オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その81
ボヘミアン・グラス
翌火曜日、昼間の仕事を片付けると菜々子は早めにオーフ・ザ・レコードに向かった。ルークにこれまでのパリの取材経過を伝える為だ。
「お疲れ様です」
菜々子が六時過ぎに到着するとルークは少し背の高いワイン・グラスを拭いていた。
それは高価な物ではなかったが、八十九年に当時のチェコ・スロバキアで起きたベルベット革命が一段落した後、ルークが首都・プラハで買い求めたボヘミアン・グラスだった。薄いピンクの華奢な色ガラスに花模様の小さな模様が刻まれ、縁に沿って金メッキが施されている。
その頃、現地通貨に比べて西側の外貨、所謂ハード・カレンシーの力が圧倒的で、六脚で実質二千円もしなかったと菜々子は聞いている。東西の経済力は段違いだったのだ。彼我の国力の差と言っても良い。
とは言え、ルークには思い出の品らしく、普段は棚に飾られているだけ。滅多に使われることは無かった。
「お疲れ様。生ビールで良い?瓶詰で構わなければアメリカのクラフト・ビールもあるよ」
ワイン・グラスを棚に戻すとルークが尋ねた。
「あ、じゃあ、クラフト・ビールをお願いします」
ルークが注いだビ―ルと瓶を菜々子の前に置く。こちらのクラスはどこにでもある一般的な物だ。クラフト・ビールは色も味も、そしてアルコールも一般的な生ビールより少し濃い。
「頂きます」
菜々子は一口飲んだ。ほんのり花の香りがした。
「これ、良いですね。好きな味です」
アルコールには滅法強い菜々子が言った。
「あの、ルークさん、大友達なんですけれど…」
菜々子はパリでの取材の経緯とこれまでの成果を話し始めた。
話を一通り聞き終えるとルークが言った。
「つまりは、今の所、これまでの情報と読み通りという事だね」
「そうなります」
「しかし、その通りだとすると、パリの患者こそが金正恩総書記で、習近平主席と会談し、今は平壌に居る総書記は別人、多分、兄の正哲の可能性が高いということになる。ただし、あくまでも、一人の人間というか個体としてだ。
しかし、北朝鮮政府にとっても、そして、多分、中国政府のとっても、今や平壌に居る正哲こそが金正恩総書記で、パリに居る患者は、両国政府にとって表向きは北朝鮮国民の一人に過ぎないということになる」
菜々子が頷いた。
「これは仮に更に取材に成功しても一筋縄ではいかないな。そう簡単に放送できるとは限らないということになる。指紋やDNAの鑑定が我々にできる訳は無いが、仮に出来たとしても取り扱いは非常に難しい話になるかもしれないな」
「そうかも知れません。でも、取材を進める価値は絶対あると思います」
「それはその通り。菜々子、正哲がよく使っていた別名を覚えているだろう?」
「カン・チョルですね」
「同じ名前を患者も使っているかもしれないね。あくまでもカン・チョルという一市民或いは外交官と言う体裁でね」
菜々子は改めて考え込んだ。
「確かにそうです…、その名前は大友達も頭に入っているはずですけれど、一応、注意喚起しておきます」
「いやはや、今回が初めてという訳では無いかも知れんが、非常に怖いところにもう突っ込んじまった気もするな。とは言え、中途半端に引き返すわけにもいかないか…」
ルークが珍しく溜息を突いた。
確かに、今ならまだ引き返すことは出来なくもない…しかし、ここまで来た以上、映像だけでも押さえてから考えるしかない…菜々子はそう思った。
店のベルが鳴った。
背の高い金髪の白人男性が入って来て言った。
「ハロー、フレン。イッツ・ヴェリー・ナイス・トゥ・シー・ユー・トゥー」
日本語にすれば「やあ、友人達、二人に会えてうれしいよ」である。彼は日本語を基本的に話さない。
「お久しぶりです、ドン。また会えて私も嬉しいです」
菜々子は英語で言った。
「久しぶり。私のフル・ネームはジェフリー・ドナルド・ウォルシュ。貴女にフル・ネーム言うのは初めてかな」
ルークがニヤリと笑い、言った。
「ようこそ、ジェフ。何を飲みますか?ワイン?それとも?」
「彼女と同じ物をお願いします、甲斐」
菜々子は目をパチクリさせた。
「甲斐さんは貴方をジェフと呼び、私はドンと呼んでいますが、どちらが良いのです?」
ルークがクラフト・ビールを用意する間に菜々子が尋ねた。ドンはドナルドの愛称だ。
「どちらでも構わないですよ。両方とも私の名前だから」
ドンが応えた。
「察するに君たち二人は前からの知り合いということだね」
ルークがグラスと瓶をジェフリー・ドンの前に置き言った。
「そう。ワシントンの友人宅のパーティーで知りあったんだ」
ジェフリー・ドンが応えた。
「そうです」
菜々子が続けた。
「そして、君は菜々子と私が同僚だという事はすぐ分かったという訳だね?」
「その通り」
「はっはっは、君も人が悪いね」
「そうかも知れない」
「でも、違う名前で呼ばれていると混乱しませんか?」
菜々子が尋ねた。
「いや、慣れているよ。それに、欧米ではそんなに珍しい事でもない」
言われて、ルークは別の友人の事を思い出した。家族は彼の事をファースト・ネームでイアンと呼ぶが、友人の間ではセカンド・ネームのジョナサンで通っている。
ルークが尋ねた。
「確かに、そんなケースを私は他にも知っているよ。奥さんはどちらの名前で呼ぶんだい?」
「普段はドン。しかし、何かカチンと来たジェフリー・ドナルドと呼びつけられる。そんな時は非常に怖いけれどね」
「はっはっ、じゃあ、我々はジェフに統一するか。奥様に敬意を表してね。東京ではジェフなんだしね」
「オーケー」
「分かりました」
するとジェフが言った。
「甲斐、ちょっとディープ・バックグラウンドの部屋を借りて良いかな?彼女が話をしたいらしいんだ」
「勿論さ、どうぞ」
二人はグラスを持って移動する。菜々子はルークに一礼した。
「シェパーズ・パイはその後に用意するよ」
ルークは二人の背中に声を掛けた。
「良いポイントを突いた質問だったよ。君のメールさ」
部屋のドアを菜々子が閉じるとジェフが言った。
「サンキュー。でも、どんなところがですか?」
菜々子が尋ねた。
「嵐の前の静けさかも知れないという認識さ」
すると菜々子が先を促すようにジェフの眼をじっと見つめた。これには大半の男が抗えない。
「いや、冷静に考えてみればそうだろう?このまま先にも何もなく、全てが元の鞘に収まる可能性は低いと考えるのは当然だろうということさ。何もない方がむしろ不自然と言えるかもしれない」
菜々子は首を傾げながら思案気だ。しかし、何も言わない。少しの間を置いて、ジェフが続けた。
「何とも言えないが、これほど沢山の中国兵が入って、食料・エネルギーを溢れる程持ち込んだんだ。それで国民の意識は良かった良かっただけで済む筈はない。何もかもが不足していた今までの異常さを嫌でも感じているだろうからさ」
「そうですよね。すぐ元通りになったら不満が爆発する恐れはありますよね」
菜々子が漸く合いの手を打った。
「一度知ってしまった蜜の味を人間はそう簡単には忘れないんだ」
ジェフが続けた。
「この問題に対処するには、取り敢えず援助を引き出し続けるのが一番だ。自力ではどうにもならない。だから、そうしようとしても不思議ではない。少なくとも秋の収穫まではね。ちょっと考えればここまでは誰でも想像できる」
「でも、中国だけを頼りにし続けるのは危なくないですか?国を乗っ取られてしまうかも知れません」
菜々子が言った。
「昔から北朝鮮は周辺の国を順に揺さぶったり、脅したり、すかしたりしながら、生き残ってきた。当然、次は中国以外の国から援助を引き出そうとするだろうね。ハッキングだけでは全然足りない」
「でも、もうロシアは当てに出来ないし、韓国はどうなんですかね?もう幾ら脅しても、彼らもその手には乗らないんじゃないですか?」
「それは分からないが、中国軍がいる間に挑発行動をして何かを引き出すのは難しいだろうね。中国に続いて韓国にも泣きを入れるのはプライドが許さないだろうし」
「すると消去法でアメリカになるんじゃないですか?また大陸間弾道ミサイル実験でもやるんですかね?」
「それで我々から援助を引き出せるとは彼らも思っていないだろう。下手にやればアメリカの東アジアでの軍事圧力が高まるだけだ。中国も喜ばないだろうな」
「では、いつ、何をしてくるんでしょうね?」
「そう、それが注目だ」
今度はジェフが黙った。これ以上喋るつもりはないらしい。
後任に道化師とまで貶されたトランプが大統領の座を去って久しい。北朝鮮から見れば口車に乗せられそうな相手はアメリカにももう居ないのだ。
菜々子が目先を変えた。
「健康不安説が気になりますが…?」
「健康不安説は常にある。何か根拠があるのか?」
ジェフが関心を示した。
「いや、重病で手術が必要かもという話さえあったので…」
「ほー、誰が?」
「金正恩総書記が…」
「成る程ね…君は一つ重要な点を忘れていないか?」
菜々子がまた首を傾げ、ジェフをじっと見つめた。この仕草の効き目は優れものなのだ。
「金正恩は習近平と北京で会談し、今は平壌に居て相変わらず君臨しているということを忘れてはいけない。この事実はどうあっても変わらないってことだ」
「分かりました」
今日の所はこれで十分だ…二人ともそう考えていた。
二人はルークの前のカウンター席に戻る。美味そうな匂いがした。
「さあ、食事にするかな。すぐに用意するから、このワインを飲んでいて。シャトー・ヌフ・ド・パップのテレグラム、女房のお気に入りさ」
そう言うとルークは栓を抜いたばかりのボトルとワイン・グラスを二個並べた。あのボヘミアン・グラスだ。
ルークの代わりに、ジェフが菜々子のグラスにワインを注ぐ。
もう気にする人間など殆どいないが、かつて赤ワインは男性が注ぐものとされていた。握り寿司の職人は男に限ると言われていたのと同じで、女性は手の温度が高いからとされていた。しかし、本当のところは男達が好きなように飲みたかっただけだろう。
ただ、ジェフはそんなことを意識してやったわけではない。単に女性へのサービス精神からだ。次いで、自分にも注ぐ。菜々子も心得たもので手など出さない。日本酒を酌み交わすのではない。
「はい、お待ち」
ルークがシェパーズ・パイと芽キャベツのソテーを乗せた大き目の皿を二人の前に置いた。ジェフのパイは菜々子の倍近くある。
ミニ・トマトとスプリング・オニオンのサラダが菜々子の皿にだけ乗っていた。
「ジェフのサラダは省いたよ。ボナ・ペティ」
「頂きます」
菜々子がそう言うとジェフも日本語で続いた。
「頂きます」
発音・イントネーションは可もなく不可もないというレベルだ。普段、日本語を全く喋らない割には上手と言えるかもしれなかった。
二人が食事中、会話は中国情勢に移る。
「台湾侵攻の可能性って実際はどれ位あったのですか?」
菜々子がジェフに尋ねた。
「皆が知っているように極めてシリアスな状態だったね」
ジェフが応えた。
「しかし、西側陣営全体の抑止力が功を奏したと思う」
そう言ってジェフはパイをまた口に入れた。
「それにしても、これは美味いね。初めて食べるが…」
「初めてだったっけ?女房が気合を入れて作ったんだけれど、日本じゃ滅多にお目に掛れない一品かも知れないね」
ルークが応えた。
「やっぱりアメリカの軍事力ですか?」
菜々子が更に尋ねる。
「勿論そうなんだが、それだけじゃない。ウクライナ侵攻で大失敗したプーチンの二の舞を避けたかったというのも大きいだろう。
ウクライナは陸続きの隣国だったが、それでも狙い通りの戦果をプーチンは得られなかった。軍事的には大失敗だった。そして、経済はボロボロになった。その前例も大きな抑止効果を発揮したと思う」
「あれは大きいよね。ロシアは西側相手にミニ冷戦に突入して、にっちもさっちもいかなくなったからね」
ルークが加えた。
「そう。比べて台湾は海を渡らなければならない。中国が攻撃すれば相当破壊はできるだろうが、占領するのは容易ではない。中国側にも大きなダメージは不可避だ。加えて全面制裁は必至となれば、それは考え直すだろう。どのみちアメリカ軍が何らかの形で介入して勝てない」
ジェフが続けた。
「習近平はプーチン程独りよがりではないということでもある」
「習主席も裸の王様になって久しいとも言われていますが…?」
菜々子が更に尋ねた。
「中国の官僚機構はロシアよりは遥かに強固で優秀、狡猾なのさ。長い歴史の賜物とも言える。そこがロシアとは違う」
ジェフが断じた。
「中国はあくまでも一党独裁の国であって、たった一人が完全な独裁態勢を敷いている訳ではないということかい?」
ルークが問うた。
「そうだ。習近平は独裁態勢を確立したように見える。しかし、実態は彼一人の独裁ではない。もっと重層的だ。それだけに競争相手としてロシアよりずっと厄介なのさ。市場規模も段違いにでかい」
ジェフは最後の一口を放り込み、三杯目のワインを飲み干した。
「いやー美味かった、シェフに宜しく伝えて欲しいな」
ルークが四杯目を注ぎながら言った。
「にも拘わらず、封じ込め作戦のお陰で、中国の株は上がりっ放し、厄介極まりないな…」
「ところで、日本の新しい総理はどうなんだ?評判は大分良いみたいじゃないか?」
ジェフが話題を変えた。
「ロシアとのミニ冷戦と台湾危機のお陰かも知れないが、誰が総理になっても日本の立ち位置がぶれることはない。加えて、国民の関心の第一は今、ADE株の封じ込め作戦さ。環境的にはやり易い筈さ。この点では馬淵総理は今のところラッキーと言えるかもしれないね」
ルークが言った。
「それにしても、政権交代を上手くやったように見える。全く混乱させていない。最初の民主党政権とは大違いではないか?」
ジェフが問うた。
「そうかも知れない。その点では官邸中枢に居る主要官僚を留任させたのが大きいかな。総理も賢いよ。日本の官僚組織も優秀だからね。トップがわざわざ彼らの士気を挫くようなことをしなければ大丈夫ってことさ」
ルークは何人かの知り合いの顔を思い浮かべながら言った。
日本の官僚にもいろいろな人間が居るが、トップ・クラスは実に優秀で国を背負っていくという気概に溢れている。彼らの信を勝ち取りさえすれば、スピード感に難はあるが、官邸主導でも霞が関は良く働くのだ。
ジェフが最後の四杯目を飲み干し、言った。
「そろそろお暇するよ。お幾らかな?」
「あ、ここは私が…」
菜々子がすかさず言った。
「良いのかい?」
「大丈夫です。ルークさんのお店は高くありませんから」
「大丈夫さ。お休みなさい。また」
ルークが微笑みを浮かべながら言った。
「サンキュー、では、お休みなさい」
「有難うございました。お休みなさい」
ジェフは少し頭をすぼめながら玄関を出て行った。
「どんな話だった?」
ルークが菜々子に早速尋ねた。
「やっぱり、次はアメリカに何らかの手で働き掛けようとしても不思議ではないと…」
「どんな手で?」
「それは何も言いませんでしたが、ミサイル発射など強硬策では効かないとも言っていました」
「そうか…、やはり次の動きは注目に値するという訳だな」
皿を片付けながらルークは言った。
「そうです。それと、金正恩総書記は平壌で君臨しているということを忘れてはいけない。この事実はどうあっても変わらないって強調していました」
「健康不安説に絡んでの発言かい?そして、彼は、わざわざ、この事実はどうあっても変わらないって言ったってことかい?」
「そうです。それ以上は何も言いませんでしたし、具体的な情報は勿論何も出て来ませんでしたが、彼もやはり健康問題には注目している…そして、何かあると見ている節が窺えます」
「当然、我々が今、健康問題に注目していることも彼は悟ったということになるな」
「そうだと思います…」
二人とも、暫く黙って考え込んだ。
菜々子はルークとジェフが知り合った経緯を尋ねることなどすっかり忘れていた。
その頃、パリでは引き続き定点観測が行われていた。しかし、特筆すべき事象はなかった。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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