20XX年のゴッチャ その26
オルリー空港
パリ南方のオルリー空港ではAAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのパイロット、トニー・ジョンソンが飛行計画の最終確認を行っていた。日本とは冬季八時間の時差がある。
「許可は下りたのかな?」
ジョンソンが営業担当に尋ねた。
「いえ、まだです」
「それだと予定より遅れる可能性があるね」
「北京空港の離着陸枠は押えてあるのですが、当局の飛行許可が未だなんです」
「ちょっと珍しいな。何かあったのかな?」
「金正恩総書記の訪中の影響ではないかと思われます。空港からは駐機場を変えて貰うかもしれないという連絡も来ています。ただ、北京側の訪中受け入れの準備が整えば許可も下りるかと期待しています」
「タイミングが悪かったということか…仕方ないね」
「そうですね」
機体の整備は完了していた。搭乗客の名簿も出揃った。全員、北朝鮮国籍でフランスのヴィザは入手済みとある。患者は、どうやらカン・チョルという名前の人物らしかった。
パリ・セーヌ南総合病院
パリ南東部十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院は医療水準が高いフランスでも十指に入る大病院である。十七世紀にルイ十四世の命によって創設されたという歴史を誇り、近年では一九九七年にパリで交通事故死したイギリスのダイアナ妃が事故直後に運び込まれた病院としても知られている。
中にバス停が十二もある広大な敷地には病棟や研究棟、事務棟、教会などなど八十の建物が立ち並ぶ。そのタイプも古めかしい石造りから現代的な大型ビルまで様々だ。病床は救急用も含めると全部で千八百近くもある。
大物政治家や財界人、各国の王族などが使う貴賓室とも言うべき特別な病室は幾つも存在するが、中でも特別な部屋は日本流で言う2LDKで100平米以上、備え付けられている医療機器はICUと変わらない。お付き用の部屋も隣接していて、当然、同じフロアにナースステーションや医師の詰め所もある。そのフロアには同様の部屋が複数あるが、互いの部屋の様子は分からないようになっていた。セキュリティーも厳重で、アクセスできる医師・看護師も厳選されていた。職務上知りえた患者の情報を医療スタッフが口外してはならないのは当たり前だが、特に口の堅いスタッフが揃えられていた。
そのフロアの半分が二月十日から既に押さえられていた。患者側はフロア全てを貸し切りで確保したがったが、それは受け入れられず、半分になったのだ。パク・チョルという名前と生体肝移植を受けるという以外、患者の身元情報はスタッフにも伏せられていた。そして、肝臓外科の権威、アラン・パスカル教授率いる医療チームが手術と予後を担うことになっていた。
受け入れ態勢は既に万全であった。
病院を出て目の前のセーヌ川を北へ渡り、バスチーユ広場を過ぎるとバタクラン劇場はすぐ近くにあった。劇場ではステージのセットアップが大詰めの段階を迎えていて、翌日にはエリック・クラプトンのファイナル・ツアーのリハーサルが始まる予定だった。
「随分小さいんですね。これなら観客の出入りを見るのは楽ですよ」
淡い暖色系で彩られた瀟洒な建物を見上げながら、今はメトロポリタン放送のロンドン支局長を務めているゾウさんこと山瀬孝則が言った。パリ支局長の大友祐人が応援に来た山瀬を案内してまた下見に来たのだ。
「その通りなんだ。特別扱いで裏から入ったりされると面倒だが、多分、そんなことは無いだろうしね。人混みに紛れてしまって見落とす可能性はあるけれどね」
「でも、東洋系の何人かのグループが纏まって来れば嫌でも目に付くでしょ。何とかなりますよ」
「そうだと良いのだが…終了後にそっと追い掛けて少し離れたところで当たるんだろうね。
騒ぎになるのはまずいから」
「それですね」
山瀬が直ぐに同意した。
「ところで、お腹空かない?近くに良いパン屋があるんだ。昼飯にしよう。イート・イン・スペースもあるしさ」
大友が誘った。
「イイですね~」
また直ぐ同意した。山瀬も旨い物に目が無いのだ。分厚い体躯の大和男児二人がとことこと連れ立ってパン屋に向かった。
歩きながら大友は少し悩んでいた。バゲットのサンドイッチを二つ、ハム・チーズとツナ・アンチョビを食べるとして、デザートを何にしようかと…。アプリコット・タルトにするか、カスタード・タルトにするか、考えた末、「いや、両方頼んで山瀬と半分ずつにするかっと。嫌とは言わないだろうから」
そう、決めたのだった。
北京入り
その夜、既にすっかり帳の下りた北京駅に三十両編成の特別列車が到着した。張り込みをしていた各社が直ちに世界に打電した。依然、発表は無い。
「いよいよですね」
オーフ・ザ・レコードの壁に掛かったテレビ・モニターで流れた速報を見て桃子が言った。日本では既に夜の十時を過ぎている。食事は済ませてあるようで、自ら持ち込んだ森伊蔵のお湯割りを飲んでいた。
「鬼が出るか蛇が出るか?大山鳴動して鼠一匹なんてことは、ま、もう無いのだろうけどさ」
ルークはそう応じると、桃子の摘まみとしてセロリの出汁引きの梅おかか和えと蓮根の胡麻マヨネーズ和えを其々小鉢に入れて出した。
「これ、セロリですか?私、苦手なんですけれど、これなら大丈夫です。というより美味しいです」
セロリを口にした桃子が言った。
いずれも夕食のメイン・鮪の漬け丼に添えるものだったが、もう食事をする客は来なさそうだった。残った漬けは翌日のルークの昼食になりそうだ。
「俺も昔は苦手だったんだが、女房にこれを食わせて貰って以来、大丈夫になったよ」
「それは奥様に感謝ですね」
「…」
ルーク世代は素直にその通りとは言えないのだ。
「仮にADEだったとしたら北朝鮮だけに任せて置くわけにはいかないのは明白としても、西側がどこまで関われるのか難しい問題だね」
ルークが話を戻した。
「中国政府に丸投げするんでしょうか?」
「既存のワクチンを更新すれば済むというレベルの話ならそれでも構わないかもしれないが、ADEだとそうはいかないんじゃないかな?別次元の新たなパンデミックがやって来る恐れがあるのを知っていて防げなかったということに万が一なってしまったら、西側の新たな被害も甚大だし、各国政府もWHOもただでは済まないだろうからね」
「そうかも知れませんね。でも、北朝鮮が協力するでしょうか?」
「それこそ皇帝陛下に総書記様を押し倒してもらうしかなんじゃないの。中国だって自分達だけが責任を負わされるのは困るだろうし」
「確かに北朝鮮指導部も自分達がまず危ういのは分かるでしょうから、中国の全面介入は受け入れざるを得なくなるのでしょうけれど、西側の介入までは嫌がるでしょうね…」
「条件次第ってことになるのかな…でも、まごまごしていると間に合わなくなる。皇帝陛下に頑張ってもらうしかないね。もっとも、まだADEと確定したわけじゃない筈だけれどね」
間もなく始まる中朝首脳会談の結末を世界が固唾を飲んで待ち構えていた。
人民大会堂
「昨夜も今朝も北朝鮮の特別列車に於けるPCR検査に異状はありませんでした。隔離期間中、一度も陽性は出ておりませんので、もう大丈夫と考えて差し支えないと存じます」
翌朝、北京の人民大会堂の一角を占める国家接待庁事務局にある主席専用控室で、中国政府の防疫・公衆衛生問題を統括する趙龍雲が習近平主席に報告した。
「面会室の準備は?」
「はい、会談は十五メートル程距離を置いた場所に着座して行っていただきます。ご挨拶もその距離を保っていただき、抱擁や握手は勿論省いてくださいますようお願い申し上げます。お座席の間には西側で言うところのエアー・カーテンを敷き、空気の流れを遮断させていただきます。万が一にも飛沫が漂って来ないようにするという訳でございます。距離もございますので、会話はマイクとスピーカーを通じて行っていただきます」
国家接待庁の黄強事務局長が応えた。
人民大会堂は北京市の天安門広場の西側に位置する。そこには万人大会堂と名付けられた大会議場や要人・各省庁・各省等の控室、宴会場、国家接待庁などがある。そして、国家接待庁の一階に外国要人との会談を開いたり、外交使節を接受する部屋があり、中朝首脳会談もそこで行われるのだ。
「会談に同席するのは対外連絡部の郭燿部長と通訳、それに記録係の三名のみの予定です。先方の同席者は通訳と記録係のみです。駅の出迎えは胡立山外交部長が当たります」
公式・非公式の会談含め中国政府の接遇関係のロジを司る黄事務局長がこう続けた。
「郭部長と胡部長始め、会談に同席する者、接遇に当たる者は全員既に治療薬の予防服用を開始しております。今一度、確認させていただきたいのですが、主席は予防服用をなさらないということで宜しいでしょうか?」
趙龍雲が改めて尋ねた。
習主席は趙に黙って頷くと今度は韓高麗中央宣伝部長に尋ねた。
「報道対応は?」
「金正恩総書記が列車を降り、胡部長が出迎える場面のみ新華社が写真撮影し報道致します。会談なども関連行事は全て録音・録画いたしますが、一先ず報じるのは駅の出迎えのみです。北朝鮮側も同意しております」
「よし、それでは予定通り明日午後二時に会談を始める。一同、抜かりのないように」
主席が号令を発した。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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