オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その76
十二階
翌日、現地時間の朝八時過ぎ、WHO調査団のコールター博士らは、フル装備で久しぶりに平壌総合病院を訪れていた。
「患者達の様子はどうですか?」
コールター博士は、病院の看護師達がICUで患者から検体を採取する模様をガラス越しに眺めながら尋ねた。
「順調です。間もなく残りの患者もICUから出られるでしょう」
病院の金永春副院長が自信を持って応えた。
暫く間は空いたが、患者から定期的に検体を採取するのはADE株に懸念すべき変異が起きていないかチェックする為だ。特に治療薬への耐性ウイルスが出現したら一大事だからだ。
「治療薬を投与してからどの位で患者は快方に向かっていますか?」
「早いケースでは翌日にはもう快方に向かいます。数日で症状がほとんどなくなる患者が多いです」
通訳経由で副院長が応えた。
「手遅れだったケースは?」
「いや…それは滅多にありません」
「滅多にということは少しならあるということだと思いますが、どれくらいですか?」
「いや…ごく少数です」
副院長が口籠った。
「不幸にして亡くなった方は?」
「ゼロではありませんが、本当に極めて少数です」
正確な人数はやはりなかなか出そうとしない。
「どのように亡くなりましたか?」
「既存株と同じとお考え下さい」
「つまり、特異な症状ではないということですね?」
「そうお考え下さい」
「ご遺体の処理は?」
「すぐに火葬するようにしています」
副院長はやや苦しそうに応えた。
朝鮮半島では欧米と同じく火葬の習慣は無いと聞いているが、やむを得ないということなのだろう。
「なかなか完治しない、陰性にならない患者はいますか?」
「やはり、ごく少数です」
「基礎疾患がある方々ですか?」
「そうです」
「そうした方の検体も採取を是非お願いします」
「分かりました」
このところ新規陽性者が出ていないことや患者が快方に向かっているといった歓迎すべき情報なら喜んで喋るが、やはり、良くない報せを積極的に明かす気は無い様だ。
調査団の技術者が検体を受け取ると一行は別の検査所に移動する。
ADE株の陽性者はやはり都市部で多く見つかっていることが分かっていた。都市部にはワクチンの接種を既に受けた所謂高位層の住民が固まっている。その為だろうと考えられていた。
一行は別の検査場の様子を確認し、近くの病院の隔離・治療施設で採取した検体を受け取り、拠点に戻る。他のチームも同様に活動を再開していた。
既に拠点にも設置された簡易ラボでPCR検査と遺伝子情報の解析作業が始まった。翌日午後には暫定結果が出る。それをWHO本部に送れば、本部が他のデータと照合し、変異の有無などをチェックする手筈であった。
「やはり、いつまでも陰性にならない患者もいるのか…」
コールター博士らは、そうした患者のウイルスの解析は特に重要だと考えていた。感染が続くうちに体内で様々な変異が出現している可能性があるからだ。
快方に向かっている患者からは治療薬が効いているのでアクティブなウイルスは検出されないかもしれないが、それでもRNAの残滓は見つかる筈だ。それらの遺伝情報の配列も比較すれば変異があれば分かるだろう…、コールター博士らWHO調査団一行はそう考えていた。やはりチェックを続けることは大事なのだ。
「あれ、あの車、初めてですね」
ベルナールが一緒に居た山瀬に言った。
パリ時間のその日の朝、大友達は四日目の張り込みを始めていたのだが、この日初めて、赤いEⅤゴルフが医学部裏の駐車場に入ってきたのだ。
「ほんとだ」
山瀬はそう言うと帽子にセットした隠しカメラの録画スイッチを入れた。
すると縦列駐車を終えた赤のゴルフから男性が一人下りて、医学部の建物に入って行った。
「デュラン医師に似ていますね」
ベルナールが言った。山瀬もそう思った。
数分後、今度はやや古めのポルシェが入ってきた。もはや珍しいガソリン車だ。クラシック・カーと言っても良いが、この車も見るのは初めてだ。中に居るのは男性一人だ。
駐車を終え出てきたのは、紛れもなくパスカル教授であった。二人とも穴の開く程顔写真を見ていたので間違いない。そう確信した。
教授もすぐに医学部の建物に入って行った。
現場にベルナールを残し、山瀬は表のカフェに陣取っている大友に合流し、医師発見を伝える。
「よし、やった。さて、次はどうするかな…とりあえず、カフェの張り込みはばらして、暫くは医学部から出て来ないと思うけれど、そこの正面と裏口を交代で見張ることにしよう。それと、近くのホテルの会議室を借りることにする。
休憩場所さ。飯も食えるし、打ち合わせも遠慮なく出来る。それでどうだろう?」
大友が山瀬に言った。医師を見つけた程度で喜んでいる暇はない。
「単車はどうします?」
「単車か…」
「明日から週末だから、今日の帰りを追って、少なくとも教授の自宅を割り出した方が絶対良いですよ。そうしないと先が面倒です」
「そうだね、分かった。夕方単車を一台手配しよう。早速、他のスタッフを裏手に送るからベルナールには戻って会議室と単車を手配してもらうよ」
「了解です」
ベルナールが早速手配した近くのホテルの小さな会議室で、ルームサービスのサンドイッチとスープで早めの昼食を済ませた大友、山瀬、ベルナールの三人は、その間張り込みを続けていたアルヌー・カメラマンら他のスタッフと交代し医学部裏の公園に入った。
すると昼休みが終わった午後一時過ぎ、医学部棟の裏口から二人の医師が連れ立って出て来た。車に乗るのかと思ったが、医師二人は徒歩で移動を始めた。
公園に居た山瀬とベルナールの近くを通り過ぎ、大学の敷地の東南に隣接する植物園の方向に向かう。山瀬とベルナールは程々の距離を取って追った。
植物園の入り口辺りで、大友が更に後ろに就く。敢えて合流はしない。大友は目立つからだ。
医師二人は食後の散歩でもするように植物園の敷地を通り抜け、更に先の十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院の敷地に入った。山瀬とベルナールは少し距離を縮めた。大友も続く。
すると医師二人は近代的な病棟と思われる建物に横手の関係者専用と思しき入り口から入った。
山瀬とベルナールはそれを確認すると怪しまれないように真っ直ぐ進み、正面玄関の横を通り過ぎる。ベルナールが看板で建物が外科病棟であることを確認した。関係者専用口と正面玄関近くに、当局の警護用と思われる車両が止まっているのが嫌でも目に入る。アンテナが何本か突き出ていて、窓は黒い擦りガラスで中の様子は窺えない。
「大物が居る」
視線を感じながら、山瀬とベルナールはそう確信し、そのまま敷地を通り過ぎ、少し離れたカフェに入った。
大友も同じ道を通り過ぎ、やがて合流した。
「あそこだね。大物が居るね」
大友が言った。
いよいよターゲットが居る場所に辿り着いたのだ。
しかし、警備陣に三人の姿はもう見られた筈だ。防犯カメラにも写っているだろう。特に目立つ大友と山瀬は、もう二度と建物の前に行くことは出来ない。行けば間違いなくマークされる。
「さて、どうするか…」
大友が自問自答した。
「取り敢えず、敷地の外をぐるりと回ってみましょうか?裏側のセーヌ河岸の散歩道を歩く分には大丈夫なんじゃないですか?」
山瀬が言った。
確かに、川岸の遊歩道をのんびり歩く分には問題なさそうだ。
「よし、そうしようか。でも、僕は反対側から表通りを回って、ホテルに戻るよ。二手に分かれたままの方が絶対良いと思うから」
大友が言った。
「そして、会議室で作戦会議だ」
「了解です」
そういうと山瀬とベルナールはコーヒーを飲み干し、先に出た。
大友も暫くして勘定を済ませ店を出た。山瀬達とは反対周りでホテルに戻る。
大友は表通りの歩道を歩きながら、横目で外科病棟を観察した。
出入口は別の建物が邪魔をして歩道からは全く見えない。一番上の数階分の窓が見えるだけだ。この辺りに張り込んでも意味は無いと大友は悟った。
大友が会議室に戻り、暫くすると山瀬とベルナールも戻ってきた。山瀬が報告する。
「セーヌ側から見ると最上階の二つ下の階にバルコニーがあるのが見えます。真ん中あたりにはありませんが、左右両側にありますね。そして、同じようなのが多分七階にもあります」
「どちらかが特別な病室、貴賓室みたいな部屋がある階かな…?食堂とか院長とか幹部の部屋のある場所かも知れないけれど…ベルナール、調べられる?」
「今、調べています」
ベルナールはやはり優秀だ。
「パリ・セーヌ南総合病院の外科病棟の食堂は七階にあるようです。七階の西側のバルコニーのあるところだと思います。東側は分かりません。十二階に何があるかも分かりません」
凡そ三十分後、ベルナールが報告した。
「それと単車はどうしますか?手配済みですけれど…」
「うーむ、単車か…キャンセルしても料金は一緒でしょ?」
「そうです」
「じゃあ、ポルシェだけでも追ってもらおうか?自宅が割れるならそれに越したことはないしね。ベルナール、怪しまれるくらいなら追跡は諦めてくれって、単車さんに確実に伝えてね。いつものドライバーでしょ?ヨハンだったっけ?」
「そうです。伝えます。ポルシェの画像も送ります」
ベルナールが応えた。
「よろしくね」
「すると貴賓室は上のバルコニーの階にある可能性が高いってことになりますよね」
山瀬が言った。
「まだ、分からないけれど、食堂が七階ならそうかも知れないね。一般病室にバルコニーがあって、貴賓室に無いっていうのも変だしね」
ベルナールの検索によれば、外科病棟は十四階建てだ。すると貴賓室は十二階にある可能性が高い。
「やっぱ、取り敢えず十二階のバルコニーを見張るしかないよね。まだ誰だか分からないけれど、そこの患者がご本尊だったとしたら、退院はまだ先だろうし、その前に調子が良くなれば外の空気を吸いに出て来る可能性はあるよね」
「そうだと思います。他の方法は思い付きません」
山瀬が同意した。
大友はパソコンに周辺のグーグル・アースの画像を検索して出して言った。
「さて、何処で張り込むのが良いかな…バード・ウォッチングのポイントでもあれば良いけれど、そんなに都合良くある筈無いし…」
三人は雁首揃えて衛星画像を睨んでみるが、これぞというポイントは見つからない。
「誰かの知り合いが、外科病棟のバルコニーの見えるアパートに住んでいないかな…望遠レンズを使えばしっかり見える場所に…」
大友が尋ねた。
「探してみるしかないですね…」
ベルナールが応えた。
「ベルナール、単車は何時スタンバイ予定?」
「十六時半です。駐車場の一番近い敷地の出入り口の傍に来ます」
「了解。それまでは多分学部の張り込みをしても意味ないだろうから、全員ここに集めて、知り合い探しをしようよ」
大友が言うとベルナールが応えた。
「連絡します」
大友はこの日の成果をメッセージに纏め、菜々子に送った。本心では大成果と主張したいところだったが、医師は御本尊ではないので、それは控えた。
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これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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