オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その87
撮影
現地時間の翌土曜日、この日、パリは春の日差しに包まれ、心地良い陽気となった。セーヌ河畔は朝から散策を楽しむ人々で賑わっていた。
大友達が例によって定点観測を始めると、暫くして、警護員がパリ・セーヌ南総合病院外科病棟十二階のバルコニーに出て周辺の点検を行った。
移植手術が成功し、予後も順調だとすると、そろそろ新たな動きが見えても不思議ではない。この為、大友はベルナールとアルヌーにも週末にも拘わらず出勤を要請してあった。
十時頃、大友がこれまた例によって二度目の朝食に当たるパン・オ・ショコラをカフェ・オレと共に胃に流し込んでいるとバルコニーに女性が出て来た。アルヌーが超望遠カメラで寄ると薄い赤のワンピースを着たお姫様だった。
陽気に誘われたせいか、うきうきとした様子がモニター越しにも分かる。
お姫様がバルコニーの柵に寄り掛かり、セーヌ河畔の人出を暫く眺めていると何か興味深いものを目にしたのか、部屋の中に向かって誰かを手招きした。
真下の遊歩道に立派なアフガン・ハウンド二匹を連れた若い二人連れが佇んでいる。お姫様は再び手招きをし窓際に近づいた。誰かの手を引こうとしているようだった。
誘いに根負けしたのか、患者用と思われるガウンを羽織った男性がついに姿を現した。アルヌーが男性に寄る。大友達は唾を飲み込んだ。彼こそご本尊に違いない。
大友達はモニターに映し出された男性を凝視する。
術後、それ程時間が経っていない筈のせいか、やはりやつれた様子だ。体重も相当減ったのだろう。もはや恰幅が良いとは言えない。無精ひげも結構伸びている。
男性はほんの少し空を眺めるとすぐに室内に戻って行った。その間、一分足らずだった。お姫様も共に部屋に戻り、ガラス戸が閉められた。
大友達は記録媒体を取替え、パソコン上でまずコピーを作る。そして、再生しながら映像をチェックした。
「うーん、似ていると言えば似ているね」
大友が呻いた。
「そうですね。本人と言われればそうだし、違うと言われたら強く反論できませんね」
山瀬が残念そうに応じた。
「やつれて細った総書記にも見えるし、若い頃の正哲がそのまま歳を取ったらこういう感じになるとも言える。しかし、全くの別人でも不思議ではない。この映像だけで断定するのは危険だね」
これまでの情報通りに取材を続けた結果、御本尊が撮影されたのは間違いないが、そのご本尊が誰なのか、映像だけでは断言できない…大友はそう判断した。何より、総書記は今頃、パリに居る筈などないのだ。これを覆すにはもっと確かな情報が必要だ。
「否定されたら反論のしようがないね」
「残念ですが、その通りだと思います」
山瀬が同意した。
「部長に報告して、映像も送ろう。次の手はまた考えるしかないよ」
これにも山瀬は同意した。
圧縮し暗号化した映像ファイルとやはり暗号化した文書ファイルを菜々子に送り終えると大友が言った。
「とりあえず昼ご飯を食べようよ。近所の店で温かいのを交代でさ。全員一緒と言うのは拙いだろうから」
三人が頷いた。
この時、大友は、夕食には山瀬と久しぶりに寿司屋に行こうと思っていた。パリの寿司屋はそこそこの店でもかなり旨い。ロンドンとは違うのだ。
「美味しかったね。この店は初めてだけれど良い店だね」
太田博一がそう言ってぐい飲みを口に運んだ。太田は飲めないわけではないが、それ程強くない。既に顔は赤い。
「気に入って貰えて良かったです。ここはルークさんに最初に連れてきて貰いました」
その頃、菜々子と太田は六本木の串揚げ屋でほぼ食事を終えていた。最後の徳利を少しずつ楽しむ。店は普通の串揚げ店よりかなり値が張るが、何より味が良い。場所柄もあって外国人にも人気の店だ。
「そのルークさんや菜々子がお世話になった先輩達にいずれご挨拶に行かなければならないね。お目に掛ったことは無いけれど、噂は聞いているよ。以前、北東アジア課が何度も驚かされたらしいね」
「そうかも知れませんね。最近は無いですけれど」
「いや、封じ込め作戦の報道でも、菜々子の所はしっかりした情報を持っているって評価らしいよ」
「あら、それはちょっと嬉しいです」
二人はこうして仕事絡みの話をすることもあったが、具体的な情報や分析について意見を交わすことは今も無い。
すると菜々子のスマホが鳴った。
「ごめんなさい」
そう断って、菜々子はチェックする。大友からだ。
菜々子は黙ってメッセージを読む。菜々子の表情がみるみる真剣になって行くのに太田は気付いた。
「大事な用件みたいだね」
太田が言った。
菜々子は暫し考え込んでから応えた。
「ごめんなさい。あの、本当に申し訳ないんですが、ちょっと会社に行かなければならない用が出来ました。許して貰えますか?」
文書ファイルの解凍はスマホでも出来たが、映像ファイルの解凍は会社に行かなければ出来ない。翌日曜日にしても良かったが、菜々子自身も映像を早く見たいのだ。
「勿論さ。どうぞ行ってください。これからもこういう事はちょくちょくあるだろうから。お互いにね」
「有難うございます。助かります」
そう言って菜々子は店を出る準備を始めた。
「僕は明日の朝ご飯の材料を明治屋で買って、君の部屋に先に行って待っているよ。それで良い?朝食は僕が作るよ」
太田が確認を求めた。既に合い鍵は渡してある。
「はい、お願いします。二時間も掛らないと思います。有難う」
「じゃあ、それで。先に寝ちゃうかもしれないけれどね」
太田は勘定書きを持って立ち上がった。
「ここは僕がご馳走するよ」
「すいません、重ね重ね」
そう言って、菜々子は店を先に出た。
タクシーに飛び乗ると自席には三十分程で到着した。
少し離れた席に居る当番デスクが驚いた顔をして尋ねた。
「どうしたんですか?」
平日なら兎も角、週末の夜に部長クラスが特段の突発ニュースもないのに出社するのは珍しいのだ。
「ちょっと調べ物があって。特に変わったことは無いでしょう?」
「大丈夫です」
菜々子は直ぐにデスク・トップを立ち上げ、早速、映像ファイルの解凍作業を始めた。そんなに大きくないファイルだったので、三十秒程で見られるようになった。
イヤホンを装着し再生する。
「これは総書記だわ…」
力強さには欠けるが、空を見上げる表情と目付きは独裁者のそれだ…菜々子はそう直感した。しかし、大友が言うようにこれだけでは証拠にならない。否定されて御終まいだ。
菜々子の直感は、これまでの取材の経緯を知るからこそのもので、万人を説得できるものではない。
お姫様の身元を確認すれば補強材料にはなる。しかし、それだけでも足りない。お姫様の伯父に当たる可能性がある正哲の可能性を否定できないからだ。
本人達に直撃出来る筈も無いし、仮にそれが出来て尋ねたところで返答がある筈もない。今は亡き正男に直当たりした時のように本人が否定しなければオーケーなのだが、それは考えても仕方ないのだ。
これは真実を知る組織に当てるしかない…菜々子はそう思った。が、それでも感触が得られるとは限らない。やはり、また桃子姐さんとルークさんに相談するしかないと菜々子は考えていた。
大友に労いの返信を打ち、この先の取材方法を改めて検討する旨伝えた。そして、送られてきた映像を会社支給のタブレットにコピーした。
「あれ、部長」
当番デスクがやや素っ頓狂な声を上げ、菜々子を呼んだ。
「何かしら?」
菜々子が傍らに赴くとデスクは通信社の画面を指差す。速報だった。
「北朝鮮問題の専門サイト・38ノースが北朝鮮の核実験場で不審な動きを確認。地下核実験の準備の可能性有りと報じる」
38ノースとは北緯38度線の北側、すなわち北朝鮮を指すのだが、このウェブ・サイトはCIAの元北朝鮮担当者が立ち上げたシンク・タンクが運営している。菜々子もデスクもそれぞれ当該のウェブ・ページにアクセスし、内容を確認し始めた。
上空から北朝鮮の核実験場を捉えた衛生写真に以下の説明文が掲載されていた。
「最近の衛星画像が捉えたところによれば、北朝鮮の豊渓里にある核実験場で不審な動きがあることが分かった。西の坑道の入り口が掘り起こされ、そこに至る道路の整備も進んでいる。これが直ちに地下核実験の再開に繋がるか不明だが、その準備と受け取ることは出来る。動きは急ピッチで進んでいるようだが、仮に北朝鮮が核実験に踏み切るとしても直ぐにということはなく、もう少し時間が掛かるものと推測される」
これだけだったが、まさに世間の意表を突く動きだった。
本気なのか、威嚇を意図するだけなのか不明だ。だが、あの国の行動には彼等なりの意味が必ずある。これが次の動きの始まりなのかもしれない…菜々子はそう思った。
夜ニュースからこれを淡々と放送することをデスクと確認し、菜々子は帰路に就いた。
帰宅すると太田は既に寝入っていた。
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これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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