「好き」が消費されては捨てられていく現代について考えてみた
インターネットやSNSが私たちの日常に溶け込んでいる現代において、音楽や流行語、加工フィルターなどのコンテンツが生まれてはさまざまな形で消費され、やがて忘れ去られていく。もちろん、それがコンテンツの正しい使い方であるのは間違いない。「形あるものはいつか壊れる」と言うが、このような形のないコンテンツも壊れる(=忘れ去られていく)ものである。
しかしながら私はタイトルにもある通り、コンテンツの終わりのことを「忘れ去られていく」ではなく、「捨てられる」と表現したい。
情報化社会となり、大量の情報を得ることになった今を生きる私たちは本当に正しく「好き」を消費できているのか否か、今から深掘りしていきたいと思う。
現代の流行るコンテンツは主にSNSから生まれる。例えば、有名インフルエンサーがTikTokで使用した楽曲は他のユーザーにも浸透し、さまざまな動画やダンスに使用されるようになり、やがてその楽曲がSNSから私たちの生活に広がっていき、「今流行りの楽曲」となる。代表的な曲で言えばYOASOBIの「夜に駆ける」や瑛人の「香水」、SEKAI NO OWARIの「habit」はTikTokをきっかけに大バズりしている。中でもYOASOBIはTiktokでの流行りをきっかけにブレイクし、アニメの主題歌やcmソングなどにも起用されるくらい有名なアーティストとなった。
音楽だけでなく、グルメや流行語、綺麗な写真スポットなどもTiktokやInstagramから流行り、有名になっていることが多い。
このように、現代の流行るコンテンツのほとんどはSNS発祥のものであることを理解していただけたかと思うが、この流行り方については何ら問題はない。情報の伝わり方は時が流れるにつれて変わっていくものだ。この令和の時代で「口コミ」で広がっているコンテンツの方が珍しいくらいである。
しかしながら問題なのが、そのコンテンツに対する扱い方である。扱いに問題もなにもあるかと思われた方もいるかと思うが大アリなのだ。
一見SNSの普及を活かした自然な流行りのように見えるこの一連の流れだが、ここに大きな問題点がある。それは「コンテンツの消費スピード」が異常なまでに速くなることがあるということである。SNS上では毎分毎秒新しいコンテンツが生み出されては送り出されている。つまり、今流行っているそのコンテンツも明日には流行りでは無くなってしまっているかもしれない。情報が洪水のように降り注ぐ現代社会ならではの落とし穴がそこにはあるのだ。
そして私たちはそうやって忘れ去られていったコンテンツを不意に思い出しては「オワコン(オワってるコンテンツの略)」と名づけ、今度はバカにするためのコンテンツとして扱うようになる。流行りを終えて伸びなくなったアーティストやYouTuberに対して「オワコンになったな」「一発屋」などとネガティブなことをコメントに残したことがある人も中にはいるのではないだろうか。
もちろん忘れ去られていくコンテンツにも原因はある。単につまらなくなったやら、もっといいものができたやらといった「実力不足」によって忘れられるのは仕方ない。だからといって「オワコン」と言い捨てるのはまた別なのではないか。言い方が悪いかも知れないが自分たちが勝手に盛り上がり、祭り上げたことを忘れてしまったのか。
私たちは情報を大量に得ることができてしまった反動でコンテンツの無駄遣いをしてしまっているのではないか。
クリエイターにとって最も恐ろしいことは「忘れられること」なんて言われているが、近い将来「捨て台詞を言われて捨てられる」ことがクリエイターにとって最も恐ろしいことになるのかもしれない。
簡略化・効率化によって何でもかんでも手軽になって便利になった私たちの生活だが、それに合わせてコンテンツの縮小も進みつつある。TikTokやYouTube Shortsなどの短い動画が流行ったり、楽曲の長さが3分を切るようになったり、動画や映画を倍速で見ることが当たり前になっている。これらを決して悪く言うつもりはないが私たちはもう少し「楽しむ時間」が必要なのではないだろうか。忙しなく動く生活の中だからこそゆっくり味わい、余韻に長く浸ることで真にコンテンツを味わい尽くすことができる。「オワコン」と一蹴するのではなく、「懐かしいなぁ〜 あのときは自分もハマってたなぁ」と感じることができるくらいコンテンツを楽しもう。