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#36 文化の架け橋としての手話通訳

にいまーるは、障害福祉サービス事業を中心に手話普及活動も行なっている団体であり、ろう者と聴者が一緒に働く職場です。
障害福祉サービスの利用者は全員耳が聴こえません。
しかし、スタッフの比率は、ろう者2割:聴者8割と、聴者が多いので、双方の文化の違いが垣間見え、時には食い違うことも多々あります。
そんな職場から生まれ出る、聴者とろう者が共に仕事をする中での気づきを連載していきます。
今回は「手話通訳」というテーマで、スタッフの毛利さんに書いていただきました。毛利さんは、以前インタビューを受けていただいたこともあります。インタビュー記事はこちら

手話通訳とは何か
「手話を日本語に訳すこと、日本語を手話に訳すこと」
それは確かにその通りでしょう。

しかし、簡単にそうとも言いきれません。
英語がペラペラなことと、英語の通訳ができることが異なるように、手話ができることと、手話で通訳ができることは全く別物なのです

私がまだ20そこそこの頃、都内で行われたある学会の場で手話通訳を見ました。
発表者が壇上に立ち、日本語でスピーチを始めます。
その隣で男性の手話通訳者が手を動かしています。

一言一句正確には覚えていませんが、発表の途中で、(何か自分の不手際を指して)「・・・偉そうな顔でこんなところには立っていられませんよ。はは(笑)」といった文脈での語りがありました。

その通訳者はすかさず、流れを切ることなく、まさに自然に、

/クビ/ /自分(指さし)/

と手話表現したのでした。

私は衝撃を受けました。
まず、/クビ/という手話が、そういう使われ方をすると知りませんでした。
そして何よりも、会場にいる聴衆の一体とした反応に、私の中で不思議な感覚が残りました。
それは、発表者の日本語を耳で聞いている聴衆と、通訳を通して手話を見ている観衆(?)の、合いまった笑いが起きたのを肌で感じたからでした。

私は、これは手話通訳の神髄だと思いました。
この通訳者はプロフェッショナルだと思いました。

手話の/クビ/は、単にリストラや能力の著しく低いことを指すわけではなく、むしろ、「猿も木から落ちる」や「弘法にも筆の誤り」といった具合に、能力やキャリア、技術や技芸がある立場にある人がミスをおかしたときに、自嘲したり、(冗談として「もっと頑張れ」というニュアンスでの)失格、といった意味合いで使われたりします。

言語が異なれば文化も異なります
異なる二つの言語の間を取り持つということは、
それぞれの文化圏に属する人の生活習慣や価値観にも精通していないと高いレベルでの通訳は実現できません。

手話と日本語という、二つの言語の場合は、そもそも音声を用いる文化か否かというのが大前提としての決定的違いでもあります。

日本語において、奥ゆかしさや露骨な直接表現を避けるのは、特徴の一つですが、「つまらないものですが・・・」と差し出した手土産を、そのまま手話に訳していては、反感を買うかもしれません。

私たちはスーパーで『蛍の光』のBGMが流れれば、買い物かごを片手に自然とレジに向かって早足になるでしょうが、BGMが聞こえない、手話を母語とする人には、例え「『蛍の光』のBGMが今流れています」と通訳を受けたところで、「なぜ?」というのが率直なところでしょう。

さて、こういったことから、異なる文化の間を取り持って、両者のコミュニケーションの円滑さを図るというのは、それぞれの生活様式や思考様式、価値感覚を十分理解していて、自然な手話、又は日本語で表し、当事者に生き生きと心地よいイメージを描いてもらうことを追求しなければならないと思うのです。

そう考えると、手話通訳という仕事が、
実にやりがいと人間味にあふれたものだとおもいませんか。

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文:毛利真大(就労継続支援B型手楽来家・職業指導員)

編集:横田大輔
Twitter:@chan____dai

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