オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ 61~66
注;完全版と称してはいるが、元々割愛した部分は無いので、纏め読み61~66に若干手を加えたものであることを予めご承知願いたい。
友好協会
「あ、もしかして、この人では?」
現地時間のその日午後、パリ支局のプロデューサー、ベルナールが声を上げた。
「どれどれ」
早速、大友と山瀬が歩み寄り、ベルナールのパソコンを覗き込む。
「お、似ているねえ…」
「これですね、きっと」
二人が口々に同意する。
北朝鮮の大使館や代表団が駐在するヨーロッパの国々には、北朝鮮との友好促進を謳い文句にする民間団体が存在する。
極めて少人数の集まりばかりなのだが、北朝鮮との経済取引でわずかでも得をしようとする人間や共産主義の理想という未だ実現したことのない幻影を追い求める人間はどの国にも居るのだ。
大友達は、そうした団体のホーム・ページを軒並みチェックし、バタクラン劇場にお姫様と共に現れた男たちの姿を探していた。
「友好協会の勉強会に講師として登場した駐スイス北朝鮮大使館のリー・ヨンソル公使」と写真に説明があった。写真は四年以上前の物で古いと言えば古いが、時期は問題ではない。
ベルナールは早速画像から男の顔を切り出して処理し、バタクラン前の画像と並べて比べた。
「同じですね」
「どうみても同一人物だね」
三人の見解は一致した。
他人の空似の可能性はゼロではなかったが、それ以上、確認する必要は無かった。追い求めているのはあくまでもお姫様だからだ。お姫様が北のお姫様である蓋然性が高ければ十分で、男の調査はこれで終わりだ。
「問題はここからだよね。お姫様が何処にいるか、まだ皆目見当がつかないから…。取り敢えず部長に報告するとして、三人で相談しよう。下のカフェでケーキでも食べながらさ」
大友が言った。
「まぁた、甘い物を食べるのね…お昼をたんまり食べたばかりなのに」
ベルナールはそう思ったが、口にはしなかった。山瀬なら付き合うだろうから、自分はコーヒーだけにするつもりだった。
菜々子のスマホが着信音を鳴らした。自炊した遅い夕食を終え、後片づけをしていた手を止め、メッセージを確認する。
「またしてもお手柄ね。お疲れ様。この後、どう取材を進めるか私も考えます」
菜々子はそう返信した。
明日、またルークと桃子に相談する機会がある。それまでに妙案が出てくれば良いのだが、アイディアは全く浮かばなかった。
手探りでやるしかないのは分かっていた。そして、こういう時こそ頼りになるのはルークの勘と桃子の情報だった。
「その前に矢吹さんにも相談しなきゃ」
菜々子はそう思い立った。
その数時間前、メトロポリタン放送のニュース制作部長・雨宮富士子は大学時代の友人、太田聡美と再び会食していた。
「どうやらお宅の女性部長さんらしいわよ。うちの元旦と親しいのは」
聡美が言った。
「えー、あの宮澤菜々子?」
雨宮が目を輝かす。
「でも、どうして分かったの?」
「うちの人間が目撃したのよ。二人で食事しているところを同じ店で。向こうには気付かれなかったらしいけど、アツアツだったらしいわ」
聡美が感情を押し殺すように言った。
元夫の太田博一と同じくキャリア外交官の聡美は現在、外務省の報道・広報部門に居る。部下が太田博一に加え、メトロポリタン放送の国際取材部長の顔を知っていても不思議でも何でもない。
「それなら人違いではないかもしれないわね。何だか、気分悪いわね」
雨宮が聡子の気持ちを代弁した。
「でも、どうしようもないわ。二人とも独身でしょ?問題にはならないわ、情報漏洩でもしていない限り。でも、そんな馬鹿じゃないでしょ」
聡美が投げやり気味に言った。
「情報漏洩?そう言えば菜々子は最近ずっと誰にも分からないように陰で色々動き回っている。何か関係があるのかしら…もしかすると彼女を突っ突く材料の一つになるかもしれないわ。戸山の事もあるし…」
雨宮はそう思って、内心、少しニンマリした。
「でも、これだけじゃちょっと足りないわね。急いては事を仕損じるって言うし」
雨宮はそう考えながら、聡美に言った。
「そんなこと忘れて飲みましょうよ。あの女の事で、せっかくのお酒と食事が不味くなるのも馬鹿らしいわ」
「そうね。そうしましょ」
聡美が少し痛い思いを振り切るように応じた。
雨宮は店員を呼んでワインの追加をオーダーした。
感染経路
「感染が拡がった原因は此奴でほぼ間違いないと思われます。北朝鮮からあんなに離れた場所に、他の人間と接触らしい接触の無い連中にADE株が飛び火した理由はそれ以外考えられないと存じます」
木曜日の朝、中南海の習近平主席の執務室で、劉正副主席が防疫・公衆衛生問題を統括する国家衛生健康委員会担当国務委員・趙龍雲と共に報告した。
習近平主席は黙って頷く。
「しかしながら、不思議なことに、此奴は全く陰性なのです。抗原検査とPCR検査を何度やっても陰性でございます。感染していたらウイルスの欠片位は検出されてもおかしくないのですが、全く引っ掛かからないのでございます」
劉正が続けた。
「どういうことだ?」
習主席が尋ねると趙が応えた。
「考えられますのは、頭髪や顔の皮膚に付着したウイルスが、濃厚接触によって、あの一家の娘に移った可能性が高いのではないかということです。実際に奴と接触したのは娘だけでして、性交したことは白状しております。その際に、多分、奴の髪の毛か顔の表面に付着していたウイルスを娘が吸い込んだのだと思われます」
「もう少し詳しく説明してくれ」
「平壌総合病院で奴がしわぶきを掛けられてから娘と密会するまでに二日余り経っておりましたが、任務中の武警の男がその間、入浴もしていないのは珍しい事ではありません。顔さえまともに洗っていなかったかもしれません。ですので、例えば髪の毛に付着したウイルスが生き残っていて、それが移った可能性は十分あり得るかと存じます。
頭髪経由の感染拡大としては過去に留意すべき事例がございます。
かつて、カナダのトロントの病院でSARSウイルスが看護師の間で広まったことがございますが、これは、感染者の診療に当たった看護師の頭髪に付着したウイルスが控室で拡がったものと見られています。以来、髪の毛も防護するのはほぼ常識になっております。
しかし、此奴らがそんなことまで知る由もなく、そうやって感染が拡がったものと考えられます。と申しますより、他に考えにくいということでございます」
「それで娘に感染するという事は、当然、奴も感染するはずではないのか?」
「ご賢察の通りでございます。しかし、奴は治療薬の予防服用をずっと続けておりました。今も投与されていますが、そのお陰で、奴が吸い込み、鼻の奥や喉に付着したであろうウイルスは奴の体内で増殖出来なかったと考えられます。こう考えますと理には適います」
「つまり、予防服用は効果があったということか?」
「それをヒトに対する実験などで実証したケースはまだございませんが、そのように推論出来るかと存じます」
「では、丹東のクラスターが更に拡大する恐れは低いということになるのだな?」
「左様でございます。実際、既に重症化している老婆はともかくとしまして、他の陽性者は急速に回復に向かっております。遠からず、ウイルスは検出されなくなると期待されております。
また、一家と接触した人間や奴と接触があった人間も治療薬の予防服用を続けておりますので、仮に万が一、ウイルスを吸い込んでいたとしても、もう死滅している可能性が高いと思われます。
そもそも、奴の髪の毛からウイルスが移るような濃密な接触をしたのは娘一人でございますし、一家と濃厚接触した人間は他におりません。このまま暫く様子をしっかり観察する必要はございますが、順調に推移すれば、遠からず、遅くとも二週間以内には、丹東の感染は終息したと宣言できるようになると期待できる状況でございます」
習主席が頷いた。二人は顔にこそ出さなかったが、内心安堵した。
劉正副主席が再び口を開いた。
「奴の処分でございますが、終息を待って、重大な規律違反と窃盗の罪で軍法会議に掛け、厳正に処分致します。また、娘も盗品を隠蔽した罪に問うことになります。更に、奴の上司共も監督不行き届きで職務停止とする所存です」
主席が再び頷いた。
これが日本であったならば、黄は窃盗の罪で書類送検され懲戒免職される程度、何も知らなかった娘は罪に問われる可能性は低いのだが、中国ではそうはいかなかった。
劉正が続けた。
「丹東のクラスターの詳細の発表ですが、これは再びWHOに委ねるのが良いかと存じますが、如何でございましょうか?何といっても、奴はWHO支援の任務中に感染を広げた訳でございますし、WHO調査団の一時活動停止の発表も必要と考えられるところでございますので」
「それで宜しい。支援物資の搬入も奴が関わったルート以外は再開しても大丈夫そうだな?すぐにとは言わんが、しっかりと点検の上、数日中に」
「承知致しました」
劉正が応じた。
「しかし、ゆめゆめ油断せぬように。これが拡大したり似たような事例が起きぬよう、厳に監督して欲しい」
主席が冷徹な表情で付け加えた。
「畏まりました」
二人同時に応じた。いずれも自分達の将来が封じ込め作戦の成否に掛かっていることを改めて肝に銘じた。
鬼ごっこ
「へぇー、面白そうじゃん、先が楽しみだねー」
菜々子から現状の説明を縷々受けたメトロポリタン放送総務・人事担当専務の矢吹が言った。
「そんな話を聞くと現場に戻りたくなるなぁ。で、菜々ちゃん、僕に何をして欲しいの?」
相変わらず軽い。曲がりなりにも一部上場企業の役員による職場での発言とは到底思えぬ口調であった。
「矢吹さんには、可能な範囲で総書記の健康問題について探っていただければと思っています」
菜々子が応えた。
「そうかそうか、じゃ、折を見て、知り合いに訊いてみるよ。それだけなら、別に何か勘繰られる可能性も低いだろうしさ」
矢吹が快諾した。
矢吹も未だに半島筋には良い情報源を持っているのだ。何か引っ掛かって来る可能性はある。
「特に、仮に健康に問題があるとして、それがどんなものなのか、糖尿なのか、肝臓なのか、それとも他の機能障害があるのか、少しでも示唆があると助かると思います」
菜々子が追加した。
「うん、うん」
矢吹が楽しそうに頷く。
「それと、正哲にも健康問題があるかどうか、ついでに、さりげなくお願いできれば…」
「分かった。やってみる。それにしても何だな、甲斐さんが良く言っていたじゃんか、俺達の仕事は鬼ごっこの鬼をいつもやっているようなもんだ、偶には追われちまうこともあるけれど、上手くやれば大丈夫、こんな面白い稼業はなかなかないぜってさ。この先は簡単ではないだろうけど、正に楽しみだよねー」
甲斐はルークの本名である。
「そうかも知れませんね、簡単ではないですけれど」
菜々子も同意して、微笑んだ。
しかし、矢吹が珍しく真面目な顔になり、付け加えた。
「でも、気を付けた方が良いよ。この先、追われる立場にならないようにさ。危ない橋を渡ろうとしている訳だからさ」
「そうですね。分かりました。気を付けます」
すると菜々子のスマホが鳴った。ソウル支局の棚橋からメッセージだ。内容を確認した菜々子が矢吹に告げた。
「棚橋も確認しました。元外交官の脱北者に当たったところ、二人の男は、共に欧州駐在の外交部職員だそうです」
「そうか…ま、棚橋が彼に確認したなら大丈夫だろうね」
矢吹には棚橋が接触した脱北者の見当がつくようだった。
「兎に角、慎重に頼みます。甲斐さんに相談していれば大丈夫だろうけれど、桃ちゃんや現場が突っ走り過ぎると面倒になる可能性が強まるからね。上手くコントロールしてね。じゃ、僕は次の会議があるから」
「有難うございました。宜しくお願い致します」
菜々子は矢吹の部屋を辞した。
自席に戻る途中、菜々子は矢吹が言ったことを反芻していた。桃姐さんが突っ走るとは思えなかったが、確かに現場がやり過ぎてドジを踏む可能性はある。しっかり注視しましょう…菜々子はそう思った。
すると雨宮とすれ違った。目と目が合うと雨宮がニヤリとしたような気がした。何やら含むところがあるようだったが、菜々子にそんなことに気を回している暇はない。
一方、雨宮はすれ違った菜々子の背中にちらりと目をやりながらこう思っていた。
「いいわねぇ、楽しそうで…」
雨宮は、菜々子に一泡吹かせたくて、ずっとうずうずしているのだが、今はまだ臍を嚙むしかなかった。
その日午後四時過ぎ、菜々子の席に国際取材部の当番デスクがやってきて言った。
「WHOが緊急記者会見を予告しました。中身はまだはっきりしませんが、封じ込め作戦と丹東のクラスターに関係があるようです。本部で六時間後です。大友を派遣します。まだ間に合うでしょうから。パリに行って居る山瀬はどうしますか?」
「そうね…山瀬も一緒に行かせて。ジュネーブ取材は長くなるだろうから、この際、山瀬も経験させた方が良いでしょう?宜しくね」
菜々子が応えた。
「了解です。すぐに叩き起こします」
いつもの事だったが、報道局の人使いは荒く容赦ない。特に大友はこのところ休みを取っていなかったが、それは北京支局やソウル支局も同様だった。自由に動き回れる分、戸山よりずっとマシだ。
電話を切った後、重い身体を起こした大友は支度を始めた。昨夜かみさんと一戦まみえた為もあって力が出ない。この日ばかりはゆっくり寝てからオフィスに向かう予定だったのだが、仕方ない。
パリからリヨンまで高速鉄道で行き、そこからレンタカーを飛ばせば間に合う。そう考えながら、大友は、トクトクという不自然な鼓動を感じていた。
リヨンまでの車中、大友はパリで大量に買い込んだサンドイッチを一つ食べただけで、ずっと眠っていた。山瀬も同様だった。
そして、レンタカーの中でも…。
二人の鼾が五月蠅いのは敵わなかったが、運転するベルナールは珍しく大友が心配になった。疲労に加え、食べ過ぎが良くないのは分かっていた。
「で、つまりは?」
その頃、ワシントンのホワイト・ハウスでデイリー・ブリーフィングが進行していて、WHOの緊急会見の発表内容の概要の説明を受けたマイク・ベン大統領がマキシーン・ウイラード国家情報長官に尋ねた。
「つまり、丹東にいきなりADE株が飛び火して感染クラスターを発生させたものの、これも封じ込めが可能な見込み。そして、確認は必要ですが、治療薬の予防服用が効果大であるということです。
WHOの現地活動は一時停止ですが、遠からず解禁になるでしょう。そして、北朝鮮の封じ込め作戦も上手く行くだろうという楽観的な見通しが立てられるということです」
「何にせよ、予防服用効果有りは良い報せだ。ADE株は入手済みということだが、ワクチン開発はどうだ?」
「既に着手しており、設計上は遠からず完成するでしょう。封じ込め作戦が無事完了すれば、新しいワクチンは必要なくなる可能性が大ですが、ストックをしておいて損は無いでしょうね」
「君はどう思う?」
ベン大統領が染症対策を統括するボブ・カタオカ博士に尋ねた。
「同様に思います。敢えて付け加えますならば、新しいワクチンの動物実験までなら我が国のラボでも出来ますが、ヒトへの治験は北朝鮮で早めにやらなければ本当の効果は確認出来ないということでしょうか」
「成る程、その問題はいずれ別途考えるタイミングもあるだろう。いずれにせよ、新しいワクチン開発の支援は続けてくれ給え」
「承知しました」
カタオカ博士はここで退席した。
「マキシーン、健康問題のその後は?」
ベン大統領が情報長官に尋ねた。
「韓国政府は肝臓に問題有りとやはり見ております。ただし、それが、中朝首脳会談直後に北京から飛び立った空飛ぶ救急車と関係があるのか、依然調査中です。他の要人の治療の為の可能性もありますので」
「だが、正恩は平壌に居て彼の統治に異状は無いのだろう?」
「左様でございます。政権は変わらず盤石のようです。しかしながら、北朝鮮政府は次の一手として、我々との対話の再開を模索しているようだとも韓国政府は見ています。ドラスティックな手を打ってくる可能性もあると韓国は言っておりますし、我々もそう見ております」
「と言うと?」
「あくまでも彼らが取り得る選択肢の一つでございますが、我々の分析でも、次の局面で、大きな動きを見せてくる可能性はあると考えております。何故ならば、現在、北朝鮮は半ば中国に占領されているも同然の状態にあります。平壌の政権基盤はまだ揺らいでおりませんが、この先もそうだという保証はございません。そこで毒食えば皿までではありませんが、我々も引き込んで、中国をけん制しようとしても不思議ではありません。WHOを受け入れたのもその序章と考えることも出来ます」
「安易に乗る訳にはいかないな…」
「それはその通りでございます。朝鮮半島で、米中双方の利害が真正面からぶつかるような事態は当然望ましくありません。ADE株問題に関してはこのまま中国とWHOに責任を背負ってもらうのが適当かと存じます」
同席していたジュディー・アマール安全問題担当補佐官が応えた。
「すると、どんな手が考えられる?」
「核・ミサイル問題をまたぞろ使ってくるかと。これなら我々が黙殺出来ないような提案をすることは可能です」
ウイラード長官が再び応えた。
「しかし、ちょっとやそっとでは乗れないぞ。直ぐに元の木阿弥になるのが関の山だ」
「仰せの通りでございます。ですので、ドラスティックな手を打ってくる可能性もあるかと存じます」
「具体的には?」
「例えば…枠組み合意への復帰とIAEA査察団の条件付き受け入れを一方的に宣言し、我々に非核化交渉を求めてきたら、どうなるでしょうか?」
「そんな古い物を持ち出されても話にならんぞ。もう開発は当時より遥か先に進んでいる」
「ごもっともでございます。しかし、IAEAは組織の性格上、否とは決して申せません。彼らは査察団を喜んで送るでしょう。それでも、我々が交渉さえ拒否したら、関係各国は大いに落胆し非難の眼差しを我々に向けて来るでしょう」
「うーむ…、無視はできなくなるか…」
「左様にございます」
枠組み合意とは1994年十月にアメリカのクリントン政権と北朝鮮の金正日政権が結んだもので、北朝鮮が核開発を凍結する見返りにアメリカなどが兵器級のプルトニウムを取り出しにくいとされる軽水炉の建設とエネルギー支援、関係正常化に向けた話し合いを約束したものだ。
しかし、合意は北朝鮮の核開発を一時的に遅らせる効果こそもたらしたが、クリントン政権を継いだブッシュ政権の時代に御破算になった。米朝双方とも合意を最後まで守る気など無かったからだ。
この枠組み合意の成立の少し前には、北朝鮮の核開発を巡り、米朝は衝突寸前の状態になっていて、北朝鮮の核施設への先制攻撃の計画が時のクリントン大統領に提示され、裁可を待つばかりだったと言われている。実際、韓国から在留アメリカ人らが続々と脱出し始めるという事態にもなっていた。
だが、先制攻撃は実行されなかった。
クリントン大統領が最終的に攻撃を見送ったのは、実行した場合には全面戦争が不可避で、北朝鮮の反撃により、韓国側だけで最大八十万人の死者が出る恐れがあると想定された為だ。
その後、北朝鮮は核とミサイルの開発を続け、少なくとも数十個の核爆弾とその運搬手段となり得る様々なミサイルを保有するに至っていた。
当時の様な先制攻撃などもはや全く考えられない状況になっていたのである。殊この点に関する限り、北朝鮮の狙い通りになっていた。
「では諸君、もしも、そのようなドラスティックな行動に北朝鮮が出るに至った場合の対応策について、早急に検討して欲しい。当然だが、複数のオプションが欲しい。頼むぞ」
「承知しました、大統領閣下」
ウイラード国家情報長官はそう言って退出した。
「ジュディー、本当にそんなことになると思うか?」
ベン大統領は執務室に残ったアマール安全問題担当補佐官に訊いた。
「現時点では何とも…、その可能性はゼロとも確実とも考えるべきではないかと…」
ベン大統領は頷いた。アマール補佐官が続けた。
「ただ、はっきりしておりますのは、当たり前のことですが、彼らは生存第一で行動しているということです。封じ込め作戦と中国による全面介入、半占領状態を受け入れたのもその為です。ですので、より良い生存の為に次の手を遠からず打って来ると予想するのは極めて自然なことです。このままでは中国に完全に首根っこを押さえられたままになってしまう恐れがあるからです。
金正恩総書記個人に関しましても、彼がダイエットに励んだのはまだ死にたくないと考えているからですし、誰だかはっきりしませんが、一族の人間が、自国がこんな状況にあっても、わざわざパリに治療に出掛けた可能性があるのも、まだ死にたくないからです」
「確かにな…」
「ですので、彼らの次の出方次第ではありますが、場合によっては交渉によって彼らに働きかけ、我々や同盟国にとってもより良い環境を生み出すチャンスが訪れるかもしれません」
「わかった。マキシーンと連携して、作業を進めてくれ。頼むぞ」
「承知しました、大統領閣下」
「しかし、それでも悪行に報酬を与えるわけにはいかないぞ…」
アマール補佐官が退出するとベン大統領は代々のアメリカ政府の基本姿勢を改めて肝に銘じていた。
シャワー無しで
WHOの会見は、大友一行がWHO本部ビルに到着して間もなく始まった。
「北朝鮮と接する中国側の都市、丹東の郊外で孤発的に起きた新型コロナウイルスの感染クラスターはADE株によるものであることが確認された」
WHOのトップ、アナ・ノヴァック事務局長が声明を読み上げ始めた。記者団からどよめきが起きる。
「しかしながら、既に陽性者六人を始め、濃淡に拘わらず接触者は全員隔離され、治療薬の投与を受けている。
丹東市及び周辺で直ちに始まった全員検査で、これまでのところ他に陽性者は見つかっておらず、陽性者六人も無症状か症状のあった者でも快方に向かっている。治療薬が効いていると考えられる。これ以上、ADE株が丹東で拡がる恐れはほぼ無いとWHOも中国当局も期待している。制御可能である」
記者達の表情に安堵の色が浮かぶ。国際通信社等は「ADE株飛び火」と直ちに速報を配信していたが、次いで「拡大の恐れほぼ無しとWHO見解」という続報を打った。
ノヴァック事務局長は続けた。
「ADE株の感染クラスターが発生した場所は中朝国境から遠く、車で一時間程かかる場所だ。封じ込め作戦が始まって以来、陽性者を含め村人は誰一人として村の外に出ていない。感染は国境近くからじわじわと拡大したのではなく、いきなり、その離れた場所に飛び火したのだ。
その理由は、封じ込め作戦に従事していた中国側要員の規則違反の行動にあるようだ。当該中国側要員は、補給物資を運搬する途中、親戚である陽性者家族の元を訪れたことが分かっている。その行動が原因としか考えにくい」
「当該中国側要員は、中国政府からWHO現地調査団の運転担当として派遣された者で、任務中、規則に違反して、平壌総合病院で現地職員と不用意な接触をしたことも分かっている」
再び記者団にどよめきが起こった。
「当該中国側要員が接触した平壌総合病院の職員は、その後、ADE株の感染が確認され、現在隔離され治療を受けている。その職員から当該中国側要員に移ったADE株が今回のクラスターに繋がったと考えられる」
苦虫を噛み潰したような表情でノヴァック事務局長は続けた。
「この為、当該中国側要員と接触のあった者も全員隔離され、健康観察を受けている。WHO現地調査団のメンバーも活動を一時停止し、現地で全員自主隔離している。幸いに今のところ、新たな感染者は出ていない」
「今回の不幸な事態は、あくまでも中国側要員の不用意な行動が原因で発生したと考えられるが、当該人物がWHO現地調査団に関わる要員であったことを我々は大変遺憾に思う。その結果、調査活動が一時停止に追い込まれたことは非常に由々しき事態だと認識している。しかしながら、同時に、原因となったのが調査団のメンバーや調査団の活動そのものではなく、あくまでも中国側要員の個人的で無責任な規則違反の行動によるものであることに我々は留意している」
ノヴァック事務局長は、調査団メンバーの行動が直接の原因ではないということを強調したいのが明白だった。事務局長は更に続ける。
「一方、この大変遺憾なニュースの中に、良い報せもある。
当該中国側要員は発症していない。感染もしていない。彼自身からはウイルスは全く検出されていないのだ。これが示唆するところは、治療薬の予防服用が期待された以上の効果を発揮しているという事だ。これは大変良い報せだ。
まだ安心するには早いが、予防服用を続けているWHO現地調査団関係者やその他の中国側関係者に陽性者が出る可能性は殆どないだろうという期待に繋がるものだ。
この後、十日間、隔離を続けて、陽性者が出なければ活動を再開する予定だ」
ノヴァック事務局長の発表が一段落し、質疑応答が始まった。
「その運転担当からウイルスが検出されていないにも関わらず、感染が拡がった理由は?」
ロイター通信の記者が尋ねた。
「その後の調査で、当該中国側要員は、規則に反して、平壌総合病院の駐車場で病院職員と一緒にタバコを吸ったことが分かっている。その際、病院職員がくしゃみをしたということだ。当然、当該中国側要員は飛沫を吸い込んでしまったと思われるが、封じ込め作戦開始とほぼ同時始めていた治療薬の予防服用のお陰で感染しなかったと考えられる。
しかし、ウイルスは当該要員の頭髪や衣服に付着していて、それが生き残って数日後に、丹東の陽性者の一人に移った可能性が高い。ただ、頭髪に付着していたウイルスが空気中を再び漂って感染したとは考えにくい。その点は留意して欲しい。
感染者六人の内の一人と当該職員は恋愛関係にあり濃密な接触をしたという。その濃密な接触中に、当該要員の髪の毛などに付着したウイルスを相手が吸い込んだと考えるのが理に適う。
当該職員は他の陽性者とは接触しておらず、他の陽性者には同居する家族の一員である当該要員の恋人から家庭内感染したものと考えられる」
「髪の毛に付着したウイルスが数日経っても感染力を持っていたということですか?」
今度はフランスのAFP通信の記者が尋ねた。
「シャワーを浴びていればそんなことは無かっただろう。しかし、戦闘ではないと言え、作戦任務遂行中の軍関係者が数日シャワーを浴びないのは珍しいことでは全く無い。それは何処の国でも同じだろう。冬の乾燥した状況ではウイルスが長く生き残る。問題はそのまま濃密接触をしたことだ」
「セックスの前にはシャワーが大事ということですな」
AFPの記者が軽口を叩き、薄い笑いが記者会見場に巻き起こる。
「誰にせよ封じ込め作戦に関わる者はその日の任務が終わったらシャワーを浴び全身を洗う必要があるということだ。これは我々の要員にせよ中国側要員にせよ再確認する必要がある。仮にシャワーを浴びることが出来なくとも、水の要らないシャンプーというものもある。それでもウイルスを死なせる効果はあるはずだ。徹底したい」
ノヴァック事務局長が真顔で応えた。
「封じ込め作戦そのものはどうなるのですか?」
フランスのル・モンド紙の記者が尋ねた。
「今回の感染拡大と全く無関係の大多数の要員を隔離する必要は無い。北朝鮮国内での封じ込め作戦は継続される」
「シャワー無しでセックスが感染拡大の原因か…タブロイド紙や週刊誌なら面白おかしく書き立てるだろうな…」
大友はそう思いながら、自社の原稿の準備を始めた。テレビのニュースでそこまであからさまな報道はできないのが少し残念だったが、そこはワイドショーの出番になるはずだ。
ADE株が中国側にも拡大したという事実はショックだが、どうやら特異な孤発事例に終わりそうなのは救いだった。そして「シャワー無しでセックス」が殊更注目され、これで大過なく事態が収拾すれば、彼らの望み通りWHOや中国政府の責任問題に発展する可能性は低そうだった。
自社向けのレポートを撮り終え、本社に伝送し終えると大友は山瀬・カメラマンのアルヌーと共にベルナールの戻りを待つ。
WHO本部到着後、大友はベルナールだけをベルンに向かわせていた。丁度、国際学校の下校時間に当たる為だ。ベルナール一人で、国際学校を出て市内に向かう車を目立たぬように離れた場所でチェックするならそんなに怪しまれることはない。そして、お姫様の乗った車を目撃する可能性はゼロではなかったからだ。
「さて、何を食べようか…」
大友の腹が鳴った。
隔離日記
「昨日、久しぶりにホテル一階のロビーに行く事が許された。運動不足を少しでも解消する為に階段を使って下りた。足が悲鳴を上げたが、悪いことでは無い。
目的は中国当局によるPCR検査を受ける為だ。スタッフも順に検査を受けた。その結果が今朝届き、全員陰性だった。一安心である」
翌金曜午前、メトロポリタン放送のオンライン・ニュースに戸山の丹東のホテルでの隔離生活日記の掲載が始まった。
「昨夜、丹東郊外に飛び火したのはADE株と発表され、少し慌てたが、それがひたひたと迫って来ているという恐怖感は無い。
治療薬も一応持っていて、予防服用を念の為始めようかと考えぬでもなかったが、止めた。スタッフ達の意見も同じだった。しかし、ホテルの部屋での缶詰生活は辛い」
「窓から中朝国境の往来を確認し、電話やネットで周辺の状況に異状は無いかチェックし、偶に東京に記事を送る。それだけの生活がいつまで続くのかと思うとげんなりする。
食事は毎食部屋に届けられるが、ホカホカという訳ではないし、汁物など望むべくもない。これにも閉口するしかない。部屋で湯を沸かし、持参したインスタント味噌汁を飲むのが束の間の幸せとは情けない。そのインスタント味噌汁のストックも遠からず無くなる。
正直に言う。とんだ役回りになっちまったもんだ」
愚痴のオンパレードになってきた。
「スタッフが収集し続けている情報でも、国境周辺住民達も今回の自粛生活には既にうんざりしているようだ。しかし、皆、諦めている。理由が理由なので仕方ないからだ。なので、不穏な動きの情報も一切無い。
日本や世界のニュースチェックは欠かさず、体調維持の為スクワットや腕立てもしている。それでも有り余る時間はネットでゲームをして過ごしている。
現在、嵌っているのは将棋のネット対局だ。古臭いと笑うなら笑って貰って構わない。気晴らしになるし、負けると腹立たしいが、勝てばスカッとする。そのうち初段の免状でも獲得してやるというのが今の目標だ。
なんていう事をしたためているうちにまた弁当が届いた。食欲は全く無いが、醒めた弁当を摘み代わりにビールを飲むことにし、これにて失礼させて頂く。では、また次回」
「流石に可哀そうだけれど、もうちょっとユーモアを塗せないのかしらね…」
日記を読んだ菜々子はそう思った。
戸山に今の状況を笑い飛ばすような豪気を期待しても無理なのは分かっているが、これでは読者も暗い気分になるのが心配だった。
「はい、報道局です」
ニュース制作部の記者の一人が雨宮富士子のすぐ隣で電話を取った。
「戸山特派員の御親戚の方ですか…」
記者が電話口で言った。
「また掛けて来たのね」
雨宮はそう思った。記者の様子を横目で観察する。
「あの部長」
暫くして部下が電話を保留し雨宮に報告した。
「戸山さんの親戚という女性から電話なのですが、上司に代わってくれと…」
「どんな用件?」
「戸山さんは大丈夫なのか?いつまで丹東に置いておくのか?という問い合わせです」
「分かったわ」
雨宮が電話を取った。
「お電話代わりました。御用の件を受け堪ります」
「この前の方ね。あの時も言ったと思うのですけれど、戸山の叔母です。ADE株なんていう恐ろしい物が戸山の取材している近くで出たというのに、御社はどうするつもりですか?そのまま放置ですか?」
女性が問い詰めた。
「ご存知だと思いますが、放置しているのではなく、取材をしてもらっている訳です。仕事です」
「一体いつまで彼をあそこに留まらせるのですかと訊いているんです。ADE株ですよ、罹ったらどうするんですか?」
「ご心配なのは分かりますが、WHOの発表でも拡がる恐れは低いということですし、本人は元気にしています。取材が一段落すれば戻ることになると思いますが、それがいつかとお尋ねになられましても、これも前回申し上げましたが、取材方針にも関わることでございますので、現時点では何とも…」
「それは無責任というものです。命に係わるかもしれないのですよ。早く安心させてください」
相手は懇願するような声音になっていた。余程心配なのだろう。
「誠に申し訳ございませんが、それも本人と上司の話し合いが最初にあるべきだと思います。彼もすぐにも帰りたいと言ってはいないようですので、ご心配なのは重々承知しておりますが、外部の方にこれ以上、申し上げることはございません。重ねてご理解ください」
雨宮は優しい口調になったが、それでも丁重に押し返す。
丹東郊外のADE株クラスターは広がっていなかったし、封じ込め作戦も異状なく進行している。それでも返せと言われてもおいそれと応じられる筈もないことは雨宮にも分かっていた。
「血も涙もないのですね。それが報道の仕事とは思えません。昭雄にはすぐに異動を希望するように伝えますから」
そう言って女性は電話を切った。
もしかすると親御さんかもしれない。確か戸山の父親はスポンサー系の大企業の偉いさんと聞いている…雨宮はそう考えながら、電話の内容をすぐにメモにし、再び加藤局長と菜々子にメールした。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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