オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その73
労働新聞
翌火曜日の朝、朝鮮労働党の機関紙・労働新聞に、金正恩総書記らが錦繍山太陽宮殿に礼拝に訪れた写真が公開された。日付の記載は無い。
2月16日の故金正日総書記の誕生日からは二週間程遅れたことになるが、やはり礼拝したのだ。
やや斜め前方から捉えられた一枚だけの写真には金正恩総書記と妹の与正中央委員らがかなり間隔を開けて整列し、厳粛な面持ちで礼拝する姿が収められている。寒さのせいだろうが全員厚手のコートを着ているが、帽子は被っていない。
遠目の写真だが、金正恩総書記は大き目の眼鏡を掛け、少し伸びた髪が耳を半分ほど覆っているのが分かる。拡大してみると解像度は粗く、菜々子はAIを使って鑑定しても、それ程精度の高い結論は出ないのかも知れないと思った。
「この重要行事に赤の他人の影武者が出るはずは元々無いけれど、これだと仮に兄弟が入れ替わっていたとしてもそうだと断定できそうにないわね…」
菜々子は大した根拠もなくそう考え、ひとまず日常のデスク・ワークに集中することにした。
「ちょっと来てくれるか?」
デスク・ワークに没頭する菜々子に加藤昌樹報道局長から電話が入った。
「あのさー、戸山の事なんだが、いつまで丹東に塩漬けにしておくつもりだい?」
菜々子が部屋に入ると局長がすぐに用件を切り出した。
「と、おっしゃいますと…何かあったんですか?彼自身は特に何も言っていませんが…」
菜々子が訝る。
「まあさ、色々あるんだよ…だから、今後の方針を確認したいのさ」
加藤は上から何か言われたようだ。
「ご存知のように、今すぐ離脱しようとしても、丹東のクラスターのせいで全面封鎖中ですので他の地域には出られませんし、これが解除になっても、封じ込め作戦が一段落するまでは二週間の隔離をさせられます。代わりが入ることも出来ません」
菜々子が説明し始める。
「それは分かっている」
「ですので、それでも戸山を離脱させ、丹東取材を放棄せよというご命令なら、それが可能になり次第そうしますが、仮にそうしても戸山班は二週間隔離され遼寧省を出られませんので、余り意味は無いかと思います。
むしろ、後二週間か長くとも一か月経って、
封じ込め作戦が一旦終われば封鎖は解除される可能性が高い訳ですから、そうなって、隔離も不要になってから離脱する方が良いと思います」
「うーん、そう説明するか…しかし、二週経っても終わりそうになかったら、その時点で、可能なのであれば隔離覚悟で離脱させてもらうかもしれんぞ、それで良いか?」
「先の事はわかりませんが、その時点で本人も離脱を望むならば、というのでしたら、そのように致しましょうか…如何ですか?
あの、取材途中での戦線離脱は本人にとっても必ずしも名誉なことではありませんので、あくまでも、その時点で本人もそう望んだら、という前提でお願いします」
「そうだな…、分かった。それなら説明できる」
加藤は了承した。
何処かの相当な偉いさんという噂のある戸山の親から、会社上層部の知り合いに苦情が入ったのだろうと菜々子は推測した。
缶詰生活が辛いのも、家族が心配になるのも無理からぬことだが、三十過ぎた息子の仕事の中身にまで口を出してくるとは情けない。しかも、本人が泣きを入れてきた訳でもないのに…菜々子はちょっと呆れていた。時代が異なるとはいえ、昭和の企業戦士達なら嘲笑うだろう。
自席に戻ると間もなく昼ニュースが始まった。
トップは日本海側の大雪だったが、その次に封じ込め作戦の状況が伝えられた。
前夜のWHOの会見内容のまとめに続いて戸山のレポートも短く報じられる。
「丹東のホテルの部屋から見られる国境の往来に大きな変化はありません。午前中は中国側から北朝鮮に向かう封じ込め作戦の要員や支援物資を乗せた車両や列車が粛々と橋を渡って行きます。
当地の報道でも、作戦は順調に推移していて、このままなら後二週間から一か月で完了する見込みだと報じられています。
また丹東郊外で発生したADE株のクラスターですが、その後、新たな感染者が出たという報告はありません。こちらの封じ込めも順調なようです。
ここ丹東では外出の全面禁止令が継続している為、市民生活を直接取材することは出来ませんが、電話やネットで情報を集めている限り、大きなトラブルはありません。
北朝鮮での封じ込め作戦が始まって二週間以上経ちましたが、遠からず作戦が終わり、この町の封鎖も解除されるだろうという期待が街を包んでいると言えそうです。丹東からお伝えしました」
レポートを聞く限り戸山はきちんと仕事を続けている。心配はなさそうだ。菜々子は昼ニュースが終わったら、彼に電話することにした。
続いて北京から支局長・岩岡宏がレポートする。
「昨夜のWHOの会見を受け、中国国営・新華社通信は今朝、劉正副主席の声明を伝えました。それによりますと劉正副主席は、これまでの封じ込め作戦の推移に満足の意を示し、
予断は出来ないものの、引き続き順調に進行すれば最短で後二週間程で作戦は成功裏に当初の目的を達成できるだろうとの見通しを明らかにしています。
しかし、同時に、当初の目的を達成しても、いつまた再燃するか分からない、新型コロナは変異が速く、新たな脅威となる変異ADE株の出現も警戒する必要があると述べ、手放しで安心することのないよう戒めています。
このように、劉正副主席が、その後の警戒の必要性に言及したことについて、中国政府筋は、私共の取材に対し、これは封じ込め作戦が一旦成功裏に終わっても、更に警戒と監視を続ける必要があるという中国政府の考えを示唆したもので、何らかの形で、中国の北朝鮮支援は続けることになるだろうと述べています。
一方、丹東郊外で発生したADE株のクラスターについて、中国政府筋は、もう大丈夫だ、封鎖も後一週間程で解除になるだろうと自信を示しています。北京からお伝えしました」
「作戦が一旦成功裏に終わっても中国軍は完全に引くことはないということね。いつまで居続ける気かしら…」
菜々子は思った。
「場合によっては北朝鮮と揉めるかも知れないわね…」
しかし、これは今考えても仕方ない。
昼ニュースの放送が一段落すると、菜々子は戸山に電話した。
「お疲れ様。元気そうね。レポート、良かったわよ」
菜々子がそう労うと戸山が応えた。
「有難うございます。かなりしんどいですが何とか堪えています」
「ほんとお疲れ様。スタッフ達はどう?」
「大丈夫だと思います。ジタバタしても無駄なのは分かっていますから、それぞれ上手く気晴らしをしているみたいです」
「そう、それは良かったわ。あのね、こちらでも戸山達の事は気に掛けているのよ。一足先に離脱させるのはどうかっていう声も出ているくらい」
「えー離脱ですか…、帰れるのは嬉しいですが、まだ移動は出来ませんし、それが可能になってもどうせ隔離されますからねぇ…意味無いと思いますけど」
「そうよね。状況次第だけれど、もう少し先にまた考えましょう。
ところで、ご家族は?心配しているでしょ?」
「お陰様で家族は実家に帰しましたので、問題無いと思います。心配はしているかもしれませんが、連絡は出来ますし、こちらでトラブルがある訳でもないので、むしろ、実家で羽を伸ばしているんじゃないでしょうか…」
「そう、それは安心ね。もう少しの辛抱だろうからスタッフにもご家族にも宜しく伝えてね」
「了解です。有難うございます」
菜々子もかなり安心した。家族の誰かが取り越し苦労をしているだけなのだと自分に言い聞かせた。
続いて北京の岩岡に電話する。
「お疲れ様です。岩岡さん」
「お疲れ様。どう?元気してる?」
「大丈夫です。あのう、岩岡さんがレポートで触れていた居座る可能性ってどれくらいありますか?」
「何とも言えないけれど、さーっと一斉に引くとは考えにくいよね。再燃するとやばいしさ、今まで生かさず殺さずでやってきたものが、もしも一斉に引くとエネルギー・食料は満タン状態で北朝鮮を自由にさせることになるから、また好き勝手をやり始める可能性も高くなるし、楔は残したいんじゃないのかな」
「まさか、ずっと居座るなんてことは無いですよね?」
「もしかすると、そうしようとするかもしれないよね。プーチンがウクライナでやろうとしたみたいにね。それでも、数か月もすれば再燃の恐れはなくなるだろうし、エネルギーや食糧の備蓄も細るだろうから、そうなってから引いて、また、生かさず殺さず路線に戻るかもしれないね。居座る口実も無くなるわけだしね。けれど、あんまり先の事は分からないよ」
「そうですか…、やっぱりもっとコントロールしたいのですかね?」
「そうだとしても不思議ではないよね。北京からのリモート・コントロールだけに戻ると、なかなか言う事を聞かないんだからね。と言っても百パーセント面倒を見る気も無いだろうけれどさ…北は兎に角ややこしいからね。だから程ほどに楔を残すのが良いと思う可能性はあると思うよ。対米カードとしてより有効に活用する為にもね」
「分かりました。今はこれ位にしておきます」
「そうだね」
「また、宜しくお願い致します」
電話を切って、菜々子は改めて思った。
北朝鮮に真剣に向き合おうとする国は実は無いのだ。取り敢えず、大人しくしてくれたら、それで十分なのだ。建前はともかく、本心では韓国も大差ない。
北もそれは承知していて、核・ミサイル開発を止めず、国内の厳しい締め付けを続けるのは、こうした環境の中でも、王朝が生き残る為なのだ。
しかし、ADE株の出現は、中国だけでなくアメリカや西側諸国の関心を更に集める機会にもなっている。これを忘れてはならないのかも知れなかった。
「この関心が消えてなくなる前に、何か打開策に打って出る可能性はあるかな…もう次の世代の事を考え始めているだろうし…」
菜々子はそんな気もしてならなかった。
遅めの昼食をコンビニのサンドイッチで済ませた菜々子は英語でメッセージを打ち始めた。
「お久しぶりです。宮澤菜々子です。お元気ですか?
私は、今、東京の本社で国際取材部長をしています。
北朝鮮で進行中の封じ込め作戦が順調なようで、一安心ですが、今のところ、北朝鮮政府はほぼ音無しの構えです。考え過ぎかもしれませんが、私には嵐の前の静けさのような気もします。
根拠があるわけではありませんが、総書記の健康問題の噂も気になります。
久しぶりにお尋ねしますが、あなたのお考えをお聞かせ頂けると幸甚です。
お返事を楽しみにしております」
返事は無いかもしれない。今もこの宛先で連絡が着くとも限らない。しかし、もしもメッセージが届くのならば、彼が変わらずプロフェッショナルな対応をしてくれることを期待していた。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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