オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その67

生チョコレート


 
「ルークさん、聞いてください。戸山の親戚を名乗る人から二回も電話が入って、彼を早く返せと。ADE株に罹ったらどうしてくれるんだとかなりお怒りのようなんです。そんなことって今までありました?」
 
 夜、オーフ・ザ・レコードに到着した菜々子がビールを飲みながらぼやいた。桃子が来るのを待つ間の場繋ぎの話題に過ぎないのだが、そんな事例は珍しい。
 
「それは珍しいね。この仕事をやっている身内を多少なりとも心配になるのはいつもの事の筈なんだがね。親戚と名乗る人間が直接言って来たという話は聞いたことが無いよ」
「そうですよね」
「戸山って大きなコネはあるのかな?」
「はっきりとは知りませんが、お父様がかなりのお偉いさんという噂はあります」

「だとすると、本当に怒っているとすれば、コネ・ルートを使って何か言ってくる可能性があるかもね。そういう話なら過去にも無い訳ではないしさ。でも、そんな時はそん時さ」
「えー特派員に希望してなる以上、本人も家族もある程度の覚悟はしているんじゃなんですか?多少辛い目に遭う位は普通ですよね?」
「それはそうなんだが、色んな人がいるからね」
 
 実際、海外取材中に不慮の事故にあったり紛争に巻き込まれて命を落とすジャーナリストは世界的に見れば珍しくない。メディアを敵視する勢力から狙われ暗殺されることもある。
 
 例えば九十年代に旧ユーゴスラビアのサラエボで包囲戦が繰り広げられていた頃、サラエボを包囲していたセルビア側は自国の兵士に対し、西側ジャーナリストの狙撃に成功したら報奨金を出していたとまことしやかに言われていたし、イスラム過激派はイラクなどでジャーナリストを誘拐し、十分な身代金が得られないと首を切って殺害し、その映像をネットで発信するという蛮行を重ねた。日本人ジャーナリストも犠牲になった。
 
 そういう現実があるのは紛れもない事実である。「どんな記事より命が大事」という報道の世界の言い伝えの主な理由がここにある。
 
 しかし、戸山はそこまで危険な状況に置かれている訳では全くない。終わりの見えない隔離生活を続けなければならないのは確かに辛いが、ADE株に感染する可能性は低いし、罹っても治療薬が効くのだ。本人が泣きを入れているのでもない。
 
「家族にも覚悟が必要とは、今の世の中では大きな声で言えないからね。実際にはそうなんだけれどね」
 
 現役時代の取材中に感じたことのある、胃が口から飛び出すような恐怖を思い出しながらルークは言った。
 
「ルークさんの奥様はどうだったんですか?」
 菜々子が尋ねた。
 
「そんな話はじっくりしたことが無いけれど、画面に向かって泣き叫んだことはあるらしいよ。でも、俺はこうしてぴんしゃんしている。帰って来られなかった人の家族に比べれば、うちの女房の心配なんて屁みたいなもんさ」
 
「そんな事を言ったら、奥様は怒るんじゃないですか?」
 
「いや、それがそうでもないんだな。帰って来られなかった人の事を彼女も知っているからさ」
 
 やや遠くに眼差しをやりながら、ルークは取材中の不慮の事故で命を落とした後輩とその家族の事を想い出していた。
 
 年月は記憶を薄れさせるかもしれないが、記憶そのものを消し去ることは無い。その悲しみを完全に癒やすこともない。
 
 菜々子は、その帰って来られなかったルークの後輩を直接は知らなかった。彼女の入社前に起きた事故だからだ。が、話は当然聞いていた。
 
 押し黙る。
 
 と、店のベルが鳴った。桃子だ。
 
「おはようございます」
 桃子がそう言って席に着くと、ルークが生ビールを差し出して言った。
「良いネタが入った顔だね」

「あ、やっぱ分かります?」
 桃子が応えた。
「どんな話なんですか?」
 菜々子が催促した。
 
 ビールを一口飲んで桃子が語り始めた。
 
「国情はやはり正恩総書記に健康問題有りと見ています。それ以上はもごもごして応えてくれませんでしたが、彼らは何か掴んでいるようです。それがどれだけ深刻なのかは分かりませんでしたが、もはや無視は出来ないレベルと考えて良いと思います。この点は今までと変わらないのですが、収穫があったのは…」
 
 ここで桃子はもう一口ビールを飲み、一息入れた。
 
 菜々子とルークは桃子の顔を食い入るように見つめる。
 
「収穫は正哲の方です。彼に健康問題があるという情報は無い。子供がいるという情報も無いと断言したんです。正哲についても、これ以上は何も話してくれませんでしたが、その時、微かにニヤリとしたんです。なかなか良い線を突いてくるなと彼は思ったように私は感じました」
 
「ほー…となるとお姫様が正男の様に父親の健康問題でパリに出没しているとすれば総書記絡みということになるね。極めて健康に見える与正の可能性もゼロではないけれどさ…」
 ルークが言った。
 
「そうなりますね」
 菜々子が相槌を打ち、桃子が頷いた。
 
「それと…」

  桃子が続けた。
 
「北朝鮮の次の動きが大事だと強調していました。それが健康問題と関係あるのかはっきりませんが、封じ込め作戦が一段落したら、何か分かりませんが、政治的に大きな動きを見せる可能性が高いということを示唆していたと思います」
 
「うーん、何かまた大きな動きが出て来るということですか?」
 菜々子が確認する。
「そう考えていると思った方が良いわ」
 桃子が応えた。
 
「成る程ね…次の手とやらはおいおい探るとして、やっぱり現在の鍵はお姫様が握っているということになるな」
 ルークが言った。
「大友達に発破かけて居所を割り出すのが先決になりますね」
 菜々子が応えた。
 
「いや、そうとも限らないぞ」
 ルークの発言に菜々子と桃子が怪訝な顔をする。
 
「いや、ここでまた頭の体操をしてみよう。いいか、仮にだ、縁起でもないので申し訳ないが、仮に、菜々子の親御さんが重大な病気で直ぐにも治療というか手術が必要となったらどうする?」
「それは直ぐにも良いお医者さんと病院を見つけて治療して貰います」
「そうだろう。それは誰でも同じだ。だが、それが国内ではままならず、外国、例えばパリまで行かなければ難しいとなったら、どうやって名医を探す?これと云った伝手は無い外国で探すとなったら、どうする?金に糸目は付けないとしてさ」
 
 ルークが舞台を更に回した。
 
「そうですね…その治療が必要な専門分野で名医とされる医師で、お金さえ払えば治療してくれる人を探しますかね。まずはネットやSNSで検索して、高名な医師の評判をいろいろ調べます」
 
 菜々子が応えた。
 
「それは金一族も同じなんじゃないか?何せ大っぴらにやれるような話じゃないとなれば密かに探す筈じゃないか?」
 
「ということはお姫様を探すよりパリで名医とされる医師を探る方が速いということになりますね」

 桃子が言った。菜々子も頷く。
 
「そう、パリのような大都市で、何の手掛かりもなくお姫様一人の足取りを探るより、彼女のパリ出没が、仮に総書記か妹の深刻な健康問題に関わると言う前提が正しいのならば、医者を探す方がきっと速い。彼女の写真を持って手当たり次第ホテルを探す訳にもいくまい。しかし、医師さえ見当つければ、当然その居所は分かる訳だから張り込みも出来るということになる。特に最近留守にしているなんてのが、その中から見つかればドンピシャかもしれんよ。つまり、また急がば回れだ。搦手から攻めるのさ」
 
「それは名案かも知れませんね…でも、どの分野か分からないと捜索範囲が広くなり過ぎませんか?正日総書記のように脳疾患なのか。それとも心臓なのか、肝臓なのか?他の臓器なのか?癌なのかそうでないのか?これが絞り込めないと調査対象の医師が多くなり過ぎるんじゃないですか?」

 桃子が指摘した。
 
「そうなんだよな…だからこそ…」
 ルークが言うと菜々子が引き取って言った。
「どんな病気か分かれば対象はかなり絞れますよね」
「ということになる。あくまでも頭の体操だけれどね」
 ルークが言った。
 
 三人とも考え込む。
 
 暫くしてルークが言った。
 
「これ以上は今悩んでも何も出て来ないかな。取り敢えず食事にするかい?」
 
「そうですね」
「お願いします」
 二人とも同意した。
 
「今日は女房の煮込みハンバーグと温野菜、それにメゾン・カイザーのトゥルトがあるよ。パンは軽くあぶった方が良い?そのまま?」
 
「私は軽く焙った方を」桃子が言うと菜々子も「私もお願いします」と応えた。
 
「へい、暫しお待ちあれ」
 ルークは支度を始めた。
 
 
 その頃、大友と山瀬はベルナールを連れてベルンに居た。丁度、昼食のメインを食べ終えたばかりだった。
 
 大友がまたメインを二皿食べたのにベルナールは呆れていたが、そんなことは全く気にも留めず、大友はザッハ・トルテにフォークを突き立てていた。
 
 アルヌー・カメラマンはジュネーブのWHO本部で留守番だ。WHO本部の取材を完全に放棄する訳にはいかなかったし、カメラマンを連れているとどうしても目立つということもあり、ジュネーブに残したのだ。
 
「それにしてもあれでは張り込みは続けられませんね」
 山瀬がコーヒーを少し啜って言った。
 
 周りにアジア系の人間は居ない。
 
「そうだね。街中に学校があって正門近くにカフェでもあれば別だろうけれど、何日かに一度、車をかなり離れたところに停めて出て来た車をチェックするのがせいぜいかな。それも僕や山瀬がやると目立つからベルナールにやってもらうしかないけれど、成算は無いよね」
 大友が応えた。
 
 実際、前日のベルナール一人の張り込みも無駄足に終わっていた。
 
「でも、どうします?お姫様がパリでコンサートを見た以外に何をやっていたかなんて、そりゃ、よほどの幸運に恵まれない限り、分かる訳ないですよね」
 
「そうだっ!」
 
 ザッハ・トルテを突っ突きながら、大友に突然何か閃いたようだ。スマホをチェックし始める。
 
「これこれ。ねえベルナール、パリでしか買えないチョコレート屋って沢山あるの?」
 
 大友はお姫様がパリのチョコレートを学校に持って来ていたという中国人学生の会話を思い出したのだ。その説明も二人にした。
 
「分かりませんけれど、小さなお店で、その店でしか買えないチョコレートとなると、多分、生チョコレートで有名な店でしょうね。そんなに日持ちしませんから」
 
 甘い物、中でもチョコレートには目がないベルナールが応えた。そういう店なら多くない。自分が知らない店を外国人が知っている可能性も低い。
 
「あの時、チョコレートの話を少し訊いとけばよかったなぁ…」
 大友が言った。
「でも、そういう店を割り出して、張り込んでみるのはどうだろう。また来るかもしれないよ」
 
「雲を掴むような話になりますね」
 ベルナールが少しげんなりした顔をした。
 
「そう言えば、正男は頻繁にお気に入りのジュース・スタンドに顔を出していた筈です。同じことが起こるかもしれませんね」
 山瀬が言った。
 
「それでいくか…他に手は無いんだしさ…」
 
 正に雲を掴むような話になった。しかし、それでも諦めないのは立派なものだ。
 
 
 オーフ・ザ・レコードで食事を終えた菜々子のスマホが鳴った。見ると矢吹からだ。
 
「甲斐さんの所なら合流します」
 
「そうです。よろしくお願いいたします」
 菜々子はそう返信し、二人に矢吹来訪を告げた。
 
「矢吹も何か掴んだかな…」
 ルークがそう言って菜々子に水を向けた。桃子も菜々子の顔を覗き込む。
 
「今日昼間、矢吹さんにもご報告して、情報収集をお願いしたんです。そしたら張り切っちゃったみたいです」
 
「そうなの…、矢吹らしいわね」
 桃子の声音に親愛の情は感じられない。ルークが少し含み笑いをしたのを菜々子は見逃さなかった。
 
 三人は社内の四方山話で暫し時間を潰した。
 
「やあ、どうもどうも、おはようございます。あっはっは、桃ちゃん久しぶり」
 
 店に着いた矢吹は相変わらずだ。
 
「何か良い話があるようだな」
 ルークが水を向け、ビールを差し出す。
「シェリーもあるよ」
 
「あ、どうも、では、それは次にお願いします」
 矢吹が言った。
 
「それで?」
 桃子が再び水を向けた。
 
「いや、大した話は聞き出せなかったんだけれど、肝臓らしいっすよ。飲み過ぎですね。僕も気を付けないと…」
 
 矢吹が言った。
 
 三人は顔を見合わせ。揃って会心の笑みを浮かべた。
 
 矢吹は自分が今まさに次の鍵となる情報をもたらしたことをまだ知らない。三人の反応に怪訝な顔をした。
 
 菜々子が事情を説明すると、矢吹も自分の情報の価値を理解した。
 
 続いてルークが言った。
 
「ダチに肝臓専門の結構有名な医者がいる。わざわざ外国まで出かけて治療を受けるとはどんな状態が考えられるのか訊いてみるよ。丁度週末に一緒にゴルフする予定だから」
 
「お願いします」
 菜々子が力を込めて言った。
 
 そして、三人の先輩に断った上で、大友と山瀬にメッセージを送る。
 
「肝臓に問題ありとの情報。パリの有名肝臓専門医を探し動静をチェックして」
 
 そして、シェリーの栓が抜かれた。ルークはこれを奢りにした。
 
 パリで生チョコレート屋を虱潰しにする必要は無くなった。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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