オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その98
代表団派遣
IAEA・国際原子力機関がこの日午前、ホーム・ページに北朝鮮への査察団の派遣を発表した。
発表文には次のように記してあった。
「DPRK・朝鮮民主主義人民共和国の招聘を受け、IAEA理事会は、寧辺の核施設の査察の為、IAEA保護措置局の査察団を派遣することで合意した。
チームは二十四名の査察官の他、エンジニアや通訳他支援要員含め総勢八十余名で構成され、週明け月曜日の早朝にウィーンを飛び立つチャーター機で現地に向かう。チャーター機には欧州に駐在するDPRKの政府職員らも同乗し、IAEA査察団の現地入りをサポートする予定である」
発表文では言及されなかったが、査察団を率いるのは保護措置局のハンス・クローネ次長で、現地査察にわざわざ局次長を派遣すると言うのはIAEAの並々ならぬ意欲を示すものと受け止められた。
チャーター機の使用と北朝鮮政府職員の同行も異例だったが、こちらも寧辺の査察の重要性を意味するものと見られただけだった。
もはや既定路線ではあったが、メディア各社は査察団派遣の正式発表を直ちに報じた。メトロポリタン放送も夕方のメイン・ニュース番組の終了間近であったが、速報という形でこれを伝え、北朝鮮の凍結宣言から更に一歩、朝鮮半島の緊張緩和が前進したとコメントした。同業各社もこの動きを好意的に伝えた。
菜々子はそれどころではなかった。山瀬から大友倒るという一報を受け取っていたからだ。続報待ちであったが、菜々子は加藤局長らにこれを伝え、自分が翌日パリに向かう旨了承を得ていた。
菜々子は直ぐにでも支度をしてパリに向かいたかったが、この日のフライトはもう間に合わない。翌日朝一番の北京経由パリ行きの中国国際航空の手配をした。ロシアによるウクライナ侵攻以来、西側各国の航空会社はシベリア上空を飛ぶ直行便を飛ばしていない。北京経由が一番速かった。
この日の夜の会合予定をキャンセルし、やきもきしながら待っていると山瀬から漸く電話があった。
「大丈夫です。一命は取り留めました。心臓発作だそうです。まだICUですが、意識も戻りました」
朗報だ。
「良かった…」
菜々子は心の底から安堵した。
「詳細は分かり次第、また連絡します」
山瀬が言った。
「ご家族は?」
菜々子が尋ねた。
「直ぐ隣に居ます。やはり安堵されています」
「そう…ご家族も本当に驚かれたでしょう…くれぐれも宜しくお伝えください。私は明日、そちらに向かいます。後でフライト情報を送ります。手が空いたら、病院の名前と住所を連絡してください。宿の手配もお願いします。山瀬と同じホテルですかね…ほんと良かった…」
「了解です。また連絡します」
電話を切ると菜々子は加藤局長の部屋に向かった。
「どうなった?」
ソファから少し腰を浮かし、菜々子に尋ねた。既に夕方のニュースは終わり通常の退社時刻を過ぎていたが、加藤も待っていた。
「一命は取り留めたそうです」
菜々子がそう報告すると加藤はソファに全身を再び落とした。
「それは何よりだ…原因は?」
「心臓発作だそうです。まだICUに居るそうですが、意識は戻ったということです。詳細はまた後で報告が来ます」
「過労か?」
「まだ分かりません。当然、それもあるかと思いますが、大友の場合は…」
「そうだな…」
大友の大食と太り過ぎは報道局内で知らぬ者は居ない。加藤はソファから腰を上げ、帰り支度を始めながら言った。
「兎に角、生きていて良かった。私はもう出る。客を待たせているんだ。続報は直ぐにメールで頼む」
「分かりました。私は予定通り、明日、パリに向かいます」
「了解。よろしく頼む」
菜々子が局長室を出て自席に戻ろうとすると、またニュース制作部長の雨宮富士子が寄って来て言った。
「大友が大変なんですって?」
異変を察知して聞き回ったに違いない。
「ええ、でも大丈夫です。意識はあります」
「それは良かった…でも可哀そうに…働かせ過ぎなんじゃないのかしら?」
これには応えず、菜々子は一礼すると自席に戻った。明日のパリ行きの支度をしなければならない。
自分のデスクを片付け、国際取材部の当番デスクと意見交換をし、この情報を伝えるべき人間を互いに確認すると、菜々子は家路を急いだ。空腹は全く感じなかった。
同じ頃、査察団を率いるIAEA保護措置局のハンス・クローネ次長は、寧辺行きの準備に忙殺されていた。
「チャーター機は明日朝にはウィーン空港に来ると言うのだな?何とも手回しの早い事だ。驚きだ…」
クローネ次長が感嘆するとロジ担当の局員が応えた。
「どうもフランス当局が水面下でバックアップしている気配を感じます。エール・フランスも非常に前向きです。珍しいことは間違いありません」
「バックアップ…?特別な理由でもあるのかい?」
「それは分かりませんが、悪いことではありません。我々は予想以上にスムースに動けるのですから」
「それはそうだな…」
ロジ担当が説明を続けた。
「機材はエール・フランス所有のA321、その超長距離型XLRです。これですとウィーンからアンカレジまで、そしてアンカレジから平壌までワンストップで行けます。乗客は二百人程度なら楽に乗れます。当然、我々の荷物にも十分なスペースがあります」
「成る程…査察団の規模からすると随分と大仰になるな」
「それはそうですね。何といっても長距離を飛ぶチャーター機ですからそうなります。ただ、彼らは彼らの要員向けに真ん中辺りでキャビンを仕切り、後ろは彼らの専用にしたいようです。新型コロナ用の医薬品や防護服も積んでいきたいと言っています」
「制裁対象の贅沢品などは駄目だが、大丈夫か?」
「それは念押しをしました。IAEAが国連の制裁破りに利用されるのは認められません。彼らもそれは分かっているということでした。荷物は人道目的の医薬用品と個人の私物だけだと言っておりました」
「了解。面倒だが、我々もコロナ対策は怠りなく準備しなければ…宜しく頼む」
「承知しました。査察官達はどのみち防護服が必要ですので装備はしっかり整えます。まだ暑くないのが救いですね」
「発作の程度は軽く、もう大丈夫だろうということです。念の為、今晩はICUに留まります。原因は小さな血栓が冠動脈に詰まったことで、駆け付けた同じビルの地下のクリニックの医師の判断が良く、抗凝固剤をすぐに投与したのが幸いしたという診立てです。直ぐ地下にクリニックがあって、こればかりはラッキーでした。奥様も感謝していました」
山瀬からの報告だ。菜々子はパッキングの手を止めて目を通す。
「本人はもうお腹が空いたと言っているらしいのですが、食事はまだ許されていないそうです。兎に角、ダイエットが必要なのは誰の眼にも明らかです。今度ばかりは、大友さんも節制するでしょう」
大友がこれに懲りて食事をコントロールしてくれることを菜々子も願った。
山瀬の説明は続いた。
「当局の担当者も心の底から安堵しています。任意とは言え、彼らのオフィスで事情聴取をしている最中に日本人ジャーナリストに万が一のことがあったら大問題になります。余り詳しい説明は無いのですが、当局が取材を控えるよう求めて来て、やり取りしている最中に大友さんは倒れたそうです。ドイツ語で会話をしていたらしく、話の内容はベルナールも理解していませんが、先方は相当激高していたようです。それが発作を誘発した可能性はあります」
まずは本人に事情を聴かないことにはやはり詳しいことは分からない。それにしても無事でよかったと菜々子は改めて思った。
「大友さんの容態が落ち着いた後、ベルナールが当局の人間に相当な勢いで咬みついたようですが、先方はひたすら低姿勢だったそうです。ただし、非は認めません。違法な事はしていないという主張です。まあ、任意でしたし、手荒な行為も無かったのは間違いありません。
根本原因は、ほぼ間違いなく、大友さんの太り過ぎなので、こちらとしてもそんなに強く出るのは難しいかもしれません。兎に角、救かって良かったです。先方の名刺はベルナールが確保しました」
菜々子はパリに着いて、大友を見舞ったら先方に面談を申し入れるつもりだった。名刺があれば大丈夫だ。山瀬からの報告は更に続いた。
「今日の所はこれにて我々も引き上げます。奥様もお子さんがいるので、間もなく帰宅されるようです。病院の医師は大丈夫だと言っています。入院先は現場近くの救急病院です。例の病院からそんなに遠くありません。サン・シモン総合病院と言います。
部長の宿は同じホテルを確保しました。何かあればまた連絡します」
「ご苦労様です。色々手数を掛けますが、宜しくお願いします。私は空港から支局に直接向かいます。奥様にくれぐれも宜しく伝えてください」
菜々子は山瀬にこう返信した。
少し悩んだのは加藤への報告だった。大友の状況についてはそのまま伝えるのが当然としても、何の取材中に倒れたのかとなると全て話すわけにはいかない。
結局、パリ市内を取材中にバタクラン劇場近くで、警備の当局者とちょっと揉めている最中に倒れたと言うことにした。正直ではないが、嘘はない。実際、倒れた現場はバタクラン劇場から遠くない。菜々子は山瀬にもその旨を伝えるのを忘れなかった。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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