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堀部安兵衛とイタリアの数奇な縁 #2

第2回 イタリア大使館に行きたい!

 越後生まれの赤穂浪士・堀部安兵衛 武庸は、吉良邸討ち入り後の元禄16年2月4日、幕府より切腹を命ぜられます。伊予松山藩邸にお預けの身となっていた安兵衛や大石内蔵助の息子・主税を含む10名は藩邸の庭先で切腹し、命を終えていきます。この藩邸の跡地が現在のイタリア大使館です。

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 安兵衛が切腹をした場所は、掘り起こされ池となり、この掘り起こされた土で庭園内に築山つくられました。そして、この地がイタリア大使館となったのは昭和7年ですが、昭和14年には、駐日イタリア大使が赤穂浪士を讃える石碑をこの築山の上に立てています。赤穂浪士が吉良邸討ち入りを行った12月14日には、この石碑の前でミサを行なっているらしいという話も聞いていいました。

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 新発田で堀部安兵衛の義勇を語り継ぐ「武庸会」は、平成25年に会の結成百周年を迎え、様々なイベントを企画し、安兵衛をPRしていました。会では、百周年の年に安兵衛が最後を迎えたその地を一度、尋ねて花を手向けたいと切望していましたが、その地はイタリアの大使館。前年から電話やメールで大使館への訪問を依頼する直球勝負に出ましたが、結果は連戦連敗。大使館の行事や大使の不在などの理由で断られ続け、大使館への足を踏み入れる事は叶わずに年は暮れていきました

 しかし、あきらめの悪い武庸会。執念深さは、苦難の末に討ち入りを成し遂げた安兵衛ゆずりです。会の百周年を記念して発売をされた日本酒「安兵衛」の蔵元、金升酒造の高橋社長が新潟イタリア協会の会員だったという僅かな縁を頼りに、協会のマリオ会長を通じて大使館へ依頼してもらったところ、なんと「大使が会いたいと言っている」と念願の訪問が許されました。

 大使館から指定された訪問日の5月12日は、奇しくも安兵衛の母親の命日でした。この日、緊張と興奮の面持ちで新発田駅に集まった武庸会のメンバーは、白新線の電車に乗り込みました。(次号へ続く)

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