オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その88
逡巡
翌日、太田は午後早めに自分の家に戻った。名残の疼きを感じながら菜々子は身支度を始める。桃子と急遽夕食を共にすることにしたのだ。
シャワーを浴びて髪を整える。化粧はベーシックに留め、ジーパンとセーターに身を包んだ。薄手のマフラーを巻いて家を出る。待ち合わせ場所は品川駅近くの大手が経営する和食屋で半個室を押さえてあった。
「お疲れ様」
菜々子が部屋に入ると桃子は先に到着していて生ビールを飲んでいた。
「お疲れ様です。すいません、日曜日に御呼び出しして」
「それは良いのよ。どうせ一人なんだから。成果があったのね?」
桃子が尋ねた。
店員が御絞りとお茶を持って来たので菜々子も生ビールを頼む。
「そうなんです。まず見てください」
菜々子がタブレットを取り出した。
「わあ、楽しみ。どれどれ…」
一分足らずの再生画像を桃子が見つめる。
「やったわね、凄いじゃないの…でも、微妙ね」
「そうなんですよ。やはり、どうしたら良いのか姐さんに相談したくて…」
「ご注文はお決まりでしょうか?」
再び店員がやって来た。二人は湯葉刺しと刺身の盛り合わせを取り敢えず頼む。
店員が去ると桃子が告げた。
「これだけだと放送は難しいわね…」
「姐さん、国情筋にまた当てることはできませんか?」
「それは出来ると思うけれど、この映像を見せる訳には行かないでしょう?情報を当てるだけで応えてくれるかどうか…どんな反応が取れるか…自信は持てないかな…」
「やっぱり際どいことになりますか…」
「絶対にそうなると思うわ。でも、ここまで来たら進むしかないと思うけれど」
二人は暫し押し黙る。考えてもまた堂々巡りになる。
料理が来た。
「ねえ、食事を済ませたらルークさんにちょっと会いに行かない?日曜日だけれど、家に居れば少しくらい時間を取ってくれるわよ」
湯葉刺しを山葵醤油に浸けながら桃子が提案した。
「そうですね。私、連絡してみます」
菜々子はルークにメッセージを送った。
返信は直ぐに来た。やはり年寄りは気が早い。
「八時頃に店を開けて待って下さるそうです」
二人は食事の追加注文をし、大友達の定点観測の様子などを話しながら時間を潰した。
二人がオーフ・ザ・レコードの前に着くと店は既に灯りを点けていた。桃子が呼び鈴を鳴らした。すると鍵が外れる音がし、ドアが中から開いた。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ」
出迎えた店主はいつものすきっとしたベスト姿ではない。ジーパンに柄シャツ、パーカーを着ている。
「すいません、日曜日に」
桃子がこう挨拶した。
「おはようございます。お世話になります」
菜々子が続いた。
「さて、この間の森伊蔵がまだ残っているからお湯割りにでもするかい?」
「あ、良いですね。お願いします」
「すいません、私は水割りをお願いしても良いですか?」
呑兵衛の二人が各々応えた。
酒の用意をしながらルークが尋ねた。
「まだちょっと寒いかな。すぐに暖房が効いてくると思うけれど…日曜日に二人揃ってお出ましとは何か進展があったんだね?」
「はい」
菜々子がタブレットを取り出し、映像を再生した。ルークは手を止め、じっと見つめる。
「うーん…」
お湯割りと水割りを其々の前に置き、付け加えた。
「もう一回再生してくれる?」
ルークはタブレットに触るのが好きではない。
「直観では大当たりなんだが、しっかりした補強材料が必要だね。できれば2か所から」
二度目を見終えるとルークも無邪気な対応を戒めた。
「私達も似たような意見なんですが、どうしたら良いと思いますか?」
桃子がストレートに問うた。
「フランス当局が素性を確認しているのは確実だけど、彼らが認める筈はないよね。正男の時でも入国したことさえ認めなかったんだからさ。それに伝手も無い」
二人が頷いた。
「国情も分かっている可能性は高いが、桃子が裏で当たっても現時点では認めてくれる可能性は低いよね。その後どうなるか余りに不透明だしさ。下手すればこっちの手の内を晒すだけになる。どう思う、桃子?」
「その恐れが強いと思います」
「やっぱり行き詰まりですか…」
菜々子が嘆息した。
「取り敢えずすぐに出来そうなのはお姫様の身元の確認ぐらいかな…、パリの映像ではなくて、学校の写真を見せて、これは総書記のお子さんでしょ?と尋ねる分には感触は取れるかもしれない。何せ、公開されている写真だし、パリの動きとは無関係のものだ」
「それなら、私…或いは矢吹でも出来るかもしれません」
桃子が応えた。
「問題はその先だな…仮に総書記の娘と断定できたとしても、患者が総書記と断ずるにはまだ足りないよね。総書記は習主席と会談して平壌に戻っていることになっているのだから、流れからすれば患者はせいぜい兄貴の方になる。そして、仮にそう報じても公式に全面否定されたら大誤報扱いされて非難される…」
「幾ら状況証拠を並べて説明しても無理ですよね?」
菜々子は藁にでも縋りたい表情だ。
「国情筋が後から裏で断定情報を流してくれれば別だが、まずは放送可能で、かつ明確な根拠が要るだろうね。それ無しに先走ると酷い目に遭う」
「それに中国も全面否定するでしょうね、きっと。別人と気付かずに首脳会談をして大規模支援に乗り出したことになってしまいます。面子丸潰れです」
桃子が補足した。
「中国政府も全く知らない筈はないですよね?でも、分かっていて支援に乗り出した。ADE株を退治する方が遥かに大事ですから…やはり、そういうことですか?」
菜々子はもはや膨れっ面だ。
「その方が自然だな。そうでなければ習近平政権は大間抜けということになってしまう。中国政府も絶対に認めないな…菜々子が知り合いに訊いても変わらないだろうし、相当、上の方じゃないと知りもしないだろうしね」
「つまり、現時点では、この映像を流せば、メトロポリタン放送は世界中から総攻撃を受けてしまう恐れがあるということになりますね…」
「そうだろうね」
「また壁に当たりましたね」
菜々子が再び嘆息した。
「時期を待つしかないね。然るべき時期を」
ルークが慰めるように言った。
「どんな時なら大丈夫でしょうか?」
菜々子は当然諦める気など無い。
「それは分からないね。少なくともADE株が消滅して、封じ込め作戦が目出度く、何事もなく終わらないと無理だろうね。誰も積極的には否定しない、そのような情報もあるが確認は出来ない位の事を国情筋が言ってくれる…、そんな状況に最低でもならないと辛いんじゃないか?それでも兄の間違いではないかとあっちこっちから言われるだろうね」
「お姫様の身元確認作業をしながら、もっと情報を集めて、待つしかないという事ですね?」
桃子が確認した。
「そうだね。それに、もう一つ変数がある」
ルークが追加した。
「実験ですか?」
菜々子が間髪入れず応えた。
「そう。やるかやらないか分からないが、北朝鮮がこのまま大人しくしている可能性は低い。この間、菜々子が言ったようにね。このままだとすぐにまたジリ貧だ。その後の展開次第だけれど、結果的にアメリカが、そして、中国も、北朝鮮をもっと締め上げて態勢を揺さぶりたいと考えるような状況になれば、話は変わるかもしれない。
アメリカも今はどうだか分からないが、いずれこの事実を知るだろう。フランスや国情が知っているなら必ず把握すると考えるべきだろうね。変数が多過ぎるから判断のしようがないけれど、もしかすると出稿のタイミングは意外と早く来るかもしれないよ。楽観的に過ぎるかもしれないがね」
「すると取材は鋭意続けるしかないですね」
菜々子は幾分元気を取り戻した。
「それに越したことは無いよ。今更他に手は無いしね。ただ、兎に角先走らないことだね」
二人は頷き、桃子が続けた。
「当てるのは学校の写真を国情にだけにして、他はまだ待った方が良さそうですね。現場は医者に当たろうとするかも知れないけれど、もう少し様子を見るのが良いかもね」
「そうですね。こちらの動きを悟られてしまうのは避けるように言います」
菜々子が同意した。
そして、ルークも頷いた。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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