オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その97
任意同行
日本時間のその日夕方、現地時間の朝、いつものように大友達は早めにオフィスに出て準備を整えると定点観測用の屋根裏部屋に向かった。途中、これまたいつものようにパン屋に立ち寄り、大友はカフェ・オ・レとパン・オ・ショコラを購入した。連日の取材のせいで彼の食欲は少し落ちたとはいえ、相変わらず旺盛だ。
山瀬は午前中、ホテルでゆっくりしている。
屋根裏部屋に到着し、アヌールがカメラをセットし終えると部屋のベルが鳴った。デリバリーはまだ頼んでいない。怪訝な顔をしたベルナールが応対し、何やらやり取りが続いた。ベルナールの顔色が変わる。大友も異状に気付いた。
慌てたベルナールは身振りでカメラを片付けるよう指示する。そして、ボタンを押して、階下の入り口のドアを開錠した。
「来ます。見つかったみたいです。内務省の人間と言っています」
「えっ!」
大友が絶句した。こんな事態は予想もしていなかった。もはや逃げ出すわけにはいかない。
ドアがノックされベルナールが応対に出た。その間に大友は菜々子と山瀬に一報する。
来訪した係官達の身分証明書を確認するとベルナールが大友に告げた。
「彼らのオフィスに一緒に来て欲しいそうです」
ベルナールは既に諦め顔だ。
拒否することは出来ない。すれば公務執行妨害かテロ準備の疑いで拘束される恐れがある。フランスやイギリスではテロに関わる疑い有りと看做されると令状なしでも拘束される。
先方は既に大友達の身元を確認していて、テロリストでないことは先刻承知のはずだが、それでも抵抗すれば面倒になるだけだ。この際、堂々と任意同行に応じる方が得策だと大友も瞬時に判断した。
「お茶」
大友は菜々子と山瀬に一言だけの続報を見咎められる前に入れると荷物を片付け、三人揃って係官に同行する。大人しく指示に従えば手荒なことをされる心配はない。三人とも正規の記者証を持つ日本のメディアの報道関係者だからだ。此処はロシアとは違う。
二人の係官は黙って大友らを誘う。階下にはバンが一台待ち受けていた。
連れていかれたのは近くにある内務省の別館らしき建物であった。八区のポーヴォ広場にある本省の建物でもなく、二十区のモルティエ大通りにあるDGSE・対外治安総局の本部でもないことは大友にも分かった。
駐車場で降りると大友達は一階奥の個室に案内される。途中の階段を地下に降りると食堂とクリニックがあるのが案内表示で分かる。
アヌールは機材と共に隣の別室に通された。各種映像を今更没収されることは無い筈だ。それに、もう既に東京に全部送ってある。
大友とベルナールが通された部屋はソファがあり、座って待つように指示された。机と椅子が置かれているだけの取調室のような殺風景な部屋とは異なることに二人は少し安堵した。アヌールの部屋の様子は分からない。
暫くすると茶ではなくコーヒーが運ばれてきた。一応、来客扱いをされているようだ。
大友はソファに深く腰掛け、コーヒーを啜った。苦い。香りは分からない。疲れもどっと出て来た。心臓の鼓動も速い。
すると背広姿の壮年の男が二人、部屋に入ってきた。片方は幾分若い。年嵩の方が大友の正面に座り、自己紹介を始めた。
「DGSE・対外治安総局のシモンといいます。アジア地区を担当しています」
男はそう言って身分証を見せた。ベルナールが覗き込み、名前と顔写真を確認する。
「生憎、名刺は持ち合わせていませんが、そちらは日本のメトロポリタン放送の大友さんとベルナールさんですね?」
大友は頷く。
「もう用件はお分かりだと思いますが、あなた方がやっていることは問題です。プライバシーの侵害に当たります」
「プライバシー?私たちは植物園の季節の移ろいを撮影しているだけですけれど…」
ベルナールが何とか言い逃れようと空しい努力をした。
「植物園の取材なら、もっと堂々とやれる筈です。申請すれば中に入って撮影することも出来ます。あんなところにずっと隠れて取材するのは不自然ですね」
シモンの口調は穏やかだったが、そんな言い訳は断固として受け入れないという姿勢は明確だった。
するとシモンがドイツ語で喋り始めた。
「大友さん、貴方にはドイツ語の方が良いと思いますので、ドイツ語で申し上げます。貴方がやっている取材は病院の患者やスタッフのプライバシーを明らかに侵害しています」
大友は暫し考えて応えた。ドイツ語だ。
「何か具体的に苦情もあるのですか?」
ベルナールに会話の内容はもう分からない。
「具体的に苦情がきているわけではないですね」
シモンが少しムッとして応えた。
「それならばプライバシーの侵害はお門違いではないですか?我々は外から誰にでも見える景色を撮影しているだけなのです。何処かの建物の部屋の中まで覗き込んでいるつもりはありません。人影位写ってしまっているかもしれませんがね」
大友はやや太々しい口調で反撃を始めた。だが、内心はびくびくもので、脇は汗でびっしょりだ。鼓動は更に速い。
シモンの顔が少し赤くなった。
「季節の移ろいを撮影しているなんて言い草こそお門違いですな。我々は貴方達が何をしていたのか把握しているのですぞ。病院にも迷惑です」
「病院…その病院から苦情でもあるのですか?だとすれば我々に直接言ってくるはずで、皆さんの出番ではないと思いますがね」
大友は更に反論する。口の中はカラカラだ。大友はコーヒーを一口飲み、深呼吸をする。彼は勇気を振り絞って感触を得ようとしているのだ。
シモンは押し黙る。顔は更に赤い。
「おっしゃりたいのがそれだけでしたら我々はそろそろお暇したいと思いますが、他に何かございますか?」
大友は腰を上げるそぶりをした。
「いや、待て。君たちにウロチョロされると迷惑なんだ。もういい加減にして貰いたい。さもないとこちらにも考えがある」
「ほー」
大友は腰を落とし尋ねた。
「お考えとは何でしょうか?我々はどなたにもご迷惑を掛けているとは思えませんが…具体的な苦情は無いと、シモンさん、貴方もそうおっしゃったではないですか」
シモンは既に爆発寸前だ。大友達に知る由もなかったが、彼は元々短気が欠点と言われていたのだ。
「どんなお考えかお聞かせ願えませんか?我々としても明確な理由なく、景色の撮影を止めろと言われましてもおいそれとは…取材は自由だと思いますが…」
「惚けるのもいい加減にしてくれ。患者だっておちおち療養していられないだろう!それが迷惑なんだ!」
シモンはついに怒鳴り始めた。大友は内心縮み上がるが、取って置きの張ったりをかます。
「患者さんとは、もしかしてカン・チョルさんですか?皆さん方は今時、その人物の警護をしているということですか?」
シモンが鬼のような形相になった。大友は失神寸前だ。
「そんな人間は関係ない!君は何を言っているのだ?勘違いも甚だしい!」
カン・チョルという名前はベルナールも聞き取った。大友の顔を見る。蒼白だ。
若い方の係官はまるで自分は関係ないとでもいうような態度でひたすらメモを続ける。大人しい筈の日本人が反撃に出て来るという意外な展開に慌てているのを必死で押し隠しているようだ。
大友は最後の一押しをする。自分の心臓の鼓動が非常に怪しくなったのを無視した。
「カン・チョルは偽名ですよね。そんな人物を皆さんは抱え込んでいるのですか?カン・チョルと言えば、北朝鮮のキム・ジョ…」
そこでシモンが爆発した。
「ふざけるな!彼はジョンウンでもジョンチョルでもない。ただのカン・チョルだ!」
「えっ!」
大友は絶句した。患者がジョンウンだとは大友自身も確信していなかった。その名前が先方の口から出て来たのだ。決まりだ。
頭が朦朧としてくる。
「ジョンウンだと…」
言葉を発することは出来なかった。霞が掛かったように頭は更に朦朧としてくる。
遠くから娘の楽し気な笑い声が追いかけて来た。
「ごっちゃ!…」
空気を必死で吸い込もうとするように大口を開けて、左胸に手を当てた大友の巨躯がソファから滑り始め、額をコーヒー・テーブルに打ち付けると床に落ちた。
大友の身体を支えようとしたベルナールの医師を求める叫び声が徐々に小さくなっていった。
若い係官がすぐに部屋を走り出た。数分で地下のクリニックの医師と看護師が駆け込んで来る。間もなく救急車の音も近づいて来た。
その頃、パリ・セーヌ南外科病棟の地下駐車場から救急車や警護車両を含む五台の車列が静かに移動を始めていた。
それ自体珍しい光景ではあったが、誰の注目を集めることも無かった。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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