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私たちはいつも「審判」になっている

学生の頃、審判が好きだった。
ただしそれは、審判の仕事内容が好きだとか、好きな女の子が審判だったからといった理由ではない。好きだったのは審判という「ポジション」だった。

中学生時代はソフトテニス部に所属していたが、運動があまり好きではなかった。小学生の頃からの友達からの誘いのままに、半ば強引に入部させられたといっても過言ではない。家の中でゲームをしたり、小説を読み耽ることが好きだった自分にとっては、ほぼ毎日の練習はかなりこたえた。
特に夏休みの練習は特に辛かった。炎天下の中、ひたすら部内で試合をしたり、ラリー練習を何時間も続ける日々。体力だけでなく精神もボロボロだった。

そんな練習でも、唯一楽になれる瞬間があった。
部内で試合をする時の審判係。基本的には椅子に座って試合を眺めるだけで特に体力を使うわけでもない。点数やゲーム状況を淡々と口にするだけの簡単なポジション。テニスのルールさえ知っていれば誰でもできる仕事だ。

以上の理由で僕は審判が好きだったのだが、おそらくこの考えは自分だけでなく、みんなそう思っているに違いない。辛く苦しい環境で生きている中に少しでも楽な場所があるなら、そこへ足を向けるのが人間だ。

そしてなぜ、今この時期にこんなことを書いているのかというと、ここ近年の人々は審判になりたがっている、もしくは無意識のうちになっているのではないかと感じるようになったからだ。

私たちは昔に比べてストレスの中を強いられている社会を生きている。
新型ウイルスや目まぐるしく変化する社会情勢といった大きな問題から、職場や学校内での人間関係、SNSにアップロードされるキラキラした生活を見て、自分に劣等感を抱くといった個人的な問題に日々苛まれている。

そして私たちは無意識に逃げ場を探している。
そして逃げた先が、成功している人たちや不祥事を起こした芸能人への心無いコメントや誹謗中傷だったり、見た目や学歴などで優劣をつけるといった「審判」になることだ。他人に評価を下すのは簡単だし、ネットやSNS上では匿名という権利がある。現実世界で同じことを言うよりかはハードルは低い。

もちろん、悪いことをした人が批判されるのは当然である。決してそういった人たちを庇っているわけではない。見た目や学歴で判断している人も例に挙げたが、私たちみんながそうだ。無意識のうちに判断してしまう。より顔が整っている人の方がいいだろうし、頭が悪いよりかは頭のいい人の方がいいに決まっている。

ただし、いつまでも審判でいるわけにもいかない。
私たちには私たちの人生がある。人生という長いゲームの「プレイヤー」として生きなければならない。他人のゲームにエラーやバグが起きる度にわざわざ干渉する必要はない。他人のレベルやステータスを見て落ち込む前に、まずは自分にできるレベルアップをしていくことから始めるべきだ。だれかにとってはスライムを倒すことだったり、誰かにとっては魔法のアイテムを探すことだったり。一見同じに見えても、ゲームの内容やミッションは人それぞれなのだ。

あなたが抱えている負の感情で持ち物をいっぱいにするのではなく、楽しいことや小さな幸せでいっぱいにできるようになれば、自ずと負の感情は入らなくなる。

「審判」ではなく「プレイヤー」に。「ぼうけんのしょ」は始まったばかりだ。



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