オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その118

 ニューヨーク・タイムズ紙報道

 
 
 翌水曜日、メトロポリタン放送総務・人事担当専務の矢吹淳也が出社すると代表秘書の北山和明からメッセージが入っていた。
 
「お早うございます。急ぎませんが、今日中にお伝えしたいことがあります。また連絡致します」
 
 北京の話に違いないと察した矢吹は直ぐに北山に折り返した。すると北山はものの数分で矢吹の部屋にやって来た。
 
「お早う。何か急用でも?」
 矢吹は殊更に訝し気な表情を作った。
 
「お早うございます。あの、昨日までの北京訪問で、ちょっと拙いことになりそうな気配なんで、折り入って専務のお耳に入れておこうと思いまして…」
 北山は深刻な表情をしていた。意図的かどうかは分からなかった。
 
「えー、主席との面会の下拵えじゃなかったの?」
 いつもの軽さを取り戻したように矢吹が尋ねた。
 
「いや、その要素がゼロだったとは思いませんが、どうやら弊社の北朝鮮絡みの取材に釘を刺してきまして…王鶴さんは本気でした」
「うわっ、報道局が何かやらしたの?」
「いや、それが未だのようでして、王鶴さんは、機先を制して、一言でいえば、憶測に基づく先走った報道をするな、適切な時期を待てと…」
「何だい、それ?いくら大物でも、当事者でもない外部の人間、ましてや外国の政治家に四の五の言われる筋合いは無いんじゃないの?」
 
 矢吹は当然の反応を示した。
 
「確かにおっしゃる通りなんですが、王鶴さんは場合によっては様々な悪影響がある、弊社と中国の関係にも弊害が生じる恐れがあると匂わせまして…問題を相当重要視しているのは明らかでした」
 
「うへー、でも、それなら誤報さえ出さなければ良いんじゃないの?代表は何と?」
「まさに誤報は良くない、出してはならないと一般論でお応えしただけなのですが、先方は、代表がそのネタはもう出さないと約束したと受け取ったでしょう」
「それってかなり具合が悪くない?どんな話だが知らないけれど、そのネタを握り潰すと中国政府要人と約束しちゃったことになるんじゃないの?表に出たらただでは済まないかもしれないよ」
 
 報道出身の矢吹は煙幕を張りながら困った顔をして言った。矢吹は株主総会の担当でもある。こんな話が漏れたら総会は大荒れになる恐れがあるのだ。
 
「確かにご懸念はごもっともなんですが、お伝えしたかったのは更にその先なんです」
「うん?まだ先があるの?」

 ここからは矢吹にも見当が付かない。

「そうなんです。面談が終わった後、四人で軽い夕食を摂っている時に代表のお尋ねに、宮澤部長は、王鶴さんが指す報道とは北朝鮮の金一族の動静に纏わる取材だと思うが、100%の自信は自分達もまだ無いので、現時点で放送する予定は無いと。そして、代表は誤報を出すなと念を押しました」
「何だ、それなら当たり前の話だよね。元々、放送できる状況には無いと現場が判断しているなら、何の問題も無いじゃないの…」
 
 矢吹は安堵した振りをして言った。
 
「それはそうです。でも、更にその後、飛行機の中で私と二人だけの時に代表は独り言のように、しかし、私には聞こえるように、こうおっしゃられたんです。『アイツ、俺には全部喋る気がないんだな…』と。きっと宮澤さんにはかなりまずい状況になります。これを専務に申し上げたかったんです」
 
「何と…!気の毒な…」
 矢吹の本音が漏れた。代表は忖度しようとしない幹部を許さないのだ。
「宮澤はどうすれば良いんだ?」
 矢吹が少し慌てて尋ねる。いつものように菜々子とは呼ばなかった。
 
「宮澤さんは、直ぐにも代表に面会して、きちんとご説明申し上げた方が良いかと思います。差し出がましいようですが、北京では盗聴の心配もあるので口に出来なかったとでも言い訳して…。今日は出社されませんが、明日は10時頃にお見えになります。時間なら私が確保致しますので、そのようにお取り払い頂くと良いかと思います」
 
「そういう事か…伝えましょう。遅くとも明日の朝には彼女から君に連絡して、そうするようにとね」
 
 北山は矢吹と菜々子が親しいのを知っている。ということは代表もそれを知っている。自分も今後の行動には細心の注意を払う必要があると肝に銘じた。
 
 白山市に飛び火したADE株封じ込め作戦は順調に推移していた。米朝交渉も次のステップに進む。国際取材部の現在の主要取材テーマは、あくまでもこの時点に過ぎないが、いずれも暗礁に乗り上げることなく進行しているように見えた。しかし、メトロポリタン放送国際取材部の先行きには巨大な暗雲が立ち込めていたのだ。
 
 
 その夜六時半過ぎ、仕事を終えた矢吹は一足早くオーフ・ザ・レコードのカウンターに座っていた。菜々子とここで落ち合う約束をしてあった。彼女が来るのは早くても一時間後になる筈だった。
 
「あーあ、あの爺さん、また現場に手を突っ込むつもりっつう事か…」
 矢吹の報告を聞いてルークが溜息をついた。
「現場の事は現場に任せて置きゃあ良いのにな…、本人が思う程大物ではないってことさ」
 
「やっぱり、もう手遅れと思いますか?」
「残念ながら、そうなんだろうな…多分…」
 ルークは再び溜息をついた。
「しかし、改めて報告をすべしというのは…?」
 矢吹が問うた。
 
「それはやった方が良いんじゃないか?もう手遅れだろうが、更に怒らせちゃあ、次の行き先がもっと酷いことになるだろうからな」
「しかし、全部ゲロする訳にはいかないと思いますが…どう説明するか問題ですよ」
「その点はちょっと考える必要があるな…下手すると取材内容を総浚いされて、完全なお蔵入りにされる恐れがあるし、加藤も黙っちゃいないだろうからな…」
「思案のしどころですか…」
 
 ルークと矢吹は沈思黙考し始めた。
 
「そういえば、菜々子も加藤も今のポジションに就いて何年経った?」
 ルークが再び口を開いた。
「二人とももうすぐ丸4年を迎えますね」
 矢吹が応えた。
「とすると、そろそろガラガラポンになってもどのみち不思議じゃない時期だな…」
「それはそうです」
「いいか、矢吹、上手く立ち回れよ」
「え、私がですか?」
 
 矢吹が惚けようとする。しかし、ルークはそんなことは意に介さず続けた。
 
「もう分かるだろう?報道の為にも君が生き残ることは悪いことでは無い。面倒だろうが、上手くやってくれよ」
「うーん…」

 矢吹が唸り、再び熟考を始めた。
 
 店のベルが鳴った。
 
 
「核管理問題、信頼醸成措置と支援問題、二国間関係正常化問題の三分野で米朝本格交渉開始へ」
 
 その頃、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙がウェブ・ページに独自ネタと称する記事を掲載した。
 
 アメリカ政府の対外政策についてすっぱ抜くのはワシントン・ポスト紙の専売特許ではない。時の政権の色合いにもよるが、ニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナル紙も、政府側のリーク・情報提供を受けるなどして、しばしば独自報道をする。
 
 例えば、あの最悪と言われる大統領の時代には、政権と友好な関係を築いたウォール・ストリート・ジャーナル紙が一頭地を抜けていた。が、今回はニューヨーク・タイムズ紙が先んじたのだ。
 
「ジュネーブで昨日まで二日間に亘って行われた米朝二国間の事務レベルの話し合いで、今後、テーマを大きく三分野に分けて本格交渉を開始することで概ね一致した。
 一つは核管理問題で、CVIDを目指すアメリカは、先ず、現在進行中の査察の範囲を全国に拡大し、抜き打ち査察を北朝鮮が受け入れるよう迫る方針だ。
 二つ目は信頼醸成措置と人道支援問題で、この分野では韓国に駐留する国連軍と北朝鮮軍のコミュニケーション・チャンネルの強化や双方の首都に連絡事務所を設立する問題が討議される。そして、北朝鮮へのエネルギー・食料・肥料の支援問題や制裁の部分的・段階的解除問題も話し合われる。
 三つ目は、二国間関係の分野で、今なお法的には休戦状態にあるに過ぎない朝鮮戦争の終結宣言や国交正常化交渉の開始時期などが話し合われることになる。終結宣言交渉には戦争当事国だった韓国と中国も参加する見込みだ。
 そして、いずれも行動対行動の原則に基づき交渉が進められ、一歩ずつ解決を目指す方針も確認された」
 
 山瀬の想定はほぼ当たっていた。
 
「ここまで網羅的に交渉議題が設定される見通しになったことに、北朝鮮問題の専門家は驚きと共に歓迎の声を上げているが、アメリカ政府当局者は『先行きは難問山積だが、双方が問題解決に向けて本気であることの証だ』と、身元を明らかにしないという条件付きで本紙記者に述べた」
 
 記事はなお続いた。
 
「最初の焦点は査察問題で交渉がどのような進捗を見せるかに掛かっている。行動対行動の原則に基づき『他の交渉の進展は、これ次第になるだろう』との見方を、この当局者は示した。
 本格交渉は、ADE株封じ込め作戦の成否を見て、早ければ数週間程度で開始される見通しだ」
 
 メトロポリタン放送はもとより、関係各国メディアは、米朝交渉に関して、このタイムズ紙報道を引用して一斉に報じた。
 
 各国政府が歓迎するのは当然だった。この状態が潰れるような事態を誰も望まないのも自然であった。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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