先生、わたしと‘ソクラテスごっこ’してください。
創作は哲学と似ていたのかもしれない、と
学部生の頃からもう何度も重ねたゼミ(的なもの)の帰り道、思った。
(ってたぶん半年くらい前に書き出した)
(書きかけの文章久しぶりに開いたら、これ昨日先生も言うたな、ってなった)
「わたしがどういう人間であるか」
「何を理由に、何を作ろうとしているのか」
「その考察の先に、どんな‘なにか’が生まれてくるのか」
8月末、提出期限に滑り込ませる為だけに2000文字を並べた研究論文を研究室の教授にメールで送りつけたこと、送ったそばから反省していた。
というかもはや書いてる時点で反省のあまりちょっとしゅんとしていた始末で、だから「一応書いたんですが、内容と方向性に悩んでしまっていて……アドバイスがほしいです……」という言い訳を添えてメールした。
ただしそれはたぶん、そういうことは提出期限の一週間前とかにやるべきことであって、提出日の午後3時にやることではない。知っとる。
文章を書くのは、そらまぁこういうのを適当に趣味にしているくらいには、好きで。
だから研究論文書くことですら、正味楽しみにしていた。
「構成を考えるのも、美しい体裁にするのも、嫌いじゃないわ、ふふん」って思いながら、今回の研究論文の説明も聞いた。
でも、いざ書いたら書けなかったあ。
いやもう、手も足も出なかったあ。
途中でやんなちゃって、気がついたらnoteの記事一本仕上げたのにな。でも最近大したこと書いてないからそんなにインプレッションはない
何が書けねえって
える知ってるか、論文は、こんなえもいってさいこーって思ってる体たらくな文章ではだめなんだぜ。って感じ。
基本的に、制作に対して根本がぼんやりふわっとしてて、だから迷うんだよ、困るんだよって100万回注意されたけど、やっぱりあんぽんたんなのでたぶんこのまま直る様子はない。
「なんで‘空間デザイン’なの、それって何(のつもり)?」
って、ゼミのはじめのこんにちはの挨拶なのかと思うくらい毎回そこから質問される。
やりたいことや、興味のあることがいろいろあって、わたしはいつもそれ全部聞いてほしくてわちゃわちゃ喋るんだけど。
その話だけで半年くらい、何回もして今日どうもちょっとだけ伝わったらしい。
「だって五感はいろいろあるけど、でも、肌感覚で体感するって、それが結局いちばん気持ちいいじゃないですか。こう、からだに、わ〰〰っとくる、感じ。だから小物じゃだめなんです。」
ってはなしをしてたのがさぁ!
8月だってよ!
修了制作間に合わないよどうすんのって1億回言われ続けてるゼミ
「なんで空間デザインなの?」(8月)から
「なんでデザイン(機能)にこだわるの?」(昨日)
って話になっていた。
……後退してない?( ˘ω˘ )
わたしは自分のすきなものことを「えもい」っていうめちゃくちゃライトでキャッチーな言葉にして誤魔化してるけど
わたしが考えてることって基本的にかなり思想的、かつ情緒的。
わたしがつくるものにはそれが物凄く絡まってて、根本だから排除できないけど、自分自身はそういう見せ方は醜いし恥ずかしいと思っている。
研究室の先生はいわゆる情緒性ゼロの、量産主義デザインを貫いてて、そういうところが憧れで、そんで今んとこ相入れてない。
先生のつくるものは思想というより、思考で
反対にわたしの頭の中は良くも悪くも思想的すぎる。
ちなみに情緒性って言葉を使われるのは、まじで辱めなのでやめてほしいと毎度思っている。
おじさんの俺にはもうやれないけどさ、
20代前半の女性のあなただからこそたぶん、まだその時で、やれるんだよ。無理に捨てなくていいよ。
って先生は言ってくれたんだけど
思想はもう勝手に止まらないから、思考がもっときちんと回ればいいのに、と思ったよね。
水と油で、相入れないからこの研究室いるんだって言うのを、永遠に唱えたいよね。ずっとラブコール。
「ものを作る上での根底の大前提は己の哲学で、宗教なんだよ」って先生は言った。
日本人だから、八百万の神なんですかね。
これも、それも、いまはわたしの神様なんだ。
めちゃくちゃ久しぶりに徹夜で制作して
夜明けの空の色がどうかしてるくらい綺麗だ、って思ったから
そういうところやぞ、ってなった。
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