何回観るねん、『八日目の蝉』
もしかすると、邦画の中でいちばんに好きかもしれない、『八日目の蝉』。
好きと言いつつ原作もドラマ版も観ていないのだが、井上真央と永作博美のこちらは、もう何度も繰り返し観ている。
この作品の、恵理菜(薫)視点のあり方がとても好きなのだ。
幼少期の母親、野々宮希和子というひとは、妻子のある男性(恵理菜の父)と不倫をしてしまい、さらにはその家庭の娘(恵理菜)を誘拐してしまうという役どころで、
ちらほらレビューでも「どんなに美しい母の愛のように描いても犯罪は犯罪であり、不愉快」といったような意見もある。
ただ同時に、法的には被害者である恵理菜の本当の母親も、自分の旦那と不倫関係にあった希和子を激しく罵り、そして大人になった恵理菜に「どうしたらいいの?わたし、恵理菜ちゃんに好かれたいの」と言って泣き崩れてしまう、そんな女性だ。
話の全体感としては、ひとそれぞれの温かみがあって、感動的で、愛を描いているのだという雰囲気を纏っており
観賞後はその充足感のようなものを与えられるようにできていると思うのだけれど
わたしは、どちらかと言うと、この物語にちゃんとしたいい人がひとりも出てきてくれないことこそが、とても好きだ。
前述の通り、野々宮希和子も、実の母親も
母という存在であるにも関わらず、実に身勝手で、不器用で、感情的で、自らのことすら手に負えていない印象をひしひしと受ける。
恵理菜の父親や恋人に至っては、弁明することすらもはや必要ないと言わんばかりの、謝罪や救いのシーンがなにもないただのクズ男として描かれている。
小池栄子演じる千草は、この物語の中である意味唯一、完全に味方でいてくれる登場人物であり、恵理菜もそこに救いを感じてはいるものの
現実的には、宗教の中で育てられた彼女は社会的にはまともに機能しておらず、‘優しい’という以外には大きな破綻のある人間だ。
そうして恵理菜自身も
実の家族ともうまくはやれず、バイト先でも他人と距離を置き、友人もおらず、恋人はと言えば妻子持ちの男。
そして彼女はそれを、自身のどうしようもない破綻として、諦めている。
酷い酷いことが、たくさん起こる。
どこかで生じた歪みがいつまで経っても尾を引きずって、簡単には抜け出せず、ちゃんと歪んだ大人になってしまう。
そこが好きだ。
うまくいくわけがないのだ。
些細だったかもしれない、自分にはなんの責任もない歪みが、自分の人生をぐちゃぐちゃに形成してしまう。
そうやって人生すべての時間をかけて、子供から大人に、ひとりの人間になったのだから、ぐちゃぐちゃな人間で当たり前だ。
それでも。
それでも、愛されていたこともまた、同じように事実だったのだ。
映画の劇中を通して、恵理菜は野々宮希和子と過ごした時間を振り返りに行く。
宗教施設や、小豆島で過ごした時間を、その時の記憶を掘り返してゆく。
「本当はこの島にずっと帰ってきたかった。だけどそんなこと言っちゃいけないと思っていた」
小豆島で彼女はそう言う。
そして、不倫相手との間にできたお腹の中の子供に
「わたし、もうこの子のこと、好きだ。会ってもいないのに、もう好きだ」
と言う。
善悪は、二の次でいい。
他の誰かを傷つけていたり、貶めていたり、その事実も、二の次でいい。
生きていく上で必要なのは、確かに幸福だったこともあるのだという、その事実の方だ。
嘘にしなくてもいい、そこに救われてもいい、愛されていた日々を愛してもいい。
野々宮希和子の愛も
実の両親の愛も
不倫相手の愛も
千草の愛も
美談ではないけれど恵理菜個人にとっては本物だから、それに寄り添い、守られて、良いのだ。
他人とうまくやっていくためには、なにかと折り合いが必要だけれど
ただ、わたしにとっては、幸福であることも、事実なのだ。
ぐちゃぐちゃに破綻しているけれど、それでも、それでも。
悲しいだけが、この身体のすべてじゃないのを、知っている。
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