オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その71

 
 

中間まとめ

 
 
「WHOと中国政府、現地政府による北朝鮮における新型コロナウイルス・ADE株の封じ込め作戦が始まって二週間が経った。
 ADE株は丹東に飛び火して小規模なクラスターを発生させ、その影響でWHO現地調査団の活動が今も停止に追い込まれているという不幸な出来事はあったが、封じ込め作戦自体は北朝鮮国内においても、また丹東においても順調に推移していると言える」
 
 WHO事務局長のアナ・ノヴァックは現地時間のこの日午後二時過ぎ、いつもの様に声明を読み上げ始めた。
 
「実際に、この五日間は北朝鮮においても新規感染者は見つかっておらず、また、丹東においては、当初の六人以外の感染者は出ていない。
 これまでに確認されたADE株陽性の感染者は合計千四百十四人、北朝鮮国内におけるその他の既存株感染者は千六百人余りという報告を受けている。
 楽観は許されないが、前回の発表と比べて感染拡大のペースは明らかに鈍化しており、封じ込め作戦は良い方向に向かっている。WHOとして北朝鮮政府と中国政府の迅速な対応に敬意を表したい」
 
 事実上の鎖国を続けていた孤立国家・北朝鮮が対応を拱いていればADE株は燎原の火のごとく拡がっていた恐れは確かにある。この点では、速やかに中国の支援を求めた北朝鮮の対応とそれに直ぐに応じた中国政府の対応は極めて的確だったと言えた。
 
「医学的に言えば、治療薬の予防服用が想像以上の効果をもたらした点を忘れてはならない。耐性ウイルスの出現も確認されていない。そうでなかったならば、現在の状況は遥かに深刻になっていた可能性がある」
 
 ノヴァック事務局長の声明は続いた。
 
「現時点で、封じ込め作戦の今後の推移に悲観的になる必要はない。油断大敵だが、新規感染者は既にこの5日間見つかっておらず、このままなら後一か月程で作戦を成功裏に終わらせることができると期待している」
 
 会見場の記者達の顔に安堵の色が拡がった。
 
「しかしながら、新型コロナウイルス、特にADE株については分かっていないことも多い。今後、脅威となる更なる変異が起きる可能性も否定できるものではない。
 この観点から、ADE株にも対応する、より汎用性の高い新たなワクチンの開発と、万が一、耐性ウイルスが出現した時に備えて新たな治療薬の開発を進めることも重要と考える。
 ADE株の出現は、これらの必要性を改めて浮き彫りにしたと言えるだろう。我々はやはり油断してはならない」
 
 声明の読み上げは終わった。続いて質疑応答が始まった。
 
「確認させて貰いたいのですが。ADE株の感染者が合計千四百十四人と言うのは丹東の6人を含むのですか?それとWHO調査団に感染者は?」
 ロイター通信の記者が尋ねた。

「丹東の6人はその数字に含まれている。私は合計でと言ったと思う。調査団関係者に幸いに感染者は出ていない」
 
「後一か月で作戦は成功するだろうという見通しの根拠は?無症状感染者が隠れている心配はないということですか?」
 アメリカのAP通信の記者が尋ねた。
 
「新型コロナウイルスの潜伏期間は最長で二週間と考えられている。ADE株はこれより更に長いという報告は今のところ無い。また既に五日間新規陽性者は出ていない。念の為用心して後二週間、新規陽性者がこのまま見つからなければADE株の感染拡大は阻止できたと考えることが可能になると見ている。 更に二週間待って、新規陽性者が出なければ終了宣言を出すことも可能かもしれない。
 もっとも無症状感染者が隠れている可能性まで否定するものではない。しかし、およそ2,600万人から2,700万人と言われる北朝鮮国民に対するPCR検査は既にほぼ一巡し、二巡目に入っている。
 また、感染者と少しでも接触した可能性のある人間や接触までしていなくとも同じ空間にほぼ同時間帯に滞在したことのある人間は、乳幼児や妊婦など例外を除き、既に治療薬の予防服用を開始している。
 これらの事実を考慮すれば、油断は禁物だが、長くとも一か月で封じ込め作戦の終了宣言を出せるのではないかと期待している」
 
「調査団の活動再開の見通しは?」
 今度はイギリスBBC放送の記者だ。
 
「早ければ今週後半にも活動を再開したいと我々は考えている。はっきりすれば改めて周知する」
 
「丹東にウイルスを持ち込んでしまったWHO現地調査団付きの運転手の様子は?処分はされることになるのか?」
「その後も陰性のままだが、隔離されていると聞いている。処分云々の話はWHOの管轄外である。中国当局に訊いて欲しい」
 
 会見はまだ続いたが、メトロポリタン放送ロンドン支局長の山瀬孝則は原稿の準備を始めた。
 
 会見で特に異状の発表は無かったので、原稿だけまとめて東京に送り、慌ただしいが、すぐにパリに戻るつもりだった。
 
 
 その頃、近くのレストランで昼食のアルザス風シュークルートを腹にしこたま詰め込んだ大友とベルナールはパリ第五区にあるパリ第二十一大学医学部と附属病院の周辺をうろついていた。
 
 敷地内に入るのは難しくなかったが、特に学部の建物にアポも無しに怪しまれずに探りに入るのはほぼ不可能だった。テロを警戒して建物の出入りのチェックは厳重になされているようなのはすぐに分かった。
 
 病院の正門横にあるカフェに二人は席を取り、正門の出入りなど更に様子を窺うが、当然、収穫は無い。
 
 パスカル教授の写真は学部生と思われる若者のインスタグラムでベルナールが既に見つけていて、二人ともスクリーン・ショットをスマホに入れていた。
 
 パスカル教授はフランス人としては中肉中背、栗色の髪でやや額が広く眼鏡は掛けていない。つるんとした顔つきからそれ程毛深い感じはしなかったのだが、それでも薄い口髭を蓄えていた。
 
 正門の人の出入りは引っ切り無しに続いていたが、患者のほとんどは徒歩で病院に入っている。それに比べて車の出入りは少ない。
調べてみると患者用の駐車場は道路を挟んだ反対側にあった。一般の車両は敷地内に入れないようだ。
 
 コーヒーを飲み終えた二人はその駐車場を見に行く。すると病院関係者専用の駐車区画はこちらには無さそうなことも分かった。教授が自家用車で通勤しているならば別の場所に置く可能性が高い。
 
 二人は敷地内に戻り、更に様子を見る。
 
 病院建物の地下と医学部の建物の裏手に駐車場があるのが分かった。
 
 地下駐車場に入ることは出来ないが、学部裏手の駐車スペースは地上にあり、様子を見ることが出来た。駐車できるのは五十台程、
二人が様子を見た時は半分近くが空いていた。
 
 張り込みをすることになったならば正門の出入りと学部裏手の駐車場をチェックするしかない。それには正門横のカフェと学部裏手の駐車スペースの更に先にある小さな公園のような緑地に陣取るのが一番良い。一日中居座る訳にはいかないが、朝の出勤時間帯やランチ・タイムだけならば何とか張り込みを続けられそうだった。
 
 そう確認すると二人は一旦オフィスに戻ることにした。
 
 メトロの車中で大友はベルナールに尋ねた。
 
「あのさ…病院の予約ってネットでも出来るんでしょ?」
「出来ると思います。紹介状が無いと診療はなかなかしてもらえませんけれど」
「だったらさ、肝臓外科のどの先生のどの時間帯ならアポが取れるのかネットでわかるんじゃない?わざわざ電話しなくてもさ」
「やってみないと分かりませんが、そうかも知れません」
「学校と違ってそっちなら誰でもアクセス出来るよね。支局に帰ったらまずやってみようよ。大学病院でもずっと休診中ならそれはわかるんじゃない?」
「良いアイディアですね。やってみましょう」
「うん、それでも駄目だったら明日電話を入れよう」
 
 オフィスに帰着した二人は早速、パリ第二十一大学医学部附属病院のウェブ・サイトをチェックする。
 
 肝臓外科の担当医のリストと外来予定表はすぐに見つかった。医師はパスカル教授以下八名の態勢だ。しかし、外来予定表を見ると教授ともう一人、フランソワ・デュラン医師が担当する診療枠が今は存在しないのだ。
 
 三月一杯の外来予定表を見る。
 
 すると三月第二週からデュラン医師の診療枠が週に三コマ出て来た。デュラン医師を含めた三月の診療枠は既に一杯だ。それにも拘わらずパスカル教授はまだ外来を受け付けていない。
 
 更に、四月の外来予定表を見る。
 
 すると、イースター休み明けから、パスカル教授の外来診療枠が週に一コマ登場した。デュラン医師の診療枠は同じく週に三コマで、いずれも空き枠はほとんど残っていない。
 
 つまり、パスカル教授のプライベート・クリニックで告げられているのと同じく、教授は大学病院においても、現在長期休診中ということになる。デュラン医師が教授より短いとは言え、今はやはり休診中というのも気になった。
 
「体調が悪いだけなのかもしれないし、そうでなくても、手術はちゃんとやっているかも知れないから、まだ何とも言えないけれど、この二人が、一緒に何か特別な仕事を抱えている可能性はあるよね。どのみち、外来診療をやっていないからといって、学校や病院に全く姿を見せないとは限らないから、やっぱり張り込むしないか…ベルナール、どう思う?」
 
 大友が尋ねた。
 
「良く分かりませんね…、仮に教授、もしくはデュラン医師と二人が北朝鮮の要人の手術を担当したとしても、こんなに長く休む理由にはならないんじゃないですか?
 優秀な看護師のチームがいれば医師が二人もずっと付きっ切りというのは変だと思いますよ。フランスの病院にそんな余裕は無いですから」
 
「秘密保持の為かな…、でも医師が患者の秘密を口外しないのは当たり前だし、そもそも患者の本当の正体を正確に知っているとは限らないよね?」
「それは多分知っていると思いますよ。北朝鮮の要人が患者なら当局は絶対に把握しています。内々に耳打ち位はされていても不思議では無いと思いますよ」
 
 ベルナールが応えた。
 
「すると、この二人がやっぱり怪しいか…でも、そもそも、重病説事態に証拠は無いし、ましてやフランスで手術なんて、少しばかりの情報に基づく推測の推測に過ぎないんだからね。お姫様だって当てにならないしさ…何だか匙を投げたくなるよ」
 
 大友がぼやいた。
 
 ベルナールが忠告した。
 
「過去の例を思い出してみましょうよ。私は詳しい話を知らないことも多いと思いますが、ルークさんや桃子さんが部長の頃から、時々舞い込んできた本社の情報は凄かったじゃないですか?今回もそうかも知れないと思った方が良いと思いますよ」
 
「ルークなことをやるんじゃねえぞ!」
 
 あの鬼部長の叱咤が大友の頭の中で響いた。
 
「よし、やるか!明日から総動員で」
 
 大友はそう言うと、パリ支局の残りのスタッフ全員に加え、ロンドン支局のスタッフも新たに呼び寄せ、交代で張り込むことにした。
 
 これまでの調べでパリの肝臓外科医二人が浮かんだことなどの報告と共に、総動員して張り込みをしたい旨を記して菜々子と山瀬に送った。
 
 山瀬は既にジュネーブを発ち、こちらに向かっている筈だ。WHO本部の取材と並行してパリで張り込みをやるのはキツイがそんなことは言っていられない。山瀬が戻ったら晩飯を食いながら打ち合わせをすることにした。
 
 本当は寿司でも食べたいのだが、寿司店では日本語の会話を他人に聞き取られる恐れがある。
 
「仕方ない…久しぶりにフロレンティーナのステーキでも食うか…」
 
 大友は大きなTボーン・ステーキを思い浮かべ舌舐めずりをした。旨い食べ物の事とあれば大友は気持ちの切り替えがすこぶる早かった。
 
 
 同じ頃、自宅で夜ニュースの放送を確認した後、風呂から上がった菜々子は、大友の最新報告に了解の旨返信し寝床に入った。
 
 しかし、今後の展開を想定して様々なシナリオを考えるうちに、全く眠れなくなっていた。早く眠りに就かないと翌日が辛くなるのだが、思考は止まらない。ルークが現役時代に時々ボヤいていた脳味噌の暴走が始まってしまったのだ。
 
 コロナ以前のように連日連夜の取材飲みをする習慣はもうすっかり廃れていて、菜々子にも早寝の習慣が身に付いていたのだが、この日ばかりはどうにもならなかった。
 
 暫くして、菜々子は仕方なく起き上がる。白湯でも飲もうと考えたのだ。
大き目の夜用ブラジャーと中国で買い求めたシルクの短パンといういつもの寝巻き姿の上にローブを羽織りスリッパを履いてキッチンに向かった。豊かな胸と尻が揺れる。
 
「そう言えば誕生日の礼拝写真を今年はまだ見ていないわね…」
 
 儒教思想が色濃く残り、血統を支配の根拠にもしている北朝鮮で、故金日成総書記の誕生日の2月16日に当たり、遺体が安置されている錦繍山太陽宮殿に礼拝することは欠かせない重要行事の筈だ。その礼拝写真が今年はまだ公開されていないのだ。
 
 もっともその日に総書記は北京で首脳会談をしていたし、その後はADE株封じ込め作戦が進行中という事情を鑑みれば今年は例外なのだろうが、首脳会談以降、全くもって音沙汰無しというのは気になる。
 
「遅れて参拝した写真が後で公開されるのかも知れないけど…」
 
 菜々子は白湯を飲み終え、ベッドに戻った。しかし、考え過ぎなのは分かっていたが、ますます眠れなくなってしまった。
 
「封じ込め作戦がこのまま順調なら、そちらの取材はデスクと現場に任せて置いて、自分は見ているだけでも良いのだけれど…戸山の状況は部長の私がしっかりフォローしないとまずいし、大友達の張り込みは自分が指揮をとらなければいけない…、いずれ医師達の所在ははっきりするだろうけれど、それまでの間、他に有効な手立てがあるのか…、医師達を見つけたとして、その後、ターゲットに更に迫れるのか…その為にはどうすれば良いのか…」
 
 考え始めても結論は出ないのだが、止まらない。自分も昔のネタ元に上手く接触できればヒント位得られるかもしれないのだが、今の状況では中国の公安筋や北朝鮮系の知り合いにコンタクトしようとしても反応は無い可能性が高い。この非常時にそれは危ないのは菜々子も分かっていた。
 
「あの人なら返信位は来るかもしれないけれど…」
 
 菜々子はワシントン支局長時代のあるアメリカ政府筋の知り合いの顔を思い浮かべた。
 
 だが、気が重い。一時、かなり話が出来るようになっていたのだが、暫くして、勘違いかも知れなかったが、彼が菜々子を口説きに来そうに感じた為、接触を避けたからだ。
 
「仕方ないわ…久しぶりにメッセージを送ってみようかしら…仕事なんだから…」
 
 菜々子はそう自分に言い聞かせてから、また起き出した。今度はローブも羽織らず、随分前に主治医に処方して貰った睡眠導入剤を飲む。そして、またベッドに身を委ねた。胸と尻が揺れた。
 
 薬の効果もあって菜々子は漸く眠りに就くことが出来た。
 
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これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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