オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その103

鹿


 現地時間日曜夜八時、日本時間の月曜未明、WHOがウェブ・サイトに緊急声明を発表した。
 
「新型コロナウイルスのガンマⅡ型ADE変異株封じ込め作戦に当たっているWHO現地調査団は本日、北朝鮮に隣接する中国・吉林省白山市で、ADE株によるものと疑われる感染者のクラスターが発生したと現地当局より通告を受けた。
 WHO現地調査団は直ちに十名からなる即応チームを編成し白山に派遣した。一帯は既に封鎖され、感染者と接触者の隔離と治療、消毒作業が進められている。
 詳細は明日月曜午前十時からWHO本部で開く記者会見で発表する」
 
 世界の大半の地域が休日もしくは就寝モードに入っている時間帯だったが、ADE株がまたも中国領内に飛び火したという報せは発生時以上とも言える衝撃を世界に与えた。ひとまず成功したと思われていた封じ込め作戦の失敗とパンデミックの再来を誰もが懸念したからだ。
 

 
「新型コロナウイルスのADE株が再び中国に飛び火しました。その規模や感染ルートなど詳細は日本時間の今日夕方の記者会見で明らかにされる予定ですが、封じ込め作戦は失敗したのではないかとの疑念が広がっています」
 
 メトロポリタン放送は月曜の朝五時半から予定を変更して特別番組の放送を始めた。
 
「ADE株が疑われるクラスターが発生したのは中国東北部・吉林省の白山市です。ここは中朝国境に接していて、中国名で長白山、北朝鮮では白頭山の中国側にある町です。市の人口は凡そ百三十万人、朝鮮族も多く暮らしています。
 クラスターの詳細はまだ明らかになっていませんが、感染症に御詳しい坂崎郁夫先生にリモートでお話を伺います。
 坂崎先生、お早うございます。早速ですが、今回の飛び火で懸念されることはどんなことがありますでしょうか?」
 
「おはようございます。まだ、クラスターが幾つ発生したのか、また、その規模等基本的な情報がありませんので、何とも判断のしようがないところですが、現時点で特に気になることが二つあります」
 
 スタジオのキャスターの質問に応え坂崎医師が解説を始めた。
 
「一つは、やはり感染ルートです。北朝鮮ではもう一ヶ月以上でしょうか、ADE株の新規感染は報告されていないと思いますが、それがどうしてこの時期に中国に飛び火したのかということです。
 前回、丹東に飛び火したのは封じ込め作戦に携わっていた要員の身体に付着したウイルスが持ち込まれた為と見られていますが、今回もウイルスを知らずに運んでしまった人間がいたのかどうか、或いは物に付着していたのか、もしくは、例えば動物によって運ばれたのか、全く分からないのか、場合によっては大変憂慮すべき事態になる恐れもあります。
 もう一つは中国国内の人々はほぼ全員ワクチンを何度も打っている筈ということです。それも、余り性能が良くないとされる中国製のワクチンだと思います。そうした場合、このADE株の感染力と言いますか、体内での増殖力は高まる筈で、それがどうなるのか、非常に気になります。
 体内に中途半端に抗体があるとADE株はより悪さをするという見方があります。性能が良くないとされるワクチンが作り出す十分とは言えない抗体とADE株の関係は注視すべきだろうと思われます」
 
「そうだとしますと、最悪の場合、どんな事態になると考えられますか?」
 
「今の時点で最悪の事態を云々するのは適切とは思いません。と申しますのも、一方で治療薬は効くからです。中国流の全面封鎖と一斉検査、そして、治療薬の投与を広範囲に実施すれば今回も封じ込めは可能と期待して良いと思います。現時点では恐れ過ぎず、慌てずに、でも、警戒をしながら状況を見守るしかないと思います」
 
「わかりました。坂崎先生、有難うございました」
 スタジオのキャスターが受けて続けた。
「まだ封じ込めは可能と期待も出来るとの御見立てでした。少し安心しました。続いて北京支局から岩岡記者です」
 
「はい、北京は時差の関係でまだ朝の五時前ですので、今のところ、これといった発表はありません。間もなく何らかの報道があるものと思われます」
 
 支局長の岩岡宏が中継レポートを始めた。菜々子はパリでネット回線を通じて放送を見守っている。山瀬は既にジュネーブに陸路で向かっていた。
 
「新たなクラスターの規模や数など詳細は不明ですが、中国政府は間違いなく総力を挙げて既にこの封じ込めに当たっている筈です。
 外出制限の範囲や動員された人数も不明ですが、再燃現場となった白山市のある吉林省と隣の遼寧省、いずれも北朝鮮と隣接するこの二つの省で広範囲に亘って町が封鎖され、北朝鮮でこれまで作業に従事していたことのある数万人規模のベテラン含め極めて大規模に人員が投入されることになりそうです。地理的に近い北朝鮮に今も残る封じ込め作戦の要員も一定程度振り向けられるかもしれません。
 何と申しましても、万が一、今回の封じ込めに失敗し、ADE株が拡大すれば中国国内は元より世界が再び大惨事に見舞われる恐れがあります。そして、そうなれば習近平政権の基盤が揺らぎます。中国政府は既にやっきになって対処していると思われます。北京からは以上です」
 
 午前六時になると日本とは時差の無い北朝鮮の朝鮮中央通信が政府声明を報じた。
 
「世界保健機関の昨夜の発表に基づき、朝鮮民主主義人民共和国国務委員会は、同日、中華人民共和国との国境管理を一層厳格にする方針を決定し、直ちに実施に移した。中華人民共和国から我が共和国への入境は原則として停止され、例外的に我が共和国側が運航する貨物列車のみ認められる。
 我が共和国に於いて封じ込め作戦に当たっている中華人民共和国の要員と車両等の出国はこの制限を受けない。その他の制限は従来通りである」
 
 要するに、これまで中朝国境の往来が認められていた中国の封じ込め作戦支援要員も今後は入国が禁じられ、出国だけが許されるということのようであった。白山市に向かったWHO調査団の緊急派遣チームも再入国は当面禁じられる可能性が高かった。
 
 中国政府としては必ずしも愉快とは言えない措置だろうが、この緊急事態に文句も言っていられない。また、これに伴い中国との国境に接する北朝鮮の行政区域では外出制限が強化され全員検査を再開することも発表された。
 
 その一時間後、次いで新華社電が事態を報じた。
 
 白山市のADE株が疑われるクラスターは市内の食堂で発生したこと、感染者がこの時点で三十人程になっていること、封鎖と検査、及び、隔離と治療の為、十万人規模の人員が白山市に投入されること、うち一万人程が北朝鮮国内に残っている封じ込め作戦の要員から振り向けられること等が新しい情報だった。感染者の数は習近平主席への当初の内部報告から増えていたが、新華社電はそこまで伝えなかった。
 

 
「順を追ってご説明申し上げます。白山市の感染者は三十二名になりました。新たに見つかった感染者は食堂の二十代の女性従業員の家族と親戚です。国家衛生健康委員会は症状や聞き取り調査の結果などから、食堂のその従業員の家族がまず感染しクラスターに至った可能性が高いと考えております。ただし、こちらの家族の関係者・周辺にも北朝鮮での封じ込め作戦に関わった人間は全くおりません」
 
 北京時間の午前八時、中南海の習近平主席の執務室で御前会議が開かれ、国家衛生健康委員会担当の趙龍雲国務委員が緊張した面持ちで説明を始めた。
 
「感染者の内、最も早く症状を訴えたのは食堂の女性従業員の祖父です。現在は呼吸困難に陥っておりまして、感染者の中で最も深刻な状態です。
 委員会では、この白山市第一号患者と思われる男の行動歴を鋭意洗っておりますが、発症から遡って十日の間に家族及び親戚以外との接触は確認されておりません」
 
「それは何を意味するのだ?」
 
 習主席が尋ねた。第一号患者が誰からウイルスを貰ったのか見当が全くつかないからだ。
 
「はい、ご賢察の通り、この白山第一号患者にウイルスを移した人間は見当たらないということでございます。この家族の下に北朝鮮から入ってきた物品もございません。つまりモノから移った可能性も低いと考えられるということでございます」
 
「どういうことだ?」
 主席が極めて不機嫌な表情のまま尋ねた。
 
「ヒトでもなくモノでもないとすれば、残る可能性は動物ということになります。
 随分前の事でございますが、かつて、デンマークで毛皮用に飼育されていたミンクから新型コロナウイルスがヒトに移った事例が知られております。また世界ではゴリラ等の類人猿や猫類、犬、そして、野生の鹿等が新型コロナに感染した事例も報告されております。
 動物から人間への再感染が確認された事例は稀なのでございますが、今回の白山市第一号患者は体調不良を訴え始めた前日の朝に近くの長白山自然保護区で密猟した野生の鹿を解体処理したことが分かっております。手袋や防護服など全く用意無しで作業したそうでございます。
 そして、その鹿がADE株に感染していた可能性が高いと思われます。現在は、冷凍保存されていたその鹿の肉の検査結果が出るのを待っているところでございまして遅くとも本日昼までにはご報告出来ると思っております」
 
「何と野生の鹿だと…」

「十中八九そのように思われます。そうでなければADE株は何キロも空中を漂ってきたことになってしまいます」
 
「同様の事案がまた起きる恐れはないのか?」

「感染した鹿を素手で解体処理するといったことをしない限りその可能性は極めて低いと思われます。長白山自然保護区始め各地の保護区や周辺の自治体には、鹿の弱った個体や死体を発見した場合はむやみに近寄らず、慎重かつ速やかに土中に埋めて処理するよう緊急通達はもう致しました。また、鹿の肉の保管・売買・摂取も禁止する旨通達致しました」
 
「治療薬は効いているのだな?」

「第一号患者は発見が遅れた為手遅れになる可能性がございますが、他の感染者は既に快方に向かっているか少なくとも小康状態を保っております。治療薬は効いていると考えて問題は無いものと存じます。また、感染者の接触者と更にその周辺の人間も既に広範囲に隔離し、予防投与を開始しております。
 ADE株の特性上、ワクチンを接種済みの我が国の人民に対する感染力や毒性は高いと推定されますので、今後も感染者は増えるものと思われますが、隔離と予防投与を徹底することで抑え込みは可能と考えております。
 国家衛生健康委員会からの報告は以上でございます」
 
「分かった。水も漏らさぬように徹底的にやって欲しい。一滴もだ」
「畏まりました」
 
「鹿の流入を防ぐことは出来ぬか?」
 
 習主席が次に劉正副主席に尋ねた。
 
「国境警備の部隊には人間だけではなく鹿の流入も防ぐよう早速指示を出したいと存じます。また、要所に防護柵を設置したいと存じます。それでも鹿の流入を完全に防ぐことは難しいかと存じますが、ある程度の効果は上げられると思われます」
 
「そうしてくれ。WHOは?」

「WHOは現地調査団と本部から合わせて三十人程の調査団を派遣するようでございます。西側の治療薬も用意すると聞いております。WHOには適宜情報を提供し、世界への詳しい発表は彼らに担ってもらう予定です」
 
「それで良い。白山ではある程度彼らの自由にさせて構わない。むしろその方が良いだろう。北朝鮮側はどうするのだ?」
「白山市に近い国境地帯で全面封鎖と全員検査を強化する方針を北朝鮮政府も既に打ち出しております。これを支援し、直ちに作業を始めるべく我が国の現地要員は準備を開始しておるところでございます」
「分かった。速やかに頼む。他には?解放軍が一斉に鹿狩りを始める訳にはいかんだろうが…」
「おっしゃる通りかと存じます。しかしながら、人里近くに出て来た個体等に関しましては、各地で適宜対処することになると存じます。北朝鮮側でも同様の措置になるかと推測致します」
「そうか…鹿ごときの事で余計な騒ぎにならぬように上手くやって欲しい。頼むぞ」
「畏まりました」
 
「では、宜しければ次に核凍結宣言を巡る問題の討議に移りたいと存じます。まず、党対外連絡部の郭燿部長よりご報告申し上げます」
 
劉正副主席が議事を進めた。御前会議は更に続いた。
 
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
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