙羅であり、ダンスショーのLOTFであったのだと思う。
新しいことを吸収することに喜びを覚える高橋大輔は、一度できていたことが怪我でできなくなるという苦しみを経て、再びまだ進化できることがたくさんあることを大きな喜びとして受け止めたのではないか。
より高いパフォーマンスをするための身体を作りたい、そうして現役復帰を選んだ、そう彼は言った。
その決意表明を言葉より雄弁なスケートで示したようにも見えるのである。
彼はこれからも様々な挑戦を続けるだろうが、それは全て彼のスケートパフォーマンスをより高みにあげていきたいというそのための一歩なのだろう。
そして最後、カウントダウンの頃から話題となり大きくクレジットされていた、B'zの松本孝弘のメロディがここぞとばかりにエンディングを飾る。川井憲次氏の楽曲が非常に場面に合ったキャッチーさで盛り上げてきただけに、ここに松本孝弘氏の個性の強いメロディがどう重なってくるのかと思ったら、二度と忘れることなど不可能なかたちで強烈な爪痕を残してきた。そのシーンは是非実際に見てその目と耳に残してほしい。
思い出は力となって残る
冒頭の千秋楽のカーテンコールに場面は戻る。
アンサンブルには新体操のパフォーマンスグループや歌のスペシャリストもいた。
滑らなくてもアクロバットをする者もたくさんいた。前回氷艶の際に「氷上専用スパイク」というものが開発され、滑らずに歩くノウハウが生まれたことも大きい。繰り返し言うが前回氷艶破沙羅が踏み出した功績はとにかくも大きい。
メインキャストも、アンサンブルも、みなやり遂げた、それでいて解放されることを惜しむ顔をしていた。おそらくその場に姿を見せていない沢山のスタッフたちもそうだったであろう。初回公演に続き現れた宮本亜門氏もことさらに強調していたことだ。前例のないことは目に見える以上の膨大な苦労と試行錯誤を伴っている。
怪我をしていた者もいただろう。慣れないスケートで足に多大な負担を受け、常に足元を心配しなければならない状況も続いただろう。
にもかかわらず誰一人やっと解放されることを喜んでいる者がいなかったように見えた。
自分のできるギリギリより少し上を目指してそれを超えてゆく…言うは易しだがそう簡単にできることではない。本来ならおそらく体力のギリギリでこれ以上の公演は無理だったであろう。この場の者たちはその苦難を手を携えて乗り越えた戦友たちだった。
その経験と記憶は巨大な宝として胸に、そしてスキルとして残り、また次のステップに踏み出すための足がかりとなる。
戦友として芽生えた絆はなによりも強固で、忘れ難いもの。
それでもこの場を去り難い思いが、氷の上も、そして客席も同じ思いに包まれて一体となっていた。
その場のすべてが一体となれる舞台はエンタメに関わる人全てが常に追い求める瞬間なのではないだろうか。
火は放たれた。可能性の扉はまた一つ開かれた。
この経験を乗り越えた者だけが進める次のステージへ、きっと想像もできないような未来が待っているに違いない。