オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その3
クラプトン・マニア
少し説明しておくのが良いだろう。
スロー・ハンドの異名を持つギターの神様、エリック・クラプトンの熱烈なファンは世界に多い。そして、意外なことに、西側文化の流入を厳しく制限している平壌にも一人居た。
故金正日総書記の次男・正哲である。現地読みではジョンチョル。十代の頃、スイスの国際校に長く留学していた彼は数か国語を操り、ギターを趣味にしていた。
正哲はマニアと言ってもよい程の熱烈なクラプトン・ファンで、留学を終え帰国した後も留学時の偽名であったカン・チョル名義のパスポートを使って、しばしばクラプトンのコンサート会場に現れた。お付きはいつも平服姿の数人程度、アメリカのブッシュ大統領に悪の枢軸と名指しされた北朝鮮王朝の御曹司とは到底思えないお忍び姿であった。その姿をドイツのコンサート会場で捉え、世界で初めて報じたのが桃子率いる取材チームだった。
当時、父・正日総書記は存命していたが、その後継が取り沙汰され始めていたこともあり、桃子達の報道は世界の注目を集めた。
北朝鮮関係者はもとより北朝鮮問題に関心の高い各国の外交・情報当局者達、それにライバル社の記者達がこぞって桃子のチームがどのようにして正哲の動静情報を得たのか知りたがった。事後に知ったのでは撮影はできない。異例とも言えるスクープだった。監視カメラの映像が直ぐに出回るような時代ではなかったのだ。
その後も正哲の姿はシンガポールやイギリスのコンサート会場付近などでも捉えられていた。
破片
オーフ・ザ・レコードの店内を見渡すと、所々に不思議な置物や飾りがあるが、それ程雑然とした感はない。それらは定期的に入れ替わるらしい。
カウンター正面の酒瓶の棚のほぼ真ん中に、この日はコンクリートの破片がごろりと置かれていた。平面部分にペンキで絵が描かれていたと思しき跡がはっきり残っていて、壁画か落書きの一部と推測できる。拳より一回り程大きい。
馴染み客には周知のようだが、訊けば店主は決まってこう応える。
「ベルリンの壁の破片だよ。崩壊の三日後に現地で取材中に手に入れたのさ。正真正銘の本物だよ」と。
学校の歴史の教科書でしか知る由もない若い客には全くピンと来ないかもしれないが、東西冷戦を知る昭和世代にとってベルリンの壁の崩壊は時代の変わり目に起きた一大事であった。
ひとしきり飲食を終えると桃子が切り出した。他の客は居ない。
「ちょっと妙な動きがあるみたいなんです」
二人は桃子のもたらす半島情報が時に絶品であることを知っている。耳を傾けた。
「チョルさんがまたヨーロッパのコンサートに出掛けるらしいんです」
店主がすぐに訊き返した。
「チョル?パク・チョル名義のパスポートを誰かがまた使って動き回っているということかい?」
パク・チョルはマレーシアの空港で暗殺された故金正日総書記の長男・正男、現地読みでジョンナムが使っていた偽名である。店主は、今は亡命し何処かに匿われている筈の正男の息子・ハンソルが父親と同じ偽名で水面下の活動を始めたのかと早飲み込みをしたのである。悪い癖だ。
「姐さん、エリック・クラプトンのコンサートですか?」
菜々子が続けた。
店主にはコンサートの一言が聞き取れなかったらしい。
「そう、クラプトンのコンサート」
桃子が応えた。
暫く北朝鮮関連取材から離れていた菜々子も引退して久しい店主も若き正哲の顔を直ちに思い浮かべた。半島系としては比較的珍しく大きな目が丸く見開き、鼻筋の通ったなかなかのハンサムだった。あれから何年経ったのか、今の彼の姿はどのように変わったのか、改めて興味はそそられる。
「そう言えば、クラプトンが最後のツアーを開始するというニュースを何処かで見たかな。彼はもう八十代じゃなかったか?」
同じファンとしてクラプトンが元気なのは何よりと店主は思っていた。
「そして、正哲はどうしても観たい、我慢できない、誰も止められないって訳か…」
店主はこう続けた。
北朝鮮の現在の最高指導者は故金正日総書記の三男・正恩総書記で正哲はその兄に当たる。暗殺された長男・正男とは異なり正哲と正恩は母親も同じで小さい頃は一緒に育てられた筈である。全員成人となった今、正哲だけが国や党の運営には一切関わっていないのだが、兄として弟の相談相手になっている可能性は十分にある。そして、正恩総書記も北朝鮮の事実上のナンバーツーに当たる妹の与正も、兄のコンサート行を止められなくとも不思議ではない。
「国情院もCIAも正哲さんの動静には関心を持っていない訳ではないでしょうけれど、今更、彼が後継者になる可能性はゼロでしょう?そうである以上、国情などもあくまでも王朝の動静を探る関連情報の一つとして参考にしている程度だと思うんです」
「普通そうだろうね」
「でも、今回は気合の入れ方がちょっと違うんです」と桃子が訝った。
「どんなところが違うんですか?」
菜々子が再び尋ねた。
「少しでも関連情報があれば、仮に塵みたいなものでも全て搔き集めようとしているかのような熱量を感じるの。私に話が流れて来たのも関連情報を網羅しようとする意欲の表れ、その一環ではないかなと思えるのよ」
「うーむ…、桃子の勘はきっと当たりなんだろうが、その心はさっぱり分からんな…」
店主が応じた。
「そうだ。正哲の比較的新しい写真が、と言っても随分前のだが、あったはずだ。探してみるわ」
そう言うと店主は奥に消えていった。
店の窓は、感染症対策の為、全て少しずつ開けられている。冷気が入り込んで来て、暖房を効かせた店内も足元は冷える。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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