オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その68

長期休診

 
 
「お元気ですか?こちらは順調です」
 
 現地時間翌土曜日の朝、平壌の金正恩総書記のデスクの上にファックスが置かれていた。同じ発信者番号だ。
 
 一両日に集中治療室を出て、特別病室に移る、という意味だ。そうなれば現地のニュースをチェックするだけで封じ込め作戦も順調なことを知るはずだ。
 
 リスクを冒してわざわざこちらから連絡しなくとも事情は凡そ分かる。こういう点では西側のニュースは信用できるからだ。プロパガンダに満ち溢れた国のメディア情報だけだとそうはいかない。
 
 考え得る限りの事態を想定して、それぞれ対応策は練ってあり、それは兄弟妹三人の頭の中にある。今のところ、最上の展開だ。
 
 次の手を打つタイミングは暫くすれば指示が来る。それを待つだけだ。ファックスを手にした人物はそう思っていた…。


 
 パリ時間の朝七時時過ぎ、大友は自宅のベッドで身体に重みを感じ目を覚ました。
 
 見ると娘が腹の上に乗って笑っている。
 
「おはようございます」
 大友が朝の擦れた声で言い笑みを浮かべた。
 
「おはようございます。パパ、もう起きてね」
 
 娘は楽しそうにそういうと寝室を後にし、リビングに戻った。
 
 菜々子からの指示を受け、大友とベルナールは前日の内にパリに戻っていた。
 
 山瀬とアルヌー・カメラマンはWHO本部をカバーする為、ジュネーブに一応残していた。翌日曜日に何か発表がある可能性は殆どないので、彼ら二人も今夜パリに戻る予定にしていた。
 
 今日これからの調査で著名専門医の自宅を割り出せれば、自宅に居る可能性の高い週末に様子を窺いに行く方が効率は良い。その為にはこちらの人数は多い方が楽だ。
 
「ねえ、パパ、今度はいつ遊べるの?」
 大友が食卓に着くと娘が尋ねた。
 
「うーん、パパはまだ忙しいんだ。でも、明日少しなら遊べるかも知れないよ。少しだけね」
 大友はコーヒーを啜るとそう言った。
 
 朝食に用意されたのは例によってサラダとヨーグルトだけだ。茹卵位付けてよと思うが口には出さない。
 
「わかったー、じゃぁね」
 娘が土曜日の日本語学校に行く為、玄関に向かった。やはり楽しげだ。
 
 大友が顔を向けると妻はこう伝えた。
 
「お友達が出来たみたいよ」
「あ、それは良かった…」
 
 新しい土地に馴染むには仲の良い友達が出来るのが一番だ。帰国子女だった大友は自身の経験からもそう確信した。安堵で目に涙が滲む。
 
「じゃあ、送ってきますね。摘まみ食いは駄目ですよ」
 
 妻が言った。
 
 大友がオフィスに着くとベルナールと共に早速、肝臓の有名専門医を検索し始める。
 
 パリに本拠を置く肝臓外科と肝臓内科の著名医合わせて四人のリスト・アップは比較的早く終わった。他の都市、例えばリヨンまで手を伸ばせば勿論もっと居るが、多分、その必要は無い。
 
 それぞれのプロフィールや写真、勤務先、個人クリニック等の情報を更に検索する。自宅住所まで割り出すのは今や簡単ではない。
 
 全員、大病院で幹部を務め、プライベート・クリニックの経営・診療にも関わっていた。
 
 大友にしては珍しく、ランチもさっと終え、午後も一心不乱に検索を続ける。
 
 すると一人の医師の個人クリニックが現在、長期休診中であることが判明した。
 
「事情により現在、当クリニックは休診中で、イースター明けに再開する予定です。予約を希望する方は…」
 
 リスト・アップされたパリ第二十一大学医学部教授で付属病院の肝臓外科部長を兼ねるアラン・パスカル医師の個人クリニックのウェブ・ページが、こう告げていた。
 
 ネットやSNSの検索でチェックした限り、他の三人に特に変わった様子は無い。
 
 夏のバカンス・シーズンならいざ知らず、この時期に個人クリニックを休診するのは、何か特別な事情を抱えている可能性があった。
 
 著名な外科医は自分が務める病院やクリニックにおいてのみ執刀するとは限らない。
 
 良く知られている例としては、平成の天皇の心臓の冠動脈バイパス手術をした教授は、自分が務める大学病院ではなく、東大医学部の附属病院に招かれ手術を行った。また、通算ホームラン記録を持つ王貞治氏の胃の腹腔鏡手術をした医師は全国の病院から引っ張りだこになり、各地を飛び回っていたと言われている。
 
 パスカル医師も、どこか遠くの病院で手術を請け負った可能性はあるが、仮にそうだとしても、イースター明けまで一か月以上も個人クリニックを休む理由にはならない。
 
 本人が体調不良で休んでいる可能性もあるが、更に調べる価値有りだ。
 
 ベルナールは大学医学部のウェブで教授の授業予定を調べようとしたが、関係者でないとログイン出来なかった。個人クリニックに電話をしてみたが、予想通り、留守電がウェブ・ページと同じく長期休診を告げていた。
 
「患者の振りして附属病院や教授の研究室に電話をしてみるか…」
 
 大友はそう考えたが、もう日が暮れ始めていた。
 
「これは月曜日にするかな…」
 
 しかし、患者でもないのにそう装って取材するのは倫理的に好ましくない。
 
 取り敢えず、この日の残りの時間は自宅の割り出しに集中する。そして、翌日曜に山瀬と一緒に、リスト・アップされた四人の医師の個人クリニックと勤務場所、そして、運良く割り出せたならばだが、自宅の様子も見に行くことにした。張り込みが必要になった時の為のロケハンだ。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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