オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ 48~60
音声ファイル
「それで、彼女の姿を最近全然見ないものだから訊いてみたのよ。そしたら、ちょっと事情があるらしいが、詳しいことは知らないって。でも長期欠席をしているのに理由を知らないって変でしょ?」
「誰がそう言ったの?」
「レーラー・フリードリヒよ」
「でも、前に一度、少し戻ってきた時にお土産よって言ってパリでしか売っていないチョコレートを持って来ていたから、パリにでも行っていたんじゃないの?」
「でも、何しに?単に遊びに行って学校を休むのがそう簡単に許される筈はないでしょう?もう帰国するのかしらね?」
「分からないわ。また特別扱いかもね。何と言ってもノードリヒ・プリンツェッスィンなんだから」
「あの国の事だから、何があっても不思議ではないでしょうけれど、レーラー・フリードリヒも甘いわよね。学校を休んでパリ行きを許すなんて…何か変よね」
「でも、まあ、関係ないわ。そんなに親しいわけじゃないし…」
「そうね。私達にはよそよそしいものね。関係ないわ」
音声のクオリティーが良くない為何度も聞き直し、欠落している部分を推測で埋めると、日本語訳はこうなった。
「これは当たりだわ…」
菜々子はそう確信し、大友に訳文を送った。同時に、これを読んだら直ぐに連絡するよう指示した。
次いで、桃子に至急会いたい旨メッセージを送る。ウラを取るには彼女の情報網に頼るのが一番だ。
桃子からすぐに折り返しがあり、その日の夜、近場で落ち合うことになった。オーフ・ザ・レコードは休みだった。
遭遇
「煙草を一本恵んでくれないか?」
WHO付きの運転担当・黄正民が平壌総合病院の裏口近くの駐車場でタバコを吸いながら待機時間を潰していると、病院の職員と思しき男が近寄ってきて、こうせがんだ。
任務中の喫煙や任務に無関係な地元住民との接触は厳に禁じられていたのだが、喫煙姿を見られてしまった以上、無下に断り、密告でもされたら困る。黄は黙って一本差出し、男が受け取った煙草に火を点けた。
すると男は「カムサムニダ」と言いながら至近距離でくしゃみを二回した。タバコを吸っていた関係でこちらもマスクは外していた。
「悪いが離れてくれ。」
黄は直ぐにそう言って男を遠ざけたが、飛沫を吸い込んでしまった可能性は高い。
「まずい。一箱丸ごと渡して直ぐに遠ざければ良かった」と黄は少し後悔した。
ただ、防護服を着ていたが、男の格好は医師や看護師のものではない。ゴミ置き場に戻って行ったことを考えると下働きの職員だろう。彼が患者から感染している可能性は低いし、自分は治療薬の予防服用をしている。
黄はたった今の遭遇を忘れることにした。報告などしたら具合の悪いことになる。
黄正民は中国人民武装警察瀋陽軍区局地警備部隊に所属する武警の兵士だ。日本で言えば機動隊の役割を果たす地方部隊で普段は運転担当を務めている。しかし、朝鮮族出身で言葉が分かる為、封じ込め作戦ではWHO付きの運転担当として配置された。
「予定では後三十分か…」
黄は腕時計で時刻を確認するともう一本火を点け、大きく吸い込んだ。
国境の向こう側の遼寧省の寒村が地元の黄に寒さは気にならなかった。封鎖が続いている北朝鮮の陰鬱なムードは嫌だったが、この時期はどのみち何処でも似たようなものだ。
黄は次の任務として、今夜、遼寧省の補給所にWHO用の生活資材を取りに行くよう命ぜられていた。本隊が到着するので補充する必要があったのだ。
WHO用の生活資材は洗剤やトイレット・ペーパー等何をとっても彼から見れば高級品で、他とは違った。食料も西側の物が多かった。
「少し持って行けば、彼女もきっと喜ぶだろうな…」
そう考えると黄は少しやる気が出て来た。
根元まで吸い終わった二本目を踏み消すと黄は車に戻った。
缶詰生活
ホテルの部屋から見える国境の中朝友誼橋のトラックの往来は土曜日もそれ程変わらなかった。
最初の頃より台数は幾分減って渋滞が緩和されたようだったが、午前は中国側から北朝鮮へ、午後二時を境に逆方向に移動するトラックの流れは日中に限って言えば基本的に途絶えることは無かった。
新しい事と言えば、前夜は夜の十二時から朝の六時過ぎまで流れがストップしていたことぐらいだ。封じ込め作戦が順調に推移している為か深夜の移動を停止し、運転手達も夜は休めるようにしたのかも知れないと戸山は思った。
丹東で取材を続ける戸山昭雄は、その旨を原稿風のメモにまとめると往来映像と共に東京のデスクと北京支局に送った。同時に、夜間の移動停止が昨夜だけの例外なのか、それとも支援物資の運搬時間が昨夜から変更されたのか、一緒に取材を続けるスタッフと北京支局に確認を依頼した。
他は特にやることも無い。
外出が禁止されている為、地元住民やトラック運転手にインタビューをすることも出来ないし、気晴らしの散歩にも出られない。
ただ、ホテルの中の移動は自由だったし、一階のレストランは営業していた。会話は原則禁止でメニューも限られていたが、宿泊客は自由に利用できるのが救いだった。
特に異状事態が発生しなければ、次の日曜日には北京に一旦撤収し、折を見て、再び丹東に戻って来ることになるのだろうと戸山は期待していたのだが、撤収時の二週間の隔離と来訪禁止措置のせいで、それもままならない。
戸山班の丹東缶詰生活は六日目に入ったが、終わりが全く見えないのが憂鬱極まりなかった。しかし、東京のデスクに愚痴を言っても、所詮、まだ六日目だ。「ま、腹を括って取材するんだな」程度の反応しか返ってこないのが目に見えていた。
戸山は任地のソウルで彼の帰りを待つ妻と子供とヴィデオ・チャットをすることにした。テレビでCCTVやCNN、BBCをずっと見ているのも流石に飽きが来る。
「あら、ご苦労様です。順調ですか?」
妻が応えた。
「大丈夫さ。そっちは?」
「大丈夫よ。ひな子も元気よ」
「パパ―、何しているの?」
三歳になったばかりの娘の無邪気な顔も見えた。
「パパはお仕事が忙しくてね。ひな子ちゃんは元気ですか?」
「げんきー。ねえ、パパ、いつ帰って来るの?」
「まだ分からないよ。早くひな子に会いたいな」
「ひな子も早くパパと遊びたい!」
「もうちょっと待っていてね」
「うん、わかったー、じゃね」
そう言うと娘は画面から消えた。可愛い盛りの娘に会えないのがより辛い。
「外出禁止なんでしょう?ちょっと退屈なんじゃない?」
「そうかもね。ま、やることが全く無いという訳じゃないんだけれど、暇を持て余し始めたよ」
「二週間の隔離もあると聞いたから、戻るのは大分先になるわね」
「悪いね。よろしく頼むよ」
「慣れているわ。大丈夫よ、きっと」
「そちらも気を付けて。場合によっては実家に里帰りしても良いからさ。兎に角、元気でいてくれよ」
「ありがとう。余りにも長くなりそうなら考えるわ。また連絡を下さい」
「了解。じゃあ」
余り長く話していると里心がもたげてくる。戸山はヴィデオ通信をこの辺で打ち切った。
戸山はまだ三十台半ばだ。妻を掻き抱く場面がすぐに脳裏に浮かんだが、頭を振るって邪念を払い落とし、溜息をついた。
ベルン取材
スマホから映画・スター・ウォーズのダース・ベーダーのテーマ曲が流れ、大友祐人はジュネーブのホテルで目を覚ました。
朝四時だ。血圧の高い大友にとって朝は苦手ではなかったが、それにしても早過ぎた。体は重い。
のそのそと起き出すと、用を足し、バスタブのお湯の蛇口の栓を捻り、歯を磨く。そして、磨きながらスマホをチェックした。
頭はぼーっとしていたが菜々子から届いた訳語を読む。
「当たりか…」
まだ半信半疑だった。もう一度目を通す。
ようやく脳味噌がフル回転し始めた。
「予定通りベルンに向かい、張り込みます。また連絡します」
取り敢えずそう返信するとペットボトルの水を飲み、風呂に入った。ざーっと湯が大量に溢れる。やる気も漲ってきた。身体を洗い、髭も剃り、手早く身支度を整えた。
「飯はどうしよう。やっぱり少しは胃袋に入れるかな…」
朝五時半の出発予定まで二十分。流石にまだ腹は減っていなかったが、張り込み中にひもじい思いをするのは避けたかった。
一階に下りるとレストランはまだやっていない。開いていたコーヒー・スタンドでカフェ・オレとクロワッサンを六個買い求めた。すると間もなくベルナールも来た。彼女もコーヒーを購入した。
「おはよう」
「おはようございます」
大友が録音した中国語の会話の内容を説明するとベルナールも目を輝かせた。眠そうだった顔が引き締まる。
「さあ、行こう」
大友はそうベルナールに声を掛け、連れ立って駐車場に向かう。今回は、それぞれ車を運転して、二台でベルンに向かう。
ターゲットが前夜と同じ車で同じアパートから出てくれば良いが、そうとは限らない。なので、一台より二台の方が良いだろう。大友はそう判断したのだ。
運転しながら、三個目のクロワッサンを口に入れると、車内に再びダース・ベーダーのテーマ曲が響いた。今度は菜々子からの電話だ。大友は目覚ましのアラーム音と国際取材部長からの電話とメッセージの着信音にこの曲が流れるようスマホをセットしてある。
「おはようございます」
クロワッサンを無理やり呑み込むとイヤホン・マイクで応えた。
「おはよう」
菜々子の優し気な声が聞こえた。
「いきなりついていたわね。当てでもあったの?」
「いやー、ほんと偶然です。まさにデブも動けば棒に当たるです。ラッキーでした」
「ほんと?ラッキーだったわね。でも、大変良く出来ました」
またお褒めの言葉に預かった。大友は気分を更に良くした。
「土曜日に学校が割れると良いのだけれど、いずれにせよ先は長いわね。騒ぎにならないように慎重に事を進めてね。また連絡してください」
「合点、承知の介です」
「よろしくね」
菜々子との会話はひとまずこれで終わった。大友は四個目のクロワッサンを食べ始めた。
菜々子が言うように確かに先は長い。学校を割り出しても、その後、北のお姫様を特定し、人定をしなければならない。そして、仮に、お姫様が金王朝の娘の一人だったとして、それが王朝の動きとどう関連するのか現時点では全く見当もつかない。
蓋を開けてみれば、ニュースにならない可能性も十分にある。まだ、海の物とも山の物とも判然としないのだ。それでも、何か大きなネタが掴める可能性があれば、多大な費用とエネルギーを使ってでも取材する。それがメトロポリタン放送国際取材部の伝統になっていた。
放送するに値する結果が出るまで上層部にも全く報告しない秘密保持と少人数による隠密取材はルークが徹底し始めたやり方だ。失敗したらロスは大きい。それだけに一人一人の特派員の力量が問われる。
当然、指揮官たる国際取材部長から現場への要求はきつい。特派員達のスマホで、部長からの着信音にダース・ベーダーのテーマ曲が使われるようになったのはルーク部長時代以来なのだった。
国際学校
出発からおよそ二時間後、大友達は張り込み現場に到着した。
前夜確認した中国人女子学生が住んでいると思われるアパートの駐車場出入り口の前後に停める。路上駐車の車が他にもそこそこある為、見通しにはマイナスだったが、車を停めていても目立たない。
中央分離帯があり、出口からは右折しか出来ないのが助かる。大友は出口の後方に、ベルナールは前方でエンジンを止めて待機し、出入りする車をチェックする。エンジンを切って座っていると少し寒いが、ノイズで近所の人間や通行人に訝られても困る。車内のエアコンは寒さが我慢できなくなったら時々入れることにする。
土曜日ではあったが、出勤時間帯とあって出入りは結構あった。しかし、昨夜と同じ車は出て来ない。
張り込んでから小一時間程経った八時前、一台のセダンが出て来た。車の色が違うが、運転しているのは東洋人風の男性だった。大友にははっきり分からなかったが、後部座席に二人の女性が座っているようにも見えた。
「これかな?」
ブルー・トゥースで繋いだベルナールに問いかける。車はベルナールのすぐ横を通過した。
「多分」
ベルナールが応えた。
「追い掛けて」
大友がベルナールに指示した。大友の姿を前夜の三人は間違いなく覚えているだろうが、ベルナールなら分からない筈だ。彼女の車が動き出し、後を追った。
大友はベルナールが止めていた位置に移動し、出入りのチェックを続けた。前方からの方が見易い。駐車場の出入りの様子はサイド・ミラーで確認できる。
およそ十五分後、前夜追跡したのと同じ車が出て来た。大友はミラー越しに気付く。横を通り抜ける際に確認すると運転席に一人だけ、母親と思しき女性が乗っている。他には乗っていない。
「さっきのがそうだな…」
大友はベルナールにメッセージを入れた。
「どう?」
運転中のせいだったのか、およそ二十分後、返信があった。
「車はベルン郊外の国際学校で二人の女の子を下ろして去って行きました。多分、レストランで会った子達です。どうしますか?」
「その辺りの不自然で無い場所で待っていて。今からそちらに行くから」
「アパートの前の道をそのまま東南方向に進むと三十分強です。場所は検索すればすぐに分かると思います」
「了解。少しお待ちを」
確かに検索すると学校はすぐに分かった。大友はナビに校名を打ち込み、そちらに向かった。
勿論、学校に正面から取材を申し込むつもりはない。周辺を歩き回るつもりもない。テロ警戒が続く昨今、そんなことをして怪しまれると面倒になるのは確実だったし、その後の取材がまともに出来なくなる。ただ、車で学校の外見と周辺状況を確認したかったのだ。
大友は学校に向かう途中、路肩に停まっているベルナールとすれ違った。自分は正門を通り過ぎる際、横目で学校を一瞥しただけで、その少し先をUターンして戻り、ベルナールと合流した。学校周辺に他の建物は無い。あれでは学校の出入りの張り込みは不可能だ。
途中、ベルンの北朝鮮大使館前を通過して学校との位置関係を確認しながら、一旦、ジュネーブに戻ることにした。
またもラッキーだった。中国人留学生を追う必要はもうない。筋が違うからだ。土曜日に登校した理由も分からないが、それも関係ない。
学校の割り出しはすんなり終わった。まだ九時半にもならない。次はジュネーブで昼飯だ。
「今日はイタリアンでパスタをしこたま食べよう」
大友は様々なパスタを思い浮かべた。カルボナーラにボロネーゼ、ジュノべーゼにアマトリチャーナ、ペスカトーレ…、クロワッサンを六個食べて間がないのだが、もう腹が鳴った。
菜々子には運転中に電話で簡単に報告を入れるつもりだ。その先の取材方針は昼飯の後に考え、改めて相談することにした。
寄り道
現地時間の午後四時、WHO調査団の本部が置かれている造り掛けの養鶏場跡地を黄正民は出発した。
解放軍兵士がガードするゲートで形だけのチェックを受けて通りに出ると、黄は煙草に火を点け、窓を少し開けた。それでも匂いは必ず残るが、このトラックの運転席にWHOの関係者が乗ることは無い。リュックには軽食用の饅頭と茶を入れた水筒、それにWHOの食糧庫から失敬して来たハムの缶詰二個、チーズの缶詰二個やシャンプー等を詰め込んである。二人分の治療薬もある。
国境までは何もなければ三時間程で到達する距離だが、道路事情が良くない。検問所の渋滞も予想された。多分、五~六時間は掛かる。橋が通行止めになる夜の十二時までに中国側に入らねばならないので、念の為、早めに出たのだ。それに養鶏場に居ても今日はもうやることが無い。
幹線道路は思った以上に混み合っていた。行き交う車両は大半が中国の車だ。搭載している無線に頻繁に中国語の交信が入るが、自分には関係ない。私用のスマホでもあれば好きな音楽を聴けるのだが、任務中の使用は禁止されていた。無断でスイッチをオンにするとすぐにばれるようになっていた。ただ、煙草を吸うのは上官や憲兵に見咎められない限り大丈夫だった。
二本目に火を点け、煙を吐き出すと、黄の脳裏に満面の笑みで彼を迎える彼女の顔が浮かんだ。
歳の近い彼女は彼女の祖父と自分の祖母が従兄妹同士で、親戚筋に当たる。朝鮮族の習慣では恋仲になるなどもっての外なのだが、若い二人の熱情にそんなことは関係なかった。
彼女は今回の移動ルートから三十分程寄り道すれば着く寒村で実家の離れの小さな建物に住んでいる。自分の実家も遠くない。予告無しに訪問し驚かせようかとも思ったが、それには夜遅過ぎる。黄は補給所に着いたら休憩中にメッセージを送ることにした。
ロンドン行
「そのお姫様の動きを追えたら何か出てくるかもしれないわ。大友にしては良くやっているわね」
「姐さんのお陰です。正哲情報を頂けたからこそ、取材を始められたのですから」
その夜八時頃、菜々子は桃子と麻布十番の蕎麦屋の一角で向かい合っていた。店は結構名の通った老舗で、板わさ、焼き海苔、鴨焼を摘みに二人は日本酒を酌み交わす。
「学校は割り出したみたいなんですけれど、これから先が…、姐さんならどうします?」
「そうね…、とりあえず、学校関係のSNSやウェブを総浚いしてお姫様の面を割らないと。それとパリに行っているというのは、過去の例で言うと単なる遊びの事もあるけれど、病院関係で動いている場合もあったでしょ?正男もそうだったしね…」
「そうですね…正男は確かにあっちこっち動いていましたけれど、あの時パリに行ったのは父親の診療に当たる脳外科の専門医と連絡する為でしたね」
「そう、今回もそうだとすると国情が注目する健康不安説とも平仄は合う。追う価値はあるわ」
「でも、大友一人に任せるのはちょっと頼りない気がするんです」
「コンサートの取材はこれからだったかしら?」
「そうです」
「それが終わったら山瀬も入れたら?東京から出す余裕は無いでしょう?」
「そうですね。他にもう人は出せないですし」
「凸凹デブ・コンビでやってもらいなさいよ。それしかないわ」
「姐さんもまた探ってくれますか?」
「それは勿論よ。こっちも改めて当てる材料が出来たんだから、少しはお役に立てるでしょうから」
当てるとは、この場合、記者が得た情報を別のネタ元に突きつけ、何らかの反応を引き出すことだ。より詳細な情報を更に得たいのだ。
テーブルにかき揚げが運ばれて来た。海老がたっぷり入った分厚い天麩羅だが、一流の蕎麦屋の物はサクサクだ。
「凄い。私、これが大好きなんです」
店員が傍に来た為、菜々子が話題を変えた。
「私もよ。美味しいものね。すいません。お酒をもう二本下さい。お願いします」
「お酒二本ですね。承知しました」
店員がそう言って下がると菜々子が言った。
「ルークさんや矢吹さんにも相談した方が良いと思うんですけれど…」
「ルークさんには私が来週伝えるわ。矢吹はあなたに任せます」
「有難うございます」
同期の木原桃子と矢吹淳也の関係は微妙なのだ。二人が直接相談しあうことは基本無い。しかし、ルークや菜々子を介して、取材に関しては協力関係にある。
「それにしても大友の次の連絡が遅いです。まだ移動中なのかもしれませんけど…」
菜々子が酒をちょいと飲み干し言った。
「この時間だと、どうせ昼ご飯に集中しているに決まっているでしょ。もうすぐ連絡してくるわよ」
桃子も飲み干した。
「そうですね。こっちも飲んでいるんだから仕方ないですね」
菜々子が徳利を持ち上げた。
その頃、大友はジュネーブのホテル近くのタヴェルナで、パスタ料理を堪能していた。最初のニョッキ・クアトロ・フォルマッジを食べ終え、二皿目のスパゲッティ・ボロネーゼをフォークでくるくると器用に巻き取ると大友は思い付いた。
「ベルン取材をこのまま続けると言って、ロンドン行きを止めるか…」
ロンドンは飯が不味いのが嫌なのだ。
「でも、部長がOKしてくれるかな…、駄目元で言ってみるか」
そう決めて、大友は大口を開けパスタを入れ込んだ。
「旨いなあ…」
大友はスイス料理自体を嫌いではなかった。しかし、やや無骨なものが多い。だが、幸いスイスにはフランス語圏、イタリア語圏、ドイツ語圏があり、それらの国の料理はかなり洗練されていた。ただ、イギリスではそうはいかない。星付きのレストランで馬鹿高い料金を支払えば別だが、総じてレベルは低い。イギリス人は旨味の感覚が乏しいのだ…大友はそう信じていた。
コーヒーとデザートのジェラートを待つ間に、大友はベルナールに問い掛けた。
「あの学校の出入りを張り込むのは難しいよね?」
「ほとんど不可能ですね」
「どうする?」
「学校関係のSNSをチェックするしかないでしょう。きっとどこかで出て来ますよ。アジア人の女子留学生が。それからですね」
「やっぱりね。それをやってくれる?」
「勿論です」
ベテランのベルナールは話が早い。任せておけばとことんやってくれる。頼りになるのだ。
「でも、そうなるとベルン居残りは無理、ロンドンに行かされる。あーあ」
大友はそう思ったが、これは口には出さなかった。飯だけが問題なのではない。大友にはドイツ語が通じる町の取材の方がずっと楽なのだった。また心臓の鼓動が大きくなってきたような気がした。
徒歩でホテルに戻る途中、大友は菜々子に電話を入れた。
「はい」
菜々子の声が聞こえた。
「大友です」
「お疲れ様。ちょっと外に出るわね」
そう言って菜々子は桃子に一礼すると店の外に出た。
「で、どうするの?」
「あの…、出来ればベルン取材を続けたいのですが、如何でしょうか?」
大友はやはり言うだけ言ってみた。
「もう週末でしょう?学校関係の取材は無理なんじゃないの?大使館だって難しいでしょう?何か当てはあるの?」
「いや、特にありませんが、足で取材してみようかと」
大友は尤もらしいことを言った。
「そうね…、それは大事だけれど、SNSのチェックはするんでしょ?」
「それはもうベルナールに発注しました」
「じゃあ、あなたは今はやることがないんじゃないの?それよりコンサートの応援に予定通り行ってもらいたいわ」
「行っても何も無い可能性の方が高いのならベルンで歩き回った方が良いかなと思ったもんですから…」
引っ込みがつかなくなって大友は少し焦りを感じる。
「週末のベルンだって同じでしょ。そもそも学校は張り込みが簡単に出来るようなロケーションなの?」
「いや、それは難しいです」
「では、予定通りロンドンに行きなさい」
「はあ…」
大友が気のない返事をすると菜々子が強めに畳み掛けた。
「大体、あんたはご飯が不味いから嫌だなんて思っているだけじゃないの?まともに考えたらどうすべきか分かるでしょう?」
図星だった。仕方なく大友は応える。
「分かりました。すぐにロンドンに移動します」
「イギリスのコンサートには昔、正哲が姿を現して、BBCが直撃したことがあるのよ。気を引き締めてね。それに、今後の取材には山瀬も入れるから、しっかり説明して頂戴。分かった?」
「はい」
そう応えて大友は電話を切ると、チクショーと呟きながら両手を前に差し出し、虚空で掌を開閉した。傍らを歩くベルナールが訝しそうに見る。
大友は菜々子の豊かな胸を揉みしだく自分を想像したのだ。完全なセクハラだが、何、構いやしない。言わなければ誰にも分からない。
「やっぱりロンドンに行けってさ」
ベルナールがくすりと笑った。彼女も飯が不味いからと大友がロンドン行きを避けたがっているのをお見通しだった。
店に戻ると菜々子は大友との会話の内容を掻い摘んで桃子に説明した。桃子が笑う。
「大友らしいわね。全く…奴の食欲は度し難いわ。さ、そろそろ締めに移りましょう」
「ほんと、そうですね。姐さんは何にします?」
「私は更科にするわ。ここのは真っ白でね。薫り高いの。名物なのよ」
「あ、じゃあ私もそれにします」
菜々子は手を上げ店員を招いた。
大友はホテルの部屋に戻るとロンドン行きの準備を始めた。WHO調査団の出発取材に一人で向かったアルヌー・カメラマンも間もなく戻るはずだ。その映像を東京に送ったら二人でロンドンに向かうのだ。
ベルナールはパリに戻り、SNSサーチだ。
逢瀬
黄は夜の十時過ぎに漸く友誼橋を渡り丹東に入った。
国境では中国武警のトラックにも拘わらず、北朝鮮側の国境警備員が荷台の中もチェックした。北朝鮮の人間が潜り込んでいないか確認する為のようだ。これでは北朝鮮から中国に戻る車両が渋滞するのも無理はない。
そこからはおよそ一時間半で目的地の補給所に到着した。WHO専用の資材倉庫にトラックを付けると黄は車を降りて用を足し、食堂に向かった。途中、隠し持っていた私用のスマホで彼女にメッセージを送る。
「二時間か三時間後にそこにちょっと寄る。待っていて欲しい」
食堂では知り合いに挨拶をし、他愛も無い世間話を少しした後、豚肉と野菜炒めのぶっかけ飯をしっかり腹に詰め込む。寒村出身の黄にとっては全く文句のない食事だ。腹がくちくなると頭の中は寄り道の事で一杯になった。
返信が来た。
「とても嬉しいです。待っています」
荷積み作業が終わったのを確認し、受け取りに署名すると黄はすぐに補給所を出発した。資材倉庫の作業員に「仮眠しないのか?」と問われたが、「先に国境まで行って、そこで仮眠する。国境の順番待ちが嫌なんでね」と応え出て来たのだ。
国道を外れ横道に入ってからは逸る気持ちを抑え、雪道を慎重に運転する。脱輪でもすると自力では戻せない。
少し離れた目立たない場所にトラックを停めて残りは歩く。肩にはリュック、手には調査団用のティッシュ・ペーパーとトイレット・ペーパーを抱えている。少し鼻の奥がむずむずするが、冷気のせいに違いない。辺りはもう真っ暗だが、彼女の部屋の明かりは灯っていた。雪を踏む音が大きくなり、リズムも速まる。
家の前に到着するとドアが開き、彼女が黄の胸に飛び込んできた。
ウェンブリー
前夜、ぎりぎりで間に合ったウェンブリー公演の初日の取材を終え、近くのホテルに泊まった大友は朝食を前にして大きな溜息をついた。げんなりした気持ちを抑えられない。
上等とは言えないホテルの部屋は広く、ベッドも大きかったので居心地は悪くなかったのだが、目の前に届いた朝食はどうもいただけない。フライド・エッグは油塗れ、マッシュルームは焼き過ぎ、焼きトマトは中途半端、ハッシュド・ポテトは冷凍物だ。
数少ない名物の一つとされるイングリッシュ・ブレックファストも一流ホテルなら旨いが並みのホテルで出てくるのはどうにも情けない。空腹なので口にするが、案の定、塩気も強すぎ、喉ばかりが乾く。パンはぼさぼさ、コーヒーは単なる茶色いお湯と言っても良い程風味に乏しく、美味いのはミルクだけだ。ジュネーブの朝飯の方がずっと良い。
昨夜遅く、仕方なく近くのピザ・チェーンで摂った食事もどうしたらこんな味になるのか全く理解できなかった。だから、イギリスは嫌なのだ。
エリック・クラプトンのウェンブリー・コンサート二日目の公演は直ぐ傍のアリーナで午後二時半に開演予定だった。
二日目が昼公演になったのは隣接するウェンブリー・スタジアムで、夜にイングランド対フランスのサッカーの親善試合が予定されていたからだ。同時間帯の開催は警備や交通機関への負荷を考慮すれば避けるのが当然だった。
昼には山瀬がホテルにやって来る。
バタクランと比べるとウェンブリー・アリーナは遥かに大きい。収容人数は最大で一万二千人を超える。入り口も複数ある為、張り込みは簡単ではなかった。
小型ヴィデオを持って、手分けして、駅からアリーナへの人波とメインの入口付近等で、年齢の近いアジア人をひたすら探し、追う。それしかなかった。
念の為、ロンドン市内の西の外れにある北朝鮮大使館の出入りを確認すべく、山瀬はスタッフを一人、近くに張り込ませていたが、そこで見つかる可能性はゼロに近い。正哲が仮にロンドンにいたとしても、大使館に泊まる可能性はまず無い。しかし、正哲が大使館の車を利用する可能性はゼロではなかったからだ。だが、それも望み薄だ。そもそも、正哲がやってくるという確証がある訳ではないのだ。
大友は、また溜息をついた。
同じ頃、アラン・パスカル教授も溜息をついていた。
朝の患者の容態は申し分ない。各種検査結果は想定の範囲内、拒絶反応も抑えられている。PCR検査も陰性だ。自身でやった自分の抗原検査も陰性、関係者も全員同様だ。本来なら、自分はとうに帰宅して構わないはずだったが、ADE株の出現がそれを許さなかった。
教授が自己隔離しているパリ・セーヌ南総合病院の宿泊施設は清潔で、食堂から毎回運ばれる食事も悪くなかったが、やはり息が詰まる。家族とヴィデオ・チャットでも出来るのなら多少は気晴らしになるが、外部との接触は当局から厳に禁じられていた。関係者は皆同様だが、少なくとも後十日はこの生活が続くのだ。
教授は、また溜息をついた。
全てが順調に終わっても、職務上知り得た秘密は誰にも喋ることは出来ない。独裁国家を含む外国の要人や大物ギャングの手術をした経験なら他にもあるが、自慢など以ての外だ。隔離生活に耐えながら、命を救ったという充足感と高額の謝礼金に満足するしかない…教授は自分にそう言い聞かせていた。
目撃
日曜日の午後、丁度、大友が朝飯にげんなりしているのとほぼ同じ時間帯に、菜々子はいそいそと身支度を始めた。
シャワーを浴び、入念に身体を洗うと、全身に保湿クリームを塗り、ミッドナイト・ブルーの真新しい下着を身に着けると、バスローブを羽織る。次いで、髪の毛を乾かしながら、少しずつメイクを施す。髪の毛はアップに整える。久しぶりに太田と会うのだ。自然と鼻歌も出る。
待ち合わせたのは六本木のオイスター・バーだ。
菜々子は生牡蠣が得意ではなかった。昔、中国で当たったことがあるからだ。しかし、軽くでも火が通っていれば好物だった。
「やあ」
菜々子が店に着くと太田博一は既に着席して待っていた。
「お久しぶりです」
「出張は大変だったでしょ?嫌な物も出て来たし」
「私自身はそんなに忙しくなかったのですけれど、色々心配です」
「そうだよね。でも、菜々子とこうして一緒に居られると僕は落ち着くよ。君はやっぱり素敵だからさ」
店員がやって来た。
「とりあえず、スプマンテで良い?」
太田が尋ねた。
「はい、お願いします」
「ではスプマンテをグラスで二つ下さい」
「何を食べようか?生は僕だけにするとして、ロックフェラーとチャウダー、それにフライで良いかな?他にある?」
「良いですね。それにサラダもお願いできれば」
「オーケー」
スプマンテを運んで来た店員に太田が料理を注文した。
「乾杯」
太田が杯を上げ、菜々子の眼をじっと見つめる。菜々子は頬を少し赤らめ同様に返した。
「あら」
少し離れたテーブルの三人組の若い女性の一人が小さな声を上げた。太田と菜々子の見詰め合う姿が目に入ったからだ。
「どうしたの?」
連れの一人が問い掛けた。
「ううん、何でもないわ」
二人は全く気付かなかったが、彼女は太田の元妻・聡美の部下だった。
「タイミングが合ったらまたゴルフにでも行かない?少し暖かくなって来たしさ。花粉も大分飛んでいるみたいだけれど大丈夫でしょ?」
太田が菜々子に尋ねた。
「有難うございます。もうずっと薬を飲んでいるから平気だと思います」
「何日なら大丈夫そう?勿論、ドタキャン有りでさ」
菜々子はスマホでスケジュールを確認して応えた。
「結構先になってしまいますけれど、来月の春分の日辺りの連休中はどうですか?」
「そうだね。それ位先なら、ツーサムがオーケーの所も空いているかな。探してみるよ」
ゴルフ場の多くは特に週末には三人か四人の組でないとラウンド予約を受け付けない。二人だけのラウンド、ツーサムを週末でも受け付けるコースは東京近郊では少数派だ。しかし、連休中とはいえ、本格シーズン前の三月ならまだ見つかる筈だ。
大人の恋人同士の楽しそうな会話が続く。いつものように仕事の中身の話はしない。
ゆっくりと食事を終えた二人は店を出た。勘定はいつものように割り勘だ。その姿を聡美の部下がじっと見つめていた。
二人はタクシーで菜々子の家に移動した。
玄関ドアを閉めると直ぐに太田が菜々子を後ろからそっと抱きしめた。菜々子のうなじに太田は唇を寄せる。
「久しぶり」
太田がそう囁くとゆっくりと手を這わせ、菜々子の胸に当てた。
「あ」
菜々子が思わず小さな声を出す。そのままの姿勢で二人は唇を合わせた。そして、太田の右手がゆっくり下に降りて来た。菜々子のパンツのチャックを下ろし、近付く。
「あー」
男にとって大変嬉しいことに菜々子は感度も抜群なのだ。
濃密な時間が過ぎ去ると太田は寝息を立て始めた。菜々子はそっと起き出し、玄関からベッドの辺りに散らばったままの二人の衣服を片付ける。心地よい疲労感に包まれていた。
菜々子は水を一口飲み、緩慢な動きでスマホを手に取った。
「本日も入りは特に何もありませんでした。一応、出も確認します」
山瀬のメッセージが菜々子にそう伝えていた。
菜々子はシャワーを浴びる。化粧を落とし、全身を洗うと目を覚ました太田が入って来た。
濃密な時間が、今度はゆっくりと経過した。
チップ・バティー
「やっぱり居なかったね…」
「そうですね」
「さあ、飯に行こうよ。何か旨い物を食わせてよ」
コンサートが終わり、観客の出もチェックし終えた大友と山瀬はウェンブリーから直ちに引き上げる。素早い撤収は取材の要諦の一つだ。ぐずぐず残っていても時間とエネルギーの無駄だ。
機材を片付けたらスタッフも全員解放する。日曜日だからだ。大友にずっと同行しているパリ支局カメラマンのアルヌーはパリに一足先に戻る予定だ。
「フィッシュ・アンド・チップスはどうですか?」
山瀬が提案した。
「え、あれを食べるの?単調過ぎない?」
大友が応えた。
「いや、大丈夫です。ロンドンの中心部ではなくて、ちょっと外れに有名店があるんです。そこら辺の店とは違って、冷凍物は一切使わないし、魚の種類は豊富、サラダやチャウダー、前菜類もしっかりしてますよ。そこならフィッシュ・アンド・チップスのイメージも変わります。気取らない店だし、きっと気に入りますよ。ここからそんなに遠くないですし」
「そう、じゃあ、お任せするよ」
大友も賛同した。
二人は最寄りのウェンブリー・パーク駅で地下鉄のメトロポリタン・ラインに乗る。同じ駅を通るジュビリー・ラインでも行けるがメトロポリタン・ラインなら目的地の最寄り駅までわずか二駅だ。
山瀬はアリーナの出のチェックでも成果が無かった旨、菜々子にメッセージを送り、席も予約した。イギリスに限らずヨーロッパのレストランが混むのは普通夜八時以降だ。日曜日ということもあり、六時の予約はすんなり取れた。
二人はシャーロック・ホームズの小説で有名なベイカー・ストリート駅で降り、そこからはブラック・キャブに乗る。歩いて行けない距離ではなかったが、クリケットの聖地、ローズ・クリケット・グラウンドの裏手の住宅街にポツンと立つ店はやや遠いからだ。
通りに面した店の正面入り口は持ち帰り専門だ。今ではテイク・アウトと言っても通じるが、イギリスでは持ち帰りはテイク・アウェイだ。
同様に、ジャガイモのフライはチップスと言い、上等な店は蒸かした皮付きのジャガイモを大きくカットして二度揚げする。計三回火を入れるのでトリプル・クックド・チップスと称する。手間と時間は掛かるが、ファースト・フード店のポテトとは似て非なる味わいになる。因みに日本で言うところのポテト・チップスはクリスプスと言わなければイギリスでは通じない。
横にあるレストランの入り口を入り、席に着くと大友はメニューを吟味した。
魚は定番の真鱈の他、ドーバー・ソールや平目・鰈類、エイ、サーモンもある。それも揚げるだけではない。スチームしたものもある。まだ時期という事もあり、生牡蠣も置いていた。
「へー、随分、色々あるんだね。山瀬は何をお薦めする?」
「私はレモン・ソールという奴とエイが好きですね。ここの魚は新鮮で旨いですよ」
「エイってエイヒレみたいな感じ?」
「いえ、全然違います。でも軟骨は全部食べられます。なかなか乙なもんです」
「じゃあ、その両方にする」
「え、結構デカいっすよ。大丈夫ですか?イモも付いてきますし」
「イモは片方だけでいいかな」
「あ、じゃあこうしましょう。レモン・ソールはそれぞれ一皿ずつ。エイを追加で頼んで二人で分ける。付け合わせのイモは止めて、代わりにサラダを頼むってのは?」
「イモは無し?それだとフッシュ・アンド・チップスにならないじゃん」
「それはこれでどうですか?」
山瀬はメニューの片隅に書かれた品を指差した。悪戯を仕掛ける眼だ。
「チップ・バティー?何それ?」
「まあまあ、それは見てのお楽しみ。決まりですね」
山瀬は店員を呼びオーダーした。山瀬は生牡蠣も食べたかったのだが、遠慮した。大友が得意ではなかったからだ。
二人ともラガー・ビールを飲み、お姫様取材のあらましを大友が山瀬に説明しながら待っているとサラダが来た。無骨だが、日本の感覚で言うと三人前はある。
暫くして、かなり大きな皿に溢れんばかりのチップスが来た。しかし、テーブルに置かれた皿を見ると真ん中にトーストが二枚あり、チップスを挟んでいる。どう見てもフライド・ポテト・サンドイッチだ。
「わおー、凄いね」
「これがチップ・バティーです。パンにバターを塗ってチップスを挟んだものです」
「どれどれ…」
大友は半分に切られたポテト・フライ・サンドを早速手に取り、しげしげと眺めると齧り付いた。もぐもぐと咀嚼する。トリプル・クックド・チップスとバターの旨味、塩の味が口中に拡がる。ブラウンソースやケチャップ、酢はお好みだ。
「脂と塩と炭水化物の究極の組み合わせだ。身体に悪いねー、でも、これ嫌いじゃないよ」
大友は目を輝かせ、さらに齧り付く。考えてみれば、味はかなり違うが、日本にもポテト・サラダのサンドイッチがあるな…大友はチップ・バティーの驚きの味を堪能しながらそう思った。
続いてやって来たレモン・ソールもエイのフライも悪くない。ジューシーだ。パリパリに揚がったレモン・ソールの縁側とコリコリとしたエイの軟骨を大友は特に気に入った。
「イギリス飯も悪くないじゃないの」
大友はそう言って感嘆した。
「この店、日本人は大概喜びますよ」
山瀬も軟骨を嚙み砕きながら応えた。
「何も知らないで、そこら辺の店に適当に入ると酷い目に遭うのは普通ですが、知ってさえいれば美味い店は結構あります。もっとも、こんなに沢山食べる日本人は我々だけでしょうがね」
そう、普通の日本人はフッシュ・アンド・チップス一皿でさえ持て余すのだ。
すると大友のスマホが鳴った。ベルナールからだ。写真が四枚添付されている。
「今日の収穫はこの四枚です。月曜日に作業を続けます」
厳密に言うとフランスの労働法規に抵触するのだが、仕事好きのベルナールは日曜日の今日もリサーチをしてくれたのだ。
「ありがとう。助かるよ。日曜日にわざわざご苦労様。重ねて、ありがとう」
大友はこう返信した。
大友はレモン・ソールの最後の一切れを口に入れ、写真をチェックする。
レモン・ソールは尾頭付きで、尾鰭もしっかり立ち上がるように揚げてある。中骨まで食べられるように揚げていないのが大友には少し残念だったが、三枚におろしていない平目の仲間の丸ごとのフライにそれを求めるのは無理と言うものだ。
四枚のグループ写真には計四人のアジア系女子学生が写っていた。うち二人はベルンのレストランで出会った中国系の女子学生だった。しかし、残り二人の女子学生の素性はこれだけでは分からない。大友は写真を向かいの山瀬に見せ、説明する。
すると山瀬が「あれ」と小さく声を上げた。
「知り合いでもいる訳?」
大友が茶化し気味に尋ねた。
「いや、でも、この子はどこかで見たことがあるような…」
と、一人の女の子の写真を大友に指し示した後、山瀬も最後の一切れを口に放り込む。
「うーーむ」
山瀬は記憶の糸を手繰り始めた。
その様子を今度は黙って見ていた大友は皿を下げに来たウェイターにコーヒーを二つ注した。デザートは頼まない。炭水化物はもうたっぷり摂取した。
山瀬が鞄からタブレットを取り出し、何かをチェックし始める。指先の動きから大友には画像を探しているように見える。
「これだ!」
山瀬が再び小さく、しかし鋭く声を上げた。タブレットを大友に渡す。
「多分同じ子です」
山瀬がそう言った。夜の画像が拡大されている為少しぼやけていたが、確かに同一人物の可能性は極めて高い。
「これバタクラン?」
大友が尋ねた。
「そうです。初日に見つけたアジア系の女の子です」
「また当たりだ!」
大友はそう確信した。
他人の空似の可能性はゼロではない。しかし、状況を考えればそんな偶然は考えにくい。彼女を見つけたのは偶然だが、間違いなく彼女がお姫様だ。
「パリに戻らなきゃ…、君も一緒に」
大友が言った。
「ちょっと待って下さい。もう日曜日の夜です。慌てても意味はないですよ。パリへの移動は明日で良いと思います」
浮足立った大友を山瀬は諫めた。
「確かにそうだな。そうしよう…」
大友は同意した。
「部長には僕からそう報告するね」
「お願いします。私はソウル支局に連絡します。こうなると女の子と一緒の男は北の外交官の可能性が高いです。ソウルでなら確認できるかもしれません」
ソウル特派員経験のある山瀬が言った。
「それはちょっと待って。まず部長の判断を仰ごう。この件をソウルに話しても良いと言われていないから」
「そうですか…確かに傍受も危ないし…。では、その件も部長に訊いてください」
「了解。ホテルに戻ったらメールするよ。どうせ今はもう寝ているはずだから。それと、取り敢えず、その映像のコピーが欲しいな」
「明日、USBで渡します」
「よろしく」
「部長の指示があれば東京にも送ります」
「そうだね。それも確認しておくよ」
コーヒーが来た。ちょっと生温い。
「それにしてもラッキーが重なるもんだな。どうしたんだろうね。このまま幸運が続くかな…?」
大友が期待を込めて問うた。
「まだまだです。ようやくスタート地点に立ったばかりですよ。この子が誰でパリの何処で何をしていたか、まだ皆目見当がつかないんですから。コンサートに行っただけで帰国した可能性だってある訳でしょう?」
山瀬が再び戒めた。
「あーその通りだ。先は長いね…」
大友はコーヒーを飲み干し、天を仰いだ。
この二人の新発見に先立ち、朝鮮中央放送やCCTVは日曜の夜の定時ニュースで、WHO調査団本隊の平壌到着を淡々と報じていた。週末という事もあり、ADE封じ込め作戦は少しペースダウンしたようでもあった。
特異な報道は無い。これは作戦が引き続き順調の証でもあった。
新ワクチン開発
天皇誕生日の振替え休日に当たる月曜の朝、菜々子は目覚めると朝のルーティーンを済まし、シャワーを浴びた。
終えるとバスローブを羽織り、居間のテレビのスイッチを入れる。この日の朝は太田が好むコーヒーの準備を始めた。
モーニングショーの音声を聞きながら軽くメイクをし、淹れたてのコーヒーを少し味わう。太田はまだ寝ている。その姿を見ると昨夜の乱れ様を思い出し、体の芯がまた少し熱くなる。
「ADE株は確かに脅威で、決して甘い考えで対処することは出来ないと思っています。しかしながら、必要以上に恐れるつもりもありません」
菜々子はソファーに移動し、放送を注視する。馬淵総理の声が聞こえたからだ。この日朝早く、記者達の囲み取材に応じたようだ。
「しかし、ワクチンが効かないというのが心配なのは人情だと思いますが?」
記者が尋ねた。
「それは自然なことだと思います。しかし、WHOと中国による封じ込め作戦は今のところ上手く行っています。治療薬もある訳ですから、現時点では、これまでと同様に感染対策をしながら日々過ごしていただきたいと思います」
目新しい発言は無い。
「ADE株向けのワクチンの開発についてはどうお考えですか?」
別の記者のこの問いに菜々子が少し身を乗り出した。
「それは大変良いお尋ねです。まず、ご確認頂きたいのですが、現在使われている既存のmRNAワクチンの主たるターゲットは新型コロナウイルスのSタンパクです。それを新しい技術を使って作り、言わば緊急避難的に使用したところ、非常に高い効果を発揮した訳です。それはそれで素晴らしいことです」
「成る程」
記者は相槌を打った。
「しかし、伝統的な、と申しますか、一般的なワクチンは、ウイルスを不活化したものが多く、そうしたワクチンならSタンパクだけではなく、ウイルスのNタンパクと言う別のものにも多分作用しますし、ウイルスに感染した細胞をウイルスごと消滅させるTセル細胞の働きも一層強化します。そう理解しております。つまり、Sタンパクへの抗体を悪用するADE株にも効果が期待できる可能性があるわけです。
医薬品業界は、Sタンパクを標的にするワクチンだけでなく、不活化ワクチンのような効果を上げるワクチンの開発を続けておられまして、その内の幾種類かは既に実験室レベルで治験が始まっております。完成と言えるようになるまでには、まだもう少し時間が掛るようですが、状況次第では、こうした新しいタイプのワクチンを再び緊急避難的に使用することもあり得ると思っています」
この発言内容は新しい。新しいワクチンの緊急使用の可能性に総理が言及したのはニュースの見出しになるだろう。
「その新しいワクチンが使えるとなった暁に、入手の手筈はどうなっておりますか?表現は良くないですが、奪い合いになると思われますが…」
「既に担当大臣がメーカーと連絡を取り合っています。然るべき段階に至りますれば私自身が交渉に乗り出すつもりです」
「それは期待して良さそうですね」
「そうかも知れません。当然、我々としては最善を尽くすつもりです。しかし、その前に、封じ込めが完了して、ADE株が地上から消えることを願っております」
「総理、有難うございました」
囲み取材が終わった。振替休日の朝に官邸で総理が記者の取材に応じるのは異例であった。現下の事態に休日返上で対処する政権の姿勢を国民にアピールする狙いもあるようだった。
「おはよう」
背後から太田の声がした。
「あ、おはようございます。お水かコーヒーを如何ですか?」
少し顔を赤らめながら菜々子が尋ねた。
「取り敢えずお水を下さい」
菜々子が冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をコップに入れて渡すと太田は一気に飲み干し、こう言った。
「今、総理が言っていた新しいワクチン、結構、有望みたいだよ。取り敢えずシャワーを浴びてくる」
そう言って太田が浴室に消えた。ワクチン開発の状況把握は厚生労働省がメインのはずだが、アメリカの医薬品企業の動向の確認は外務省の太田の部署の仕事の一つでもあった。いずれにせよ悪い報せではない。
菜々子は朝食の支度を始めようとキッチンに行こうとしたが、スマホのチェックをまだしていないのを思い出した。確認すると大友のメッセージが吉報をもたらしていた。
「もう見つかったのね。おデブ・コンビ、ついているわね」
菜々子は翌午前中に山瀬と共にパリに戻るという大友の提案を追認し、画像はパリ支局に戻ってから本社に送るよう指示した。ソウルへの確認作業依頼は自分がやると伝えた。ヨーロッパとソウルの交信は余計な注目を集める恐れもあるからだ。
菜々子は目玉焼きと焼きトマト、トーストにコーヒーの朝食を手早く準備する。料理はそれ程好きではないが、不得手でもない。造りながら今後の取材の進め方を少し考えたが、直ぐに止めた。今日は少しのんびりしたい。
朝食を終え、菜々子が洗い物を始めると、太田がまた背後から、そっと菜々子を抱きしめた。
「まるで若い新婚さんみたいだよ」
太田がこう耳元で囁き、唇を寄せた…。
無症状感染者
「一回目の検査数は既に一千万件を超えました。総人口の三人に一人以上に対して最初の検査が終わっています。うち80パーセントは抗原検査で、残りはPCR検査です。
そして、陽性は二千八百六十七件、陽性率0.03パーセント以下ということになります。感染爆発と言うには程遠いレベルです。このうちADE株の感染は千三百五十四件、残りは既存株です」
現地月曜昼前、WHO調査団先遣隊のコールター博士は最新の状況を養鶏場跡地の臨時拠点に前日到着した本隊メンバーに説明し始めた。
「説明すべき順序は逆かもしれませんが、注目すべきは無症状感染者の数です。この先に光明が見えると言えるかもしれません。
無症状感染者はおよそ千九百人、陽性者の三分の二程もいまして、ほぼ全員がワクチン未接種者、うちADE株陽性で無症状の人間は百五十八人でした。つまり無症状感染者のほとんどがワクチン未接種者で、かつ、その圧倒的多数は既存株に感染しているということになります」
団長のアッフマン博士が眉を上げ、先を促した。
「勿論、詳しい研究が必要ですし、楽観に過ぎるかもしれませんが、こうした数字から導き出される推論は、ワクチン未接種者の間に限れば、既存株の方が圧倒的に優勢で、それに比べればADE株の感染力はかなり劣る。そして、ADE株に感染しても、ワクチン未接種者に対する毒性は低いという可能性です」
コールター博士は続けた。
「当然ながら、陽性者は全員隔離されていて無症状でも治療薬が投与されています。濃厚接触者も全員隔離され、予防投与もされています」
「重症者と死者の状況はどうなっていますか?」
アッフマン博士が割って入った。
「中等症・重症で治療を受けている患者は現在百八十二人です。うち十人は既存株ですが、どちらも重篤な状態まで悪化した患者はごく少数だそうです。
これまでのところ死者は十八人、全員、高齢者でかつ心臓や呼吸器などに元から疾患を抱えた人や癌や糖尿病患者ばかりでした。そして、この十八人中十六人がADE株感染でかつワクチン接種者でした。
陽性者と濃厚接触者には直ちに治療薬が投与されている為か、死者や重篤患者の割合は恐れていた程には多くないと評価できるかもしれません。
ただし、こうした数字は封じ込め作戦が始まってから中国側が纏めたものでして、作戦開始以前のデータは含まれていません。以前のデータは北朝鮮政府が明らかにする気配がありません」
「そうですか…、ADE株感染だけについて纏めると現時点で感染者は千三百五十四人、うち死者は十六人、中等症・重症患者は百七十二人、無症状が百五十八人、残りは軽症で、多数がワクチン接種者ということですか…」
「そういう事になります」
コールター博士が応えた。
「確かに感染力は比較的強くないとしても、ADE株被害は少ないとは言えませんね。油断は出来ません」
アッフマン博士が皆を戒めた。
「検査はワクチン接種者を優先的にやっていると聞きましたが、その通りですか?」
アッフマン博士が更に尋ねた。
「そうです。ワクチン接種者、総人口の20%足らずだそうですが、そうした接種者への抗原検査はもう一巡したそうです。
ただし、抗原検査だけですと、偽陰性もありますし、潜伏期間で引っ掛からないケースもありますので、抗原検査の結果に拘わらず、ワクチン接種者へはPCR検査も同時進行で優先的に行われています」
「とすると、ADE株感染者は、まだ出てくる可能性がある訳ですね」
「そうです。濃厚接触者の中から、これから検査に引っ掛かる人間がいるでしょうし、新たに感染する者も出てくるでしょう。しかし、厳しい外出規制がありますので、予断は出来ませんが、ADE株の感染拡大が峠を越えるのはそれ程遠い将来ではないと期待して良いと思います。発動からまだ一週間程ですが、作戦は今のところ非常に上手く行っていると言えるではないでしょうか」
「ある程度予想されたことかも知れませんが、感染力がそれ程強いとは考え難いのは確かに救いです。治療薬が効くのも安心材料です。しかし、新規感染者がゼロになるのは多分少し先でしょうし、その状態が最低でも二週間、いや四週間は続くまで、着実に作業を続ける必要がありますね。
何よりも、万が一、こんなものが漏れ出して世界に拡がったら、検査キットも治療薬も全く足りません。この国で展開されているような徹底的な封じ込め作戦を出来る国は限られます。
皆さん、気を引き締めて、任務に当たってください」
アッフマン博士が改めて檄を飛ばした。ほぼ全員、緊張した面持ちで頷く。
「ところで、住民の様子はどうですか?騒ぎや混乱はありませんか?」
「驚く程協力的、と言いますか、従順です。食糧支援が行き届き始めた為か、一般市民はむしろ今はハッピーなんだという話さえあります」
「混乱が無いのは何よりですね。先進国ではこうは行かないでしょう」
アッフマン博士が応じた。
「個人的な感想めいてきますが、私は、食糧支援がほとんど無かった普段の生活が余程厳しかったのだろうと同情します。ADE株への不安より、食糧支援の喜びの方が遥かに大きいようですから。この国で庶民が生きて行くのはそれ程大変だという証ではないかと、空恐ろしくなりますね。もっとも逆らうと良くて強制収容…」
アッフマン博士が途中で制しながら言った。
「そう言った発言は、もう二度としないようにお願いします。我々の任務にはプラスになりません。皆さんも肝に銘じてください」
独裁国家と貧困国の実情をよく知るアッフマン博士は直ちにコールター博士と団員に釘を刺した。
「それは大変失礼しました。以後、気を付けます」
コールター博士が素直に応じた。コールターにもアッフマンの言う事は勿論理解できる。
こうした発言が北朝鮮当局に筒抜けになる恐れもある。内容は誤りではないとは言え、コールターは自身の不明を恥じた。
一行は、翌火曜日からの任務の段取りを入念に確認し始めた。
ヴィデオ・リリース
その日、月曜の午後、金正恩総書記は、平壌の地下施設の一つで、リリースされたクラプトンのバタクラン公演のヴィデオを大画面の液晶テレビで再生していた。
総書記はギターを抱えていて、曲に合わせて自分も演奏する。音量はどちらも抑え気味だ。すると妹の与正が入って来て目の前のコーヒー・テーブルに白紙の紙を置いた。これで2枚目だ。
総書記が黙って頷くと与正も何も言わず去って行った。総書記在室中のこの部屋には総書記の兄妹以外が入ることは許されていない。
白紙の隅に送信者の電話番号だけが記録されている。スイスからだった。術後の経過も今のところ順調という報せだ。封じ込めも順調に推移している。
ギター演奏に自然と熱が入る。しかし、暫くすると総書記は手を止め、今後の計画を頭の中で反芻し始めた。
飛び火
現地時間月曜の朝、大友と山瀬はユーロ・スターの車中に居た。
ロンドンのセント・パンクラス駅からパリのノルド駅までは最短で二時間十五分程、距離にすると東京・大阪間とほぼ変わらない。ロンドン・ブリュッセル間も似たようなものだ。西ヨーロッパの国々の主な都市は日本人が想像するよりずっと近いのだ。
パリ支局カメラマンのアルヌーは前日のウェンブリー取材が終わった後、一足先に同じルートでパリに戻っていた。
特に機材を持っている場合、ロンドン・パリ間、ロンドン・ブリュッセル間はユーロ・スターで行き来する方がずっと楽だった。EU離脱でイギリスと大陸欧州間の移動は出入国検査が必要になっていたが、それは空路でも同じだ。
セント・パンクラスの駅ナカで買い求めた紅茶のLカップを飲み、山瀬の妻が用意してくれた特大のお握りを食べながら、大友が言った。
「有難いねー奥さんに御礼を言っておいてね。とても美味しく頂いています」
紅茶とお握りは少し合わないが、ストレートで飲むなら悪くない。イギリスのぼさぼさのサンドイッチより百倍マシだ。大友はそう思っていた。それに、久しぶりの米は何より嬉しい。
「それにしても、この先、どうやって取材を進めますかね?」
やはり、お握りを頬張りながら山瀬が言った。
「問題はそこだよな…着いたらまず山瀬はホテルにチェックインする。僕は一旦家に戻って、旅装を解く。洗濯物も溜まっているしさ。
悪いけれど昼飯は各自にして、午後三時頃に支局で作戦会議をしようよ。ベルナールも入れてさ。それで、どう?」
「そうですね。分かりました」
「では、僕は少し寝るよ。やっぱ疲れたよ」
ノルド駅到着までもう一時間も無かったが、そう言うと大友は直ぐに寝息を立て始めた。
WHO付きの運転担当・黄正民の恋人は、その夜、自宅の寝床で、鼻の奥と喉に違和感を覚えていた。なかなか寝付けない。黄が置いていった治療薬を飲むかどうか色々悩んだ末、止めた。
起き出して、水だけ飲み、寝床に戻った。
指紋
北朝鮮での封じ込め作戦は既に二週目に入っていた。特異な発表は無い。各社の特派員が伝える丹東の様子にも変化はない。
週末に本隊が現地入りしたWHO調査団は火曜日から本格的に活動を始めたと朝鮮中央放送とCCTVが昼ニュースで報じたが、平壌の検査場を視察する模様などが伝えられただけだった。
現地時間のその日夜、ジュネーブ時間の午後にはWHO本部で記者会見が予定されていたので、新しい情報が出るとすればそれまで待たなければならなかった。
「おはようございます」
夜八時過ぎ、オーフ・ザ・レコードのドアを開けた桃子が言った。
「おはよう」
ルークが応じた。
日本のテレビ業界では、その日の最初の挨拶は何時であろうとも「おはようございます」だ。夜でも何故か「こんばんは」とは言わない。
ルークが訊ねもせずに前に置いた生ビールを一口飲むと桃子は報告を始めた。
「ルークさん、かなり大きな話が入ってきました。ジュネーブ取材に行っていた大友が…」
北のお姫様の情報を大友が掴んだことや山瀬がそうとは知らずにお姫様らしき若い女性の映像をバタクラン前で撮影していたことを報告した。
「何と!運も実力の内だ。大友も山瀬もやるな」
ルークが感嘆する。
「それにしても桃子の情報はたいしたものだ。驚きのネタに繋がりそうだな。流石だよ」
今ではOB・OGに過ぎない二人に北のお姫様の情報を伝えたことは、会社から見れば間違いなく倫理規定違反だが、元はと言えば桃子がもたらした情報が始まりだ。それに、この二人から外部に漏れる心配は無い。菜々子はそう考えている筈だ。大友や山瀬も端緒情報は桃子によるものだと踏んでいるに違いない。
「さて、想像力を逞しくしてちょっとまた頭の体操をしてみようか」
ルークがこう言うと虚空を見つめ考え始めた。
「まずはクラプトンのコンサートに正哲が行くらしいという桃子の話が始まりだ。次に総書記の健康不安説、そして、お姫さの存在とパリ入り、これらがすべて正しく、かつ、繋がっていると仮定すると、何が出てくるんだろうな?」
「健康不安説の真偽とその程度が良くわかりません」
桃子が応えた。
「確かにそうだ。ADE株の話はもう明らかになったのだから、健康不安説とは関係が無いのかな…。お姫様と関係があるとすれば、ADE株の出現で正哲がパリ行きを諦め、代わりにお姫様が観に行っただけなのかも知れん。それに、実際、総書記は習近平と会談し、今は平壌に居る筈だ。しかし、それにも拘わらず、健康不安説は消えていない。
そんな話自体は珍しいことではないが、首脳会談をあんなにきちんとやって中国の全面支援を引き出した訳だから、自明の事として、総書記にそんな健康問題があるとは考えにくい」
「でも、国情だけは今も健康不安説に注目しています」
「今もか…、確かに、妙な健康不安説が流れる度に、或いは替え玉説が流れる度に、韓国がこれを否定するという事がこれまで何度もあったと記憶しているが、今回は、その韓国が妙にずっと気にしている。根も葉もないデマ情報と一笑に付すのは簡単だが、そうではないと仮定すると何が出てくる?そして、お姫様とどう繋がる?」
「お姫様とはすぐには繋がりませんね…やっぱり健康不安説は誤りなんですかね」
「では、最初に戻ってみよう。というより逆から考えてみよう。つまり、重病説は正しいという仮定を最初に置いて考えてみると…」
桃子も最初の一口を飲んだだけで考える。
ルークが再び口を開いた。
「重病説が絶対正しいと仮定すると、彼は今、どこかで臥せっているということになる。そうだとすると、北京に行ったのは別人という事になってしまう」
「それはあり得ないでしょう。替え玉が習近平とやりあってあんな合意を纏めることは出来ません」
「そうだろうな。替え玉だったら習近平と会っただけでちびっちまう…」
「そうですよね」
桃子が漸く二口目を飲んだ。
「だが、待てよ…もしも、替え玉が正哲だったらどうだ?弟と妹の考えは良く分かる。相談も出来る。周りからかしずかれるのにも慣れている。習近平とサシで堂々とやり合えるかどうかは別問題だが、絶対に無理とは言い切れない。振り付けさえきちんと守れば不可能ではないかもしれんよ」
「だとしたら、パリに行けなかったのは当然という事にもなりますね。でも、中国側が気付くでしょう、いくらなんでも。首脳会談だって受けないでしょうね」
桃子が少し笑い、ビールを飲み干した。
「そりゃ、そうだ。考え過ぎだな。むしろ、重病なのは正哲と考えた方が余程筋が通る」
「そうですね。それならあるかもしれませんね」
桃子が応じた。
「やれやれ…もう一杯飲むかい?」
「頂きます」
ルークが二杯目を渡した。
「ところで、正哲にこれまで健康不安説ってあったっけ?」
「聞いたことありませんね。でも、そんなに注目の的じゃないですからね」
「それはそうだ。家族の噂は?」
「それも耳にしたことはありません。兄と言うだけで公には何の役職にも就いていない私人ですからね。注目度は格段に劣ります」
「でも、関係は悪くないんだろうね。蟄居させられているとか、どこかに放逐されたなんて話も聞かない。実際、クラプトンのコンサートに行くなんて話があるくらい、自由に動き回れるらしいしさ」
「そうですね。そして、コンサートの話が引っ掛かる程度に国情は追っているということになります」
「正哲に子供は居るのかな?」
「今度、訊いてみます。お姫様が誰の子かというのは確かに気になりますから…」
「総書記には子供が何人いるんだっけ?」
「未確認ですが、雪主夫人が少なくとも三人産んだという説はありますね。四人と言う説も五人という未確認情報もあります。第二子は女の子と言う以外、性別は諸説あって不明です。年齢的にはお姫様は一番下の子かもしれませんね。与正氏にも子供は二人いると言われていますけれど、いずれも公式には確認されていません」
「お姫様が長い間学校に姿を見せていないと言うのも気になるね。パリで何をやっているか…」
「ほんとまだ謎だらけですよ。私もいろいろ訊いてみます」
「日本やアメリカの筋情報は訊いてもどうかな…正哲のことまでは追っていない可能性が高いし、子供の事も良くわからないんじゃないかな。現時点でそんなに真剣に追う意味はないからね。前の時だってそうだったからね。やはり国情が一歩も二歩も先を言っている筈だよね。まだまだ桃の出番さ」
ルークがそう言ってから尋ねた。
「腹減っているでしょ?今日はキーマ・カレーに目玉焼きを乗せたのと茹でブロッコリーニのドレッシング和えさ。目玉焼きは半熟が良い?それとも良く焼き?」
「半熟でお願いします」
「オーケー。暫しお待ちを」
ルークは食事の準備を始めた。そして、目玉焼きを作りながら背中越しに言った。
「そう言えば、ベルンの学校のアジア人の男の子も探った方が良いね。韓国名と言うか朝鮮名の男の子をさ。OBも含めてね。もしかしたら後継者が見つかるかもしれない。ま、もしも見つかっても、それが報道で使えるのはかなり先の事だろうけれどね」
カレーは少し温めて盛り付けるだけだ。
「あ、それはそうですね。菜々子に伝えます」
暫くして、出来上がった料理が桃子の前に置かれた。
「もうキーマ・カレーは珍しくもなんともないが、女房が作ったのはやっぱり格別だよ。ちょっと辛いかもしれないが、大丈夫だと思うよ」
「美味しそうです。頂きます」
ルークが三杯目の生ビールを注いだ。自分が飲むのは焙じ茶だ。
カウンターの向かいの壁に掛けられている液晶ミニターはBBCニュースの交際放送を映していた。普段は音声を出していないのだが、画面はWHOの記者会見の内容を伝え始めた。気付いたルークが音声のボリュームを上げる。綺麗なブリティッシュ・アクセントの英語が流れ始めた。
「ガンマⅡ型ADE変異株の感染者が北朝鮮で先週までに千三百五十四人確認され、うち十六人が死亡しました。死亡した十六人は全員ワクチン接種済みで、基礎疾患もあったと、WHOは発表しました。
既存株も含めた陽性者は全部で二千八百六十七人で、暫定的な評価ではガンマⅡ型ADE変異株の感染力は既存株に比べて低いと見られるとの見解もWHOは明らかにしています」
「千三百五十四人人か…結構多いな…これで収まるかな…」
ルークが呟いた。
BBC放送は続けて「陽性者と濃厚接触者は既に全員隔離されており、陽性者全員とADE変異株の濃厚接触者には治療薬も投与されています。北朝鮮の国外への拡がりは今のところ認められないとWHOは述べています」と伝えた。
「で、封じ込めは…」とルークが言い掛けるとBBC放送は更に続けた。
「予断は出来ないものの、WHOはADE変異株の封じ込めは十分可能との見解も明らかにしています。その根拠として、WHOは治療薬が有効なことに加え、ADE変異株は既存株に比べ感染力がやや弱い可能性が高いことを挙げています」
「成る程ね…感染者は思ったより多いような気がするが、まあ、先の見通しは悪くないということだな?」
「少し安心かもしれませんね。実際はほぼ全部、中国がやっているんでしょうけれど…」
食事の手を休めて桃子が言った。
「そうだね。現実には全部中国頼みとしても、これで疫学的なデータや見解の発表はWHOが責任を負うということになるね」
「中国の思う壺かも知れませんね。上手いですよね。文句を言う人もいないでしょうけれど」
「中国さまさまか…何か腑に落ちないが、ま、そうなるのは仕方ない」
BBC放送は専門家のインタビューを報じ始めた。
封じ込めの失敗を望む人間など一人もいないのだ。誰も明確に認識していなかったかもしれないが、世界が中国頼りの状態になっていた。
桃子のスマホが着信音を鳴らした。見ると菜々子から画像が八枚届いていた。
山瀬がこっそり撮影したアジア人の女の子と二人の男の三人組が写ったものが一枚、それぞれのアップが二枚ずつ、それにベルナールがSNSで見つけた同じ女の子と思われる別の画像が一枚の計八枚だった。画像の出所の詳しい説明と人定の割り出しを桃子に依頼するメモが添えられていた。ソウル支局長の棚橋聡にも同じものが送られたという。
桃子が写真をルークに見せ、説明した。
「ほー、この子がお姫様か…確かにバタクラン前の画像とSNSで見つけたのと同じ子に見えるね。確認は必要だが、そうだとすると金王朝のお姫様の可能性は高いね。祖母に当たる高英姫の若い頃に似ていると言われれば似ているような気もするしね」
「そうですね。そんな気もします」
桃子が同意した。ルークが続ける。
「しかし、どうやって確認するかは良く考えた方が良いかもね」
「と、言いますと?」
「いや、この写真を然るべき筋に直に当てると、こちらの手の内も全部晒すことになる。それで明確な答えが得られれば良いのかもしれないが、仮に当りでもマークがきつくなって、その先、もの凄くやりにくくなるかもしれないということさ」
「でも、他に方法は…?」
「それはそうなんだが…、どうだろう、二段階でやってみるのは?」
「二段階ですか?」
「そう、まず、手始めに男二人の人定を探る。この二人の男が北の何処かの大使館の職員であることが確認できれば、一緒に写っている女の子も北の誰かということになる。無関係ということはあるまい。そして、ベルンの国際学校に留学しているのに学校を休んでバタクランに現れたということは特別扱いされているということになる。パリで一緒に居た二人の男の年長の方の子の可能性はゼロではないけれどね。
しかし、とりあえず、そこまで確認できるかどうかやってみるのはどうだろう?男達の人定だけなら、取材相手がはぐらかす可能性はより低いんじゃないか?外交官なら調べる方法は他にもあるだろうしさ。こちらの手の内を全部晒すことにもならない。女の子の方はその後考えるというのはどうだろう?」
「何だかまどろっこしい気もしますが…」
「ま、当てる相手次第だよね。でも、取り敢えず、男二人の人定だけ桃子と山瀬が探る。その方が正解に辿り着く可能性は絶対高い。急がば回れだよ」
「うーーん…でも、確かにそうかも知れませんね。先ずそれが確認できれば私の方もその後に当てる材料が増えますから」
そう、ネタ元に情報を当て、真偽を確認したり更なる情報を引き出したい時、こちらが持っている材料が多い方が良いのは一人前の記者の常識でもある。桃子が同意した。
「菜々子にすぐ連絡します」
桃子はそう言うと、スマホにメッセージを打ち始めた。
その頃、パリ・二十区のモルティエ大通りにあるDGSE・対外治安総局の本部では、アジア担当次長のジャン・ルック・モローの元に北朝鮮担当チームのルイ・ラファエル・シモンが報告に来ていた。
「スイスから指紋データが届きました。今、照合をしています。間もなく判明するでしょう」
「分かった。とにかく間違いの無いように」
「了解です。やはりスイスの奴ら最初は渋りましたが、御指示のあった銀行の話が効きました」
「そうだろうな。分かったらすぐ報告して欲しい」
「了解です」
替え玉
パリの大友と山瀬のスマホがダース・ベーダーのテーマ曲を同時に奏でた。菜々子からのメッセージの着信だ。
「なるほどねー」
大友が言った。
「これなら取っ掛かりとしては何とかなるかもしれませんね」
山瀬が応えた。
お姫様を探す事しか頭になかった二人は先ずお姫様と一緒に居た二人の男を探せという菜々子の指示とその理由の説明に納得した。大友が直ぐに了解の返信を入れた。
「ベルナールと三人で手分けして、もう少しお姫様らしき写真を探す。同時に、二人の男の写真も探す。ベルンの大使館やジュネーブとパリの代表部の関連イベントの写真を浚えば出てくるかも知れないね」
「そうですね。これで、少しやることが明確に見えました」
山瀬は少し安堵したようだった。
「一致しました!彼こそが金正恩です」
DGSE・対外治安総局のアジア担当次長・モローの部屋に北朝鮮担当チームのシモンが息せき切って駆け込み、そう報告した。
「つまり、指紋が一致したということか…」
次長が応えた。
「その通りです。間違いありません」
シモンが興奮気味に繰り返した。
だが、次長は極めて冷静だった。暫し思案した後、こう付け加えた。
「分かった。しかし、それはベルンに以前、一時暮らし、地元の小学校に通っていた北朝鮮の少年と、今、パリに居て、肝臓移植手術を受けたカン・チョルなる人物の指紋が一致したというに過ぎなくないか?」
「と、おっしゃいますと?」
次長の反応に拍子抜けしたシモンが尋ねた。
「つまりだ…まず、ベルンの小学校に通っていた少年が長じて、後に北朝鮮の最高指導者になったという説があるのは事実だが、それを裏付ける明白な証拠を我々は持っているのかということだ。どうだ?北朝鮮がそうだと公表しているのかね?」
「言われてみれば…確かに証拠はありません」
「そういうことだ。現時点で、我々は、あのカン・チョルが金正恩総書記だと断定するに足る十分な裏付けを持ち合わせていないのだ。
反対に、金正恩総書記は北京で習近平と会談し、封じ込め作戦を始めることで合意した。そして、帰国した今は、多分、平壌の何処かで変わらず国家の指導をしている。そういう状況証拠なら幾らでもある。
仮に、あくまでも仮にだが、総書記が実は今パリに居ると我々が言って、それを北朝鮮や中国が、はい、その通りですと認める訳がないだろう。どうだ?」
「しかし、そうだとすると、中国は首脳会談をしたのが替え玉だと知らないということになりますが、それは余りにも不自然です」
「それはそうかも知れない。薄々なのか明確になのか分からぬが、もしも、替え玉だったとすれば、彼らが気付かぬ筈はない」
「ということは?」
「つまり、政治的には、北朝鮮にとっても中国にとっても、北京で習近平主席と会談した人物こそが北朝鮮の最高指導者・金正恩総書記であって、それが生物学的に仮に別人であっても関係ないということになる。それが現実になるのさ」
シモンはなお食い下がる。
「最高指導者の血統を重視する北朝鮮がそれで済むのですか?」
「同じ血統の人物ならもう一人居るだろう。見た目はかなり似ていて、立ち居振る舞いも堂々として遠目には見分けはそう簡単につかない。そして、国家の重大事に当たり習主席と封じ込め作戦発動に合意し、大規模支援を引き出した。最高指導者として何も問題は無い。
それに考えてもみろ。
あくまでも仮にだが、更なる証拠を我々が得て替え玉だと言っても、喜ぶ人間はごく少数だろう。それで封じ込め作戦が上手く行く可能性が更に高まり、北朝鮮の民主化が実現するというなら話は別かもしれない。しかし、そうはならない。むしろ、下手に混乱させると封じ込め作戦にも支障が生じADE株拡散の恐れが強まるだけだ。誰も歓迎しないぞ。アメリカも韓国も他の国も。分かるだろう?」
次長が諭した。
「…分かりました。では、これにて調査は打ち切りですか?」
シモンが確認すると次長が応えた。
「それはまた別だ。まず、厳重な箝口令を敷いてくれ。万が一にもこんな話が漏れ出せば病院周辺は大混乱必至だ。政治的に政府も我々も非常に困ったことになる。
しかし、調査と監視、警護はこれまで以上に隠密裏に続ける。何が何でも情報をシャット・アウトするのだ。そして、彼が帰国するのを待つ。他に術はない。この情報がいずれ役に立つ時が来るかもしれないが、その保証もない」
「…承知しました」
「術後の経過に異状は無いのだな?万が一、死なれでもしたら非常に厄介になる」
次長が確認した。
「はい。何も問題は聞いておりません」
シモンが応えた。
「よろしい。では、私は長官と共に、可及的速やかに大統領に全て報告する。しかし、異論は出ないはずだ」
そういうと次長は背広を手にし、シモンに退出するよう促した。
「やれやれ、とんでもないお荷物を抱えちまったな…」
次長の部屋を出たシモンはそう思っていた。
その頃、大友と山瀬、ベルナールの三人はバタクランで見つけた女の子と一緒だった二人の男を求めてパリ支局でネットの捜索を開始していた。お姫様と思しき女子高生の写真はもう一枚見つかったが、直ちに人定に繋がることはなかった。
緊急措置
「主席、懸念された事態が起きたようでございます」
翌水曜日の昼過ぎ、中国政府の中枢部・中南海にある習近平主席の執務室に片腕の劉正副主席が防疫・公衆衛生問題を統括する国家衛生健康委員会担当国務委員・趙龍雲を連れて駆け込み、報告した。
いつものように表情こそ変えなかったが、主席は手を止め、やや甲高い声に微かに怒気を込めて言った。
「続け給え」
「丹東市の北方の寒村で小さなクラスターの発生を地元当局が覚知し、解析したところ、先程、ADE株が検出されました。
直ちに一帯を封鎖し、陽性者と接触者、及び近隣の住民は全員隔離致しました。治療薬の投与も始めております。丹東市全域の全面封鎖と全員検査も間もなく開始し発表致します。詳しくは趙が報告致します」
劉副主席が畏まって伝えた。
「丹東の国境から車で小一時間程離れた村で老婆が昨夜発熱し、近くの診療所から報告を受けた市の衛生当局が採取した検体を調べたところ、ADE株に感染していることが判明致しました。同居家族や近隣住民、診療所の関係者などのPCR検査をしたところ、同居家族五人からも陽性反応が出ております。
老婆の容体は自覚症状こそ発熱など軽微なものの、レントゲン検査の結果、肺炎様の症状が見られた為、集中治療室に運ばれたと先程追加報告が挙がってきております。
他五人に今のところ強い症状はなく、通常の隔離病棟に入っております。それ以外に陽性者は現時点で見つかっておりません」
趙が補足した。
「丹東市と隣接する地区も封鎖し、全員検査せよ。遼寧省全体にも外出制限を発布せよ。直ちに、だ」
表情は全く変わらぬが、その声音から主席が極めて不機嫌になっているのが誰にでも分かる。
「仰せの通りに」
劉正は直ちに壁際の電話を取り、指示を飛ばした。習主席はその様子を薄眼でじっと見ている。
劉正の指示が終わると主席が質した。
「その家の消毒と捜索は?不審な形跡は無いのか?」
「老婆以外の陽性者の事情聴取と家の捜索は現在進行中で、報告待ちでございます」
劉正が応えた。
「それにしても何故、そんなところで…どういうことだ?」
劉正が趙を見て発言を促す。
「ご疑念、ごもっともでございます。国境と隣接する地域ではなく、かなり離れた場所で小さいとは言えクラスターが発生したのは全く解せないところでございます。孤立事例だからこそ一層理解に苦しむところです。まるで飛び火したようでございます。
丹東市中心部など国境沿いの住民や封じ込め作戦の要員に不審な症状の報告はありません。
ご案内の通り要員は毎日、国境沿いの住民も週に二回の検査を受けておりますので、陽性者が出ればすぐに分かる筈でございますが、その報告はございません。
また、その寒村の住民は外出規制が始まって以来、誰一人として村の外に出ていないのも確認済みでございます。村は補給ルートからも結構外れており、トラックなど車両や要員が立ち入るような場所でもないと存じます」
劉正が補足する。
「一体、何が、いや、誰が持ち込んだのか、徹底的に洗い出す必要があると存じます。誰かが意図的になのか誤ってなのか、その村に立ち入っていないかどうか、解放軍がすぐに調査を始める手筈でございます」
実際には解放軍の調査はこれからなのだが、劉正はまるでそれが既に動き始めているかのように報告した。
「徹底的にやって欲しい。これ以上、感染が決して広がらないように。そして、同じようなことが二度と起きないように。責任問題になるぞ」
主席は最後の言葉に少し力を込めた。二人の肝が縮み上がる。
嫌な予感を振り払い劉正が尋ねた。
「恐れながら、発表につきまして…」
「副主席はどうするのが良いと考えるのだ?」
習主席が直ぐに逆に問うた。
「はい、封鎖と全員検査をする以上隠し通せるとは思えませんので、速やかに発表致します。その理由として丹東市の外れの寒村でクラスターが発生したことも。しかしながら、新型コロナウイルスのタイプについては一先ず調査中とするのが良いのではないか考えております」
劉正が応えた。
「それでよろしい。とにかく、まず、これ以上拡大しないようにすることが最優先だ。その為にも、もう一つ、緊急措置が必要だ。北朝鮮に入った要員やトラックなどの中国への再入国を停止せよ。封じ込め作戦は続けるし、必要物資の最低限の搬入も続けるが、帰国はひとまず全面的に休止せよ。そして、これについては発表の必要は無い。作戦は続くのだからな」
習主席が言葉を慎重に選びながら命じた。
「承知致しました」
二人はそう応えると、そそくさと執務室を後にした。やるべきことは山のようにある。
「それにしても、何故、そんな所で…」
習主席は怒りを禁じ得なかった。
その理由はすぐに判明した。
感染した家族の娘の部屋の床下からある筈のない物が見つかったからだ。それはWHO調査団向けの生活用品と缶詰、そして、治療薬だった。言い逃れのしようがない。犯人探しが直ちに始まった。
WHO調査団にも、念の為、拠点外での活動を直ちに一時停止するよう内々に中国政府は要請した。その理由の説明は燃料や物資の補給にルートに問題が生じ、再点検をする為であった。
苦情電話
「丹東市郊外の寒村で新型コロナウイルスの感染クラスターが発生し、丹東市や近隣地域が全面封鎖されたと今日午後、新華社が報じました。
既に関係者は全員隔離され、治療を受けていて、更なる感染拡大は起きていないということです。丹東から戸山特派員がお伝えします」
その日の夕方、メトロポリタン放送はこのニュースをトップで伝えた。
クラスターを発生させたコロナウイルスが既存株なのかADE株なのかは調査中とだけ報じられたので緊急特番にまでは至らなかったが、各国の報道機関もこの発表に敏感に反応し、一斉に報じた。
「新華社や地元中国当局の発表によりますと、クラスターが発生したのは丹東市中心部から車で一時間程離れた寒村で、陽性者は全部で六人、全員、同じ家族ということです。
このうち、高齢の一人の症状がやや重く集中治療室で治療を受けていて、他の五人はこれまでのところほぼ無症状ながら既に隔離され、治療薬の投与を受けています。また、陽性者と接触のあった者も全員隔離されているということです。
陽性者のウイルスがADE株なのか既存株なのかは調査中と発表されています。
これを受け、中国当局は、丹東市全域と近隣地域を完全封鎖し、全員検査を開始しました。これまでのところ、同じ村や近隣で他に陽性者は見つかっておらず、感染の拡大は今のところ無いということです」
戸山が丹東のホテルからレポートを始めた。
「戸山さん、ADE株かどうかは調査中ということですが、それが一番気になるところだと思います。その可能性はそちらではどう見られているのでしょうか?」
キャスターが尋ねた。
「仮に今回のクラスターが封じ込め作戦に関わる要員の間や国境のすぐ近くの住民の間で発生したというならば北朝鮮からADE株が漏れ出した恐れが当然高くなると思います。
しかし、今回のクラスター発生場所は国境から結構離れていますし、封じ込め作戦に関わる要員が本来立ち入るような場所でもないと言われています。
勿論、予断は出来ませんが、地元メディアに登場した専門家は、既存株の可能性も十分考えられるので、調査結果を待つしかないと言っています」
「それにしては、直ちに全面封鎖・全員検査という緊急措置は大袈裟という気もしますが、如何ですか?」
「中国政府は、ケース・バイ・ケースですが、今もミニ・ゼロ・コロナ政策とも言うべき封じ込め策を講じることがあります。クラスターの発生があれば、何処で起きたのであれ、同様の措置が取られても不思議ではありません。
ただ、少し気になりますのは国境の往来です。今朝、中国側から北朝鮮に向かうトラックの数は、少し減ったようにも思えますが、物資の運び込みは継続していました。
しかし、逆に、午後、北朝鮮から中国に戻る車両が通行する時間帯に入って動きがほとんど見られなくなったのです。これに関連して、何も発表などはありませんし、封じ込め作戦自体が休止したといった情報はありません。
ですので、こちらも念の為の警戒措置として、北朝鮮から中国側への戻りの人と車両の流れだけを調査結果が出るまで一時的に止めたということなのかもしれません。
いずれにせよ、暫くは状況を注視するしかないと思われます」
「戸山さんも検査を受けることになりますか?」
「まだ、正式な連絡はありませんが、私も当然、検査の対象になると思われます。
また、丹東のある遼寧省から他の地域への移動に関しましては、元々、二週間の隔離が必要でしたが、今回の事態が落ち着くまでは。この移動も認められなくなったと理解しています」
「有難うございました。気を付けて取材を続けてください」
放送を終えて、より一層、身動きが取れなくなったこととそれが何日経てば終わるのか見当もつかなくなったことに戸山はげんなりしていた。
レポートを見ていた菜々子も心配になり、戸山に直ちに電話を入れた。戸山は放送中こそ気丈に振舞っていたが、不安でない訳が無い。
「お疲れ様―、良いレポートだったわよ」
菜々子が言った。
「有難うございます」
「缶詰取材はキツイと思うけれど、頑張っているわね」
菜々子が気遣った。
「少しは運動めいたことは出来るの?」
「いやぁー外出できませんし、ジムがある訳ではないので…せいぜい食堂への上り下りに階段を使うぐらいです。でも、食堂も閉まる可能性があるので、ちょっと暫くはそれも出来なくなる可能性がありますね」
「困ったものね…スタッフ達は大丈夫?」
「ストレスは溜まっていますね。でも、不運を嘆いてもどうしようもありません」
「そうね。ほんとご苦労様。あなた達がそこで取材をしてくれているので本社は大変助かっているわ。皆にも伝えてね」
「有難うございます。でも、この先、どうなるんでしょう?」
「うーん、状況次第よね。今は戻ることも出来ないし、大変だけれど仕事を続けるしかないわね」
「それは分かっているんですが…」
菜々子は思い付きを口にした。
「ねえ、地上波の仕事も結構あるだろうけれど、丹東の缶詰生活を日記風に書いてオンラインに出稿してみるのはどうかしら?写真と文章で、スタッフの様子も含めて。勿論、地上波が優先としても、余裕がある時にどう?毎日でなくても良いから」
「あ、そうですね。このままだとじっとしている時間の方が遥かに長いでしょうから、気晴らしになるでしょう。考えてみます」
「強制するつもりはないけれど、時々でも良いから、何かした方が精神衛生にも良いと思うわよ」
「わかりました」
「ソウルのご家族は変わりないの?」
「ええ、何とかやっています。ただ、当分、私が戻れないので実家に一時里帰りさせようかとも思っているんです。子供も小さいので」
「それも良いかもしれないわね。里帰りの航空費は国際取材部で持っても良いわよ。緊急避難と言う名目でなら通るでしょうから」
「あ、それは助かります。よろしくお願いします」
「遠慮なくね。お疲れ様。頑張ってね」
「はい、お疲れ様です。有難うございます」
これで、戸山の気持ちも少しは楽になるだろうと菜々子は期待した。
現状では代わりのチームを出すことも出来ないし、戸山班を退避させることも出来ない。誰かが丹東で取材を続けなければ国際取材部の役目が果たせない以上、彼に踏ん張ってもらうしかない。
戸山がそれ程強い性格の持ち主ではないのが菜々子には少し気掛かりだったが、希望して特派員になった以上、貧乏くじを我慢して貰うしかなかった。
暫くして、国際取材部のエリアに隣接するニュース制作部の内線電話が鳴った。通常であれば、兵隊と呼ばれる若い記者達が取るのだが、あいにくまだ夕方ニュースの放送中だった為、皆、出払っている。
それ故、ニュース制作部長の雨宮富士子が電話を取ると、交換手が雨宮にこう伝えた。
「視聴者の方からお問い合わせです」
テレビ局に視聴者からの電話はひっきりなしに入る。通常は視聴者センターという専門部署が応対するのだが、その内容次第で担当部局に転送される。そして、それが報道局に転送される場合は、ニュース制作部がまず受けるのがルールだった。
「はい、報道局です」
雨宮が応えた。
「もしもし」
「はい」
「あの、ちょっとお尋ねしたいのですが、先程、ニュースに出ていた戸山なんですが、大丈夫なのでしょうか?」
声と話しぶりから年配の女性と思われた。
「はい、あの、放送にも出ております様に元気に仕事をしております」
問い合わせてきた視聴者が戸山を呼び捨てにしたことに雨宮は気付いた。戸山と関係のある人物からの電話の可能性がある。雨宮は慎重に言葉を選んだ。
「それは見ていたら分かります。私が気にしているのは先の事です。戸山は大丈夫なんでしょうか?」
「現時点では特に問題が生じているとは聞いておりません。大丈夫だと思いますが…」
「それを保証してくれるのですか?一体、いつになったら戻してもらえるんですか?私はそれをお尋ねしたいのです」
女性の語気が強くなる。
「あの…、何処であろうと誰であろうと取材スタッフの安全確保が第一なのは当然でございますので、その点は御理解頂けると思いますが…」
「私はそんなことを聞きたいんじゃありません。一体、いつになったら彼を戻すんですか?ADE株に罹ったらどうしてくれるんですか?」
女性が激高し始めた。
「あの、御心配なのは分かりますが、現時点ではADE株の感染が広まって、彼に近づいているとは考えておりませんし、いつ戻すのかに関しましては、本人が上司と相談するのが第一と存じますので、ここでお応えすることは出来かねます。御理解ください」
「私は戸山の叔母に当たります。あなたでは話になりません。戸山の上司と代わって下さい」
「あの、申し訳ありませんが、戸山特派員の叔母様とおっしゃられても私共には確認のしようがございませんし、疑う訳では全くございませんが、たとえそうだとされましても外部の方に取材方針に関わるお話をすることは出来ません。先程も申し上げました通り、本人が上司と話すべきことと存じます。ご了承ください」
雨宮は丁寧に、しかし、きっぱり撥ねつけた。
「私が偽者だとでも言うのですか?責任は取ってもらいますからね!」
女性は捨て台詞を吐くと電話を叩き切った。
「やれやれ…」
ニュースに関する問い合わせや苦情は珍しいことでは無いのだが、スタッフの縁者からこのような電話が来ることはなかった。普通は本人の評判を悪化させるのを気にするからだ。
「心配なのは分からないでもないけれど…」
雨宮は自分がこのようなとばっちりを受けたことに不愉快を禁じえなかった。
雨宮は電話のあらましをメールにして、菜々子と加藤報道局長に送った。
活動停止
この日夜、WHO付きの運転担当・黄正民が丹東市の寒村のクラスターを発生させた犯人であることが判明した。黄が感染者六人の家族の遠い親戚に当たり、娘と恋仲にあったからだ。横流しした物品という動かぬ証拠が見つかっていたこともあり、憲兵隊の尋問に黄はすぐに白状した。
黄の行動は直ちに洗い出された。
あちこちに置かれた監視カメラで、補給所から国境に向かう途中に黄のトラックが高速道を離れ寒村の方向に向かう様子や寒村近くを通る様子も確認された。一度目を付けられたら中国の監視カメラ網から逃れる術は無い。
黄が立ち寄った補給所と食堂のスタッフら居合わせた要員全員が直ちに隔離対象になった。
WHO派遣隊のメンバーと現地の支援要員は拠点の養鶏場跡地に留まったままでいることこそ認められたが、互いの接触や外出を完全に控え、中国軍の防疫部隊の指示に従うよう求められた。
WHO調査団は事実上活動停止に追い込まれた。
「中国政府の説明によると、調査団付きの運転手の一人が丹東で発生したクラスターの濃厚接触者に該当するということだ。
彼は既に別の場所で隔離されていて、現時点で症状は無く陽性でもないという。また、幸いに、調査団関係者に陽性者は今のところおらず、彼の濃厚接触者と認定される者もいない。あくまでも念の為の措置と理解している。
この後、問題が発生しなければ早ければ五日程度、長くても十日でこの措置は解除されるものと期待している。任務が遂行できないのは極めて残念だが、暫く我慢して欲しい」
二時間後、既に現地は深夜になっていたが、調査団長のラティーフ・アッフマン博士がインターネット経由で団員達に説明した。
「クラスターを発生させたウイルスがADE株である可能性は現時点ではまだ否定されていないという理解でよろしいですか?」
副団長を兼ねるコールター博士が尋ねた。
「その通りだ。我々は予防服用もしているので、大きな問題が生じる恐れは低いと思うが、
クラスターを発生させたのがどちらの株にせよ、我々がそれをこの国で拡げてしまうようなことは絶対に避けなければならない。なので、当面活動停止は止むを得ないと考えている。
「そろそろ解析結果が出ていても不思議ではないですね。仮にADE株だったとすると、その運転担当が中国に持ち込んだ可能性が大になります。我々も気を引き締めないとなりません」
コールター博士が再び発言した。
「それはその通りだ。しかし、次の連絡を待つしか今のところ術はない。
諸君、これが既存株かADE株かは我々の任務の成否にも影響する。念の為、各位には自分の行動を反芻し、何か問題が無かったか再確認してもらいたい。特に当該運転手と少しでも接触のあったものはしっかり再確認して欲しい。疑念があればすぐに申し出て欲しい」
「分かりました」
コールター博士が応じ、他の団員達も一斉に頷く。
「本部は何と言っていますか?」
調査団の広報担当の団員が尋ねた。
「隔離はやむを得ないという点で一致している。現時点ではADE株と断定された訳ではないが、仮にそうだったとしても、我々の団員の不注意な行動が原因で拡がった可能性はほとんどない。今のところ、中国政府から配置された運転担当が原因という事になる。
我々のメンバーが直接の原因ではないという点は極めて重要だ。我々の存在意義にも関わるからだ。この推論を覆すような行動が思い当たる場合は直ちに申し出て欲しい」
再び全員が緊張の面持ちで頷いた。
万が一、ADE株の北朝鮮国外への拡大にWHOのメンバーも、知らなかったとはいえ、関わっていたとなれば、調査団のみならずWHO全体の評判が地に墜ちる。最悪の事態が頭を過り、誰もが身震いした。
その頃、憲兵隊による長時間に亘る執拗な尋問に、平壌総合病院の駐車場で清掃担当と思われる男に煙草をせがまれ渡したことや、その時、男にくしゃみを掛けられたことなどを黄は白状していた。調べると、平壌総合病院の清掃担当の男一人が発症し、既に隔離されていることも分かった。
この内容は直ちに中南海に報告された。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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