オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その105
動物感染
「中国当局からの連絡によると、中国吉林省白山市で新型コロナウイルスの集団感染が疑われる事案が最初に覚知されたのは先週水曜日のことで、検査でおよそ二十名の陽性が確認された」
現地時間の午前十時、ジュネーブのWHO本部で記者会見が始まった。
「陽性者のウイルスの遺伝情報の解析をしたところ、昨日得られた暫定結果はガンマⅡ型ADE変異株の可能性が濃厚とのことである。現地当局がクラスター覚知後直ちに付近一帯を封鎖し、陽性者とその接触者を隔離し検査を進めたところ、陽性者は増え、最新の報告では合計三十人程になったということだ」
記者団は直ちに速報を打った。
「当初覚知されたクラスターは白山市内のレストランで会食をした親族とレストランの従業員であったが、その後の調査で、当該レストランの他の従業員の家族・親族も感染していることが分かった。全員既に治療薬の投与を受けており、ほとんどは快方に向かっているか小康状態を保っているが、中に一名、重症者がおり、危険な状態に陥っている」
発表内容を打電する記者達の表情はこの上なく真剣だ。特にヨーロッパの記者団はADE株再燃に対する関心の方がずっと高い。地理的に遠いヨーロッパが北朝鮮の核の脅威に直接晒されることはないからだ。
「現地当局の聞き取り調査によれば白山市の第一号感染者は、現在重篤な状態に陥っている従業員の家族の一人である可能性が高いと見られる。病状を訴えたのが一番早かったことが分かっている」
声明を読み上げるWHOのアナ・ノヴァック事務局長はここで一旦顔を上げ、記者団を見渡して一息入れると発表を続けた。
「第一号患者の周辺に北朝鮮における封じ込め作戦に従事した人間はおらず、接触した様子はない。また、北朝鮮から持ち込まれた可能性のある物品も見つかっていない。つまり、丹東のケースのような明白な感染ルートは現時点で見付かっていない。現地当局と既に白山入りしたWHO調査団のチームは鋭意調査を続けている。
しかしながら、是非とも留意して欲しいのは白山でも治療薬は効いているという点だ。第一号患者は発症から投与まで間が空いたせいか手遅れになる恐れを否定できないが、その他の陽性患者には十分な効果を上げている。
ウイルスがADE株であることを考えると感染者が更に増える可能性は否定できないが、一帯の全面封鎖と陽性患者の接触者に対する隔離と検査・予防投与が既に広範に実施されていることを鑑みれば、この感染が大きく拡大する可能性は低いと期待できる。質問を受け付けたい」
「第一号患者にウイルスを移したのは他の人間でも物でもない可能性があるということか?そうだとすれば何が考えられるのか?」
ロンドンに本部のあるロイター通信の記者が名乗るのを忘れ、間髪入れず尋ねた。言葉遣いも直截的だ。
「現時点では何とも言えない。ただ、白山の第一号患者は半農半猟の生活をしていたことが分かっている。新型ウイルスは一部の動物にも感染することは広く知られていると思う。極めて数は少ないが、過去に動物から人間に移った例も報告されていることは御存じと思う」
「つまり、動物がウイルスを運び白山の第一号患者に移った可能性があるということか?」
「その可能性は否定されていない。調査は鋭意継続中である」
記者団からどよめきが起きた。別の記者が訊ねた。
「仮に動物からだったとして、WHOはどのように対応するつもりか?」
「その仮定の質問に今応えるのは適切ではないと思う。いずれにせよ、感染の更なる拡大を防ぎ、感染ルートを割り出して再発を防ぐことが重要であるという認識をWHOも中国当局も、そして、北朝鮮当局も共有しており、全力を挙げている」
「これまでの例で感染が確認された動物の内、どの動物が今回は関わっている可能性が高いのか?」
「その質問にも今は応えられない。無用な心配を拡散するのは良いことでは無い…」
メトロポリタン放送も、夕方のメイン・ニュースでこの会見の模様を同時通訳付きで放送していた。
「動物ですって?」
DGSE・対外治安総局の担当者との面会場所に向かうタクシーの中でスマホを通じて会見をモニターしていた菜々子も驚きの声を上げた。動物が感染を広げたとなると、この先が心配になるのは誰もが同じだった。
「治療薬が効くなら封じ込めは出来ると思うけれど心配だわ」
菜々子は隣のベルナールに話し掛ける訳でもなく呟いた。
「ちょっと心配ですね」
ベルナールもまるで独り言のように応えた。二人とも、間もなく始まる担当者との面会に集中しなければいけないことは分かっていた。
思いの外直ぐにDGSEは面会に応じたのだ。彼らも大友の上司とは話をしたかったに違いないのだ。
人獣共通感染症
「それは厄介だな…」
ホワイト・ハウスのオーバル・ルームでWHOの記者会見の内容の報告を受けたベン大統領は、ウイルスを運んだのは野生の鹿の可能性が高いと安全保障問題担当のジュディー・アマール補佐官から聞かされ、言った。
「少なくとも自然界にはADE株が拡がっているということか?」
「おっしゃる通りかも知れません。相手が鹿となると封じ込めは確かに簡単ではございません。しかし、中国政府には、現地一帯の鹿の全頭検査を実施し、疑わしい個体とその群れは直ぐに処分、陰性の個体は暫く隔離して保護するのが良いのではないかとWHOは示唆しているそうです。人民解放軍が人海戦術を展開すれば、鹿であれば発見と捕獲はそれ程難しくありません。猫やミンクよりはずっと大きいのですから…。それと鹿を捕食するトラも同様の措置を取るかもしれません」
「それで大丈夫なのか?」
「時間は掛かるかもしれませんが、まだ雪が残る今のうちに着手するのが肝要だそうでございます。この先、植物が生い茂ると作業は一層難しくなります。中国政府にここまでのアイディアは無かったようでございますが、今はすっかり乗り気になっていると聞いております。目的はあくまでも検査と保護にするようですが…」
「北朝鮮側は?」
「生憎、彼らに全頭を捕獲し検査・隔離をする余裕は無いようです。種の保存の為、ごく少数を保護するとしても、他は基本的に殺処分することになるかと…。残念ですが、既存株なら兎も角、ADE株を自然界に於いてとはいえ見過ごすわけには参りません…万が一、妙な変異を起こして人間界に舞い戻って来られたらそれこそ一大事になりますので…」
「そうか…心が痛むがやむを得ないか…その作業中に人間に移る恐れは?」
「白山市の第一号患者は自然保護区内で密猟した鹿を素手で無造作に解体し、直ぐに自ら調理して一家の食卓に載せたそうです。言わば、これ以上ない程の濃厚接触をしたわけで、だから移ってしまったと見られております。防護服などをしっかり身に着け、慎重に作業をすれば、鹿から新たな感染者が出る可能性はほぼゼロと考えて良いということでございます」
「それにしても余計なことをしてくれたものだな…」
「その観点に関しましてカタオカ博士は異なる評価をしております。『人間が全く気付かぬうちに自然界でADE株が広く蔓延して拡大し新たな変異株を生み出した挙句、人間界に舞い戻って次の感染爆発を引き起こすなぞという事態に比べれば、今回の白山市の事例は早期発見と言って良い。むしろ、我々はラッキーである。肝要なのは正しい対処を早急にすることだ』と博士は申しておりました。そして、治療薬の積み増しとADE株用ワクチン開発に加え、場合によっては鹿や犬猫用のワクチンの開発支援も検討すべきかもしれないと申しておりました」
ボブ・カタオカ博士はホワイト・ハウスの感染症対策を統括官だ。
「そこまで必要になるのか…?製薬会社の株がまた上がるな…」
ベン大統領が嘆息した。
「大統領閣下、思い起こしてください。人間と動物共通の感染症は人類にとって大きな脅威になり得るのです。コロナウイルスだけでなく、ペストも天然痘も、そしてインフルエンザも動物の感染症が人間に移るようになって厄災をもたらしました。そして、ADE株との共存は出来ません。何としても避けるべきでしょう。ただ、まだ今回の犯人は鹿と確定した訳ではございません。と申しますより、この期に及んで鹿ではなかったとなれば、その方が不安は却って大きくなると思いますが、いずれにせよ、白山市でも治療薬は効いております。つまり、人間界に蔓延する恐れは現時点ではほぼ無いと見られております。
今後の進捗と専門家の評価を踏まえて対処すべきと思われます」
「分かった。パリの患者の動きは?」
「移動を始めました。予想通り、ウィーンを飛び立つIAEA査察団用チャーター機に紛れ込むつもりのようです」
「するとアラスカを通過する訳だな…彼には刑事告発が出ていなかったか?」
「大統領閣下、我々は患者が彼だという物的証拠を持っておりません。彼はあくまでも北朝鮮の一外交官として搭乗します。外交特権を保持しておりますし、我が国に入国することもありません。また、彼に手を出してもメリットは全くありません。既定方針通りが宜しいかと存じます」
「分かった、分かった。ちょっとした戯言だ。そろそろデイリー・ブリーフィングの時刻ではないか?」
「承知しました。彼らを招き入れます」
アマール補佐官はそういうと参加メンバーの待機場所に通じるドアに向かった。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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