オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その125と完結編予告

世紀の大誤報

 
 
「気を付けて行ってらっしゃい!」
「頑張ってねー」
「おめでとう」
 
「有難うございます」
 
 7月最終週の金曜日、オーフ・ザ・レコードで、乾杯の発声に続いて餞の言葉が続いた。菜々子の送別会だ。週が明ければ彼女は機上の人となる。カウンターには雁擬の煮物、茄子の煮浸し、胡瓜と蛸の酢の物、キャベツの塩もみの大皿が並んでいる。
 
「御覧の通り、今日は和食を用意して貰ったよ。菜々子は暫くこういうのを食べられなくなるだろうからね。大友も居るしさ」
 ルークが説明した。
 
「有難う御座います。奥様の料理は本当に素晴らしいです。美味しそうですね」
 菜々子が褒めそやす。
 
「さあ、各自で取り分けて、どうぞ」
「頂きまーす。嬉しいな…僕の奥さん、余り手の込んだものは作らないので…」
 大友が早速取り箸に手を伸ばした。皆も続く。
 
「いや、最高ですね。料理屋でもこんなのそんなに出てこないですよ」
 矢吹が感嘆して言った。
「そう言って貰えると女房も喜ぶと思うよ。つけあがるから伝えるつもりは無いけれどね」
 ルークが微笑みながら冗談めかして応えた。
 
「ところで、さっきから気になっていたんですけれど、それは何ですか?」
 
 茄子を頬張った原沢が尋ねた。視線はカウンター正面の額に向かっている。
 
「知らないかい?」
 ルークが良くぞ聞いてくれたとばかりに返す。
「見るのは初めてですが、明らかに誤報ですよね」
 棚橋が言った。
 
 額の中にはアメリカの新聞が入っていた。大見出しを「ゴア勝利」と打っている。
 
「矢吹や桃子は良く知っていると思うが、これはジョークでも何でもない。本物だ。今世紀最大と言っても良い大誤報の証さ」
 
 そう言ってルークが説明を続けた。矢吹と桃子はニヤニヤしながら黙って聞く。菜々子と原沢、大友、それに棚橋は、言われてみれば、そんなこともあったなという程度の記憶があるだけだ。
 
「2000年の大統領選挙は、ご存じの通り、子ブッシュが勝って第43代合衆国大統領に就任した訳で、この選挙でブッシュと争ったゴアが勝ったという見出しは歴史的な大誤報だ。しかし、開票当日の夜、最初の早刷りだけだったが、何社かの新聞社がこうやって誤報を刷ってしまったんだ。その後、シャカリキになって回収して、直ぐに『帰趨不明、大接戦』という見出しに差し替えたんだが、後の祭りだったのさ。
 テレビ局の報道はもっと混乱した。ゴア勝利と速報を出した後、次にブッシュ勝利と報じ、更にその後、フロリダで再集計に縺れ込む大接戦と判定が二転三転したところもあった。メトロポリタン始め日本の各社も似たようなものだったんだ」
 
「どうしてそんな事になったんですか?」
 菜々子が訊いた。
 
「一言でいえば、アメリカの主要メディアの殆どが共同で設立した合同出口調査会社が間違えたからなんだ。調査は余りにも金が掛かるから合同会社を作ったんだが、そこが間違えて、各社、引き摺られたのさ。それ程、異例中の異例と言える接戦だったんだが、以来、選挙報道で当確を出すのに、皆、慎重になった。判定のスピードを競うようなことはしなくなったんだ」
 
「怖いですね」
 棚橋が言った。
 
「そう。恐ろしいことだが、救いがあるとすれば、殆どのメディアが一斉に間違えたという点と、間違えた理由は明確で既に公になっているという点だ。つまり、大きな汚点であるに違いないが、もはや過去の教訓になっているのさ」
 
 ルークは一呼吸おいて続けた。
 
「しかし…仮にだ…これが、もしも、一社だけ先走って間違えた、しかも、その理由を全部詳らかにすることは出来ないとなったら、どうなったと思う?」
 
「そんなの勘弁してください。下手すれば会社が危うくなります」
 今度は原沢が応えた。
 
「そうかも知れない。だから、あの放送を控えておいたのは絶対に誤りとは言えないかもしれない…私が言いたかったのは、それさ」
 
「うーん…」
 原沢と大友、棚橋が揃って唸った。
「でも、あれはまず当たりですよ」
 桃子が言った。
 
「それはそうだ。まず間違いなく当たりだろう。しかし、下手をすれば大誤報扱いをされて、世間がやっぱり正しかったと認識してくれるまでに下手すりゃぁ年単位の時間が掛かる。だから、待つのは正解だったと思う。君達の判断は間違っていないのさ」
 
「それはそうですね…」
 桃子がなお不満げではあったが、頷いた。
 
 原沢も大友も棚橋も既に関係当局との接触経過を含めて詳細を全て聞かされていた。結果的に命懸けになった大友は納得したとは言えなかったが、君達の判断は正解だったとルークに言われ一応諦めもついたようだった。
 
 2月の故金正日生誕記念日後と4月の故金日成生誕記念日の礼拝以降ぱたりと途絶えていた金正恩総書記の動静写真は六月に入って漸く再び報じられるようになっていた。世間ではADE株封じ込め作戦がほぼ終わり、米朝交渉が軌道に乗るのをじっと待っていたのだろうと推測されていた。
 
「野菜をもう少し頂きます」
 大友は再び取り箸に手を伸ばした。
 
 大友とルークは冷たい麦茶を飲んでいる。ルークが冷酒の四合瓶を2本と小さなグラスを用意し、残る5人の分を注いで渡した。
 
「で、菜々子はアメリカに旅立つ訳で、引継ぎはしっかりやったと思うが…」
 ルークが尋ねた。
 
「えー、それはもうバッチリです。素材は大友と原沢が個人的に保管していますし、必要な原稿類も菜々子と大友が書いて、桃ちゃんのチェック済みです。いつでも出せるようにはなっています」
 矢吹が応えた。残る全員も頷く。
 
「いつになったら出せるタイミングが来るかな…」
 ルークが話を前に転がす。
 
「党大会は秋に終わって、どんでん返しでも無い限り、あちらの状況は遅くとも12月頃までには落ち着くでしょうが…桃ちゃん、米朝はどうなると思う?」
 矢吹が尋ねた。
「想像通りというか、それ以上に順調ですよね。私達の取材でもある程度予想したように、彼らは真剣に局面の打開を目指しているんでしょうね。
 年内には連絡事務所が設置されて、平和交渉が本格的に始まるのは間違いない状況になっていると言ってよいかも…。核管理問題の交渉も、遅々として進んでいないように見えるけれど、少しずつですが、確実に前進していると韓国筋は見ているしね。年末には、ちょっとやそっとでは後戻りしないような状態になっているかも知れませんよ」
 
 原沢と大友、棚橋は真剣に耳を傾けていた。米韓が夏に実施していた合同の大規模野外軍事演習も今年は中止が既に決まっていた。いざとなれば北朝鮮の中枢を直接攻撃すると見られるB1爆撃機の飛行演習も随分長いこと控えられていた。北朝鮮が一番嫌がるからだ。いずれも信頼醸成措置の一環だ。
 
「とすると、その頃には、ぼちぼち出しても大丈夫ですかと、また探っても良くなるかもしれないね」
 矢吹が言った。
「期待できるかもしれませんね…連絡事務所の正式オープンとなれば大々的な宣伝をやりそうですから、その後なら大丈夫になると期待しても良いと思います…」
 そう菜々子が応えると矢吹が念押しをした。
「その時は、私も当たりますが、また、先輩も桃ちゃんも宜しくお願いします」
 
「岩岡はどうするんだい?」
 頷いたルークが念の為尋ねる。
「彼の共産党人脈は立派なもんだが…」
 
「どうなんでしょうか?岩岡のカウンターパートがこの話を既に色々知っている可能性はそんなに高く無いと思いますよ。まだ、中国では中堅どころですから。先輩の絡みも含めて裏話までは教えていませんしね…全部知っているのは此処に居る人間だけです。万が一、北山に漏れると拙いですしね」
 矢吹が応えた。
「そうか…いずれにせよ、君達が決めることだな」
 
 ルークがそう言うとエレベーターのチャイムが鳴った。
 
「お、来たか…今日のメインは甘鯛の塩焼きと玉蜀黍の炊き込みご飯と枝豆の炊き込みご飯のお握り、それに韮卵の吸い物さ」
 
 大きな甘鯛が乗った青磁の大皿が3枚、順次出てくる。鱗はパリパリで、旬の谷中生姜と味噌も添えられていた。生姜の葉が彩になっている。再び歓声が上がった…。一同は菜々子の変則新婚生活の話に興じながら飲みかつ食べ続けた。菜々子の夫の太田は既にワシントンに着任していた。
 
「取り越し苦労かも知れませんが、大丈夫ですかね?何処かに先にすっぱ抜かれる恐れはありませんか?」
 
 会も一先ず終わり、引っ越し準備を続けている菜々子が最後の挨拶をして店を出た。更に、まだ奥方に門限を敷かれている大友が帰宅すると、棚橋が誰ともなしにこう尋ねた。
 
「正式発表される可能性はゼロだし、我々以外に証拠映像を持っているのは当局位だろうから、ま、心配はないんじゃ…」
 矢吹が言うと桃子が補足した。
「中途半端な筋情報が韓国から流れる可能性は否定できないけれど、証拠がないから、多分、まともに相手にされることはないと思うわよ」
「そうですか…それなら、むしろ、きっかけになるかもしれませんね」
 原沢が言った。
 
 菜々子が奥様にとルークに渡した二本の白ワインの片方の冷え具合を確かめた店主は栓を抜き、グラスに注いで4人に渡した。
 
「いいんですか?開けちゃって」
 桃子が確認した。
「女房には1本あれば十分さ。どうせ、何本あっても直ぐに飲んじまうんだからさ」
 そう言ってルークは続けた。
「それより、あれだ。いざ放送した時に、何故これまで何か月も温めていたのか、視聴者に説明できるように上手く理論武装しておいた方が良くないか?妙な言い掛かりを付けられても気分悪いだろうしさ」
「それはおっしゃる通りですね。あのー桃子先輩、叩き台を用意して頂けませんか?」
 原沢が依頼した。
「あんたねぇ…OGをそんなにこき使うもんじゃないわよ」
「くっくっく、大変申し訳ありません。でも、それを基に矢吹さんと相談させてください。ルーク先輩にお願いする訳にはいきませんので、宜しくお願い致します」
 原沢と棚橋が頭を下げた。
「それを言われたら仕方ないわね…、分かったわ。そのうちね。高いわよ」
「お有難うございます」
 二人は再び頭を下げた。
 
 新報道局長も新編集長もこの場に限れば若手だった。特に原沢は国際ネタの取材の専門家でもない。
 
「話はまた変わるが、今回の異動は妙手が続いたね。爺様は上手く騙されたふりでもしているのかな?」
 
 ルークが振ると場は人事話で再び盛り上がった。
 
 
 完結編予告

 この後、準備が整い次第、完結編を掲載する予定である。いよいよ大団円を迎えるのだが、まだ長いので二回に分けることになろう。図らずも大長編になってしまったこの拙稿全てに目を通してくださった方々に予め御礼申し上げたい。心より感謝する他ない。

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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