#40 手話の勉強を続けても通訳士は目指さない訳
こんにちは。NPO法人にいまーる理事・吉井です。
自分は普段、聴覚障害者の支援事業を諸々行っているNPOで働いているわけですが、当然仕事上「手話」を使って毎日を過ごしています。
大学1年生の頃から手話の学習を始めて10年くらい経ちますが、学習を始めてしばらくして、「手話上手だね」とろう者の方に褒めてもらえることも少なからずありました。
非常に嬉しいんですが、
ろう者の方からは、決まってその後に
「お前手話上手だから通訳士になれ」
「通訳士の試験受けないの?」
という言葉が続きます。
少なくとも学生の頃は手話の勉強は熱心に取り組んできましたし、
手話が上手くなって褒めてもらえると、当然「通訳士というキャリアもありなのかな」と考えたりもしました。
しかしながら、大学4年生~大学院生の頃は大学での研究が忙しくなったり、他の分野の勉強に興味が移ったり、聴覚障害を持つ方々との交流も少なくなりました。
自分の飽き性な性格が祟って、手話が学習のモチベーションが下がったのだと思っていましたが、どうやらそうではないということに、あれから何年も経ってようやく気づきました。
本記事ではその理由、手話学習者に「通訳士を目指しませんか?」と促すことが、学習のモチベーションを下げることにつながる危険性があるということを自分の原体験から述べていこうかと思います。
1.「手話」の学習と「手話通訳」の学習は違う
さて「通訳士になることを促されると手話のモチベーションが下がる」
と述べましたが、その理由はなんでしょう。
ここが今回のポイントですが、「手話」と「手話通訳」は、学習者の目的とモチベーションの源泉が全く異なるからです。
具体的に説明していきます。
まず、「手話」を学びたいという人の学習モチベーションは
「ろう者に自分の言葉を届けたい」「ろう者の言葉を理解したい」というものだと私は考えています。
つまり目的が「コミュニケーションをとることそれ自体」になっています。
対して「手話通訳」を学びたいという人の学習モチベーションは
「聴者Aさんの言葉を、ろう者Bさんに届けたい(逆も然り)」という
不特定多数の人の役に立ちたいという貢献感(もしくは承認欲求)からくるものだと考えています。
…さらにわかりやすく言い換えます。
「手話」を学びたいという人は、
自分の言葉を伝えたい/自分で相手を理解したい、と
主体が常に自分です。
「手話通訳」を学びたいという人は、
Aさんの言葉を伝えたい/Bさんに理解してほしい、などと
主体が常に自分以外の他人なんです。
当たり前ですが手話通訳は「自分」を出してはいけません。
通訳をしている間は、他人に憑依して、黒子に徹しなければいけません。
私のように「自分で」コミュニケーションをとりたい立場で手話を学習している人間にとって、「自分を消して黒子に徹する」仕事はあまりにも苦行です。
おそらく私と同じように「手話の勉強は好きだけど、通訳士になる気はない」という人は多いんじゃないでしょうか。その理由はもしかしたらこれかもしれません。
これが「通訳士になることを促すこと」が危ない理由であり、自分が学生の時に手話学習のモチベーションが下がった理由なのだと今になってわかりました。
2.自分で自分の首を絞めてるかも
おそらく通訳士には向き不向きがあります。
それは頭の良し悪しではなくて、性格的なものです。
私のように主体が自分で、コミュニケーションそれ自体を目的として手話を学習している人間がひとたび「通訳士になりなよ」と促され、通訳士の講習や勉強会に行ってみたらどうなるでしょうか?
最初は興味本位で参加するかと思います。しかし次第に思っていた手話の勉強ではないことに気づき勉強が辛くなるでしょう。モチベーションもどんどん下がって、結果的に手話の世界から離れていく人も出てくるんじゃないでしょうか(自分が実際こんな感じでした)。
自分は一度手話から離れたにもかかわらず、たまたま縁あって今の仕事に就きましたが、通訳ではない別の専門性を買ってもらって今の仕事をしています。それでも手話の学習は必要だと思っており続けています。
手話の勉強の延長線上に、通訳士というキャリアだけしか見えていない人も多いような気がしますが、自分はそうではないロールモデルになりたいなとは思っています。
ろう者の皆さまへ。
手話がちょっと上手いなって思う聴者に対して、軽々しく通訳士になることを勧めたりすると、結果的に聴者がろうの世界から離れていっちゃうかもしれません。
他人のキャリアを決めつけるのはほどほどに。
---
文:吉井大基
Twitter:@dyoshy_
Facebook:daikiyoshii4321