UNusual RE:port…
UNusual RE:port...
先日、開催されました「UNusual Museum #あ・にゅーじゃーみゅーじゃー 」は
2022(R3) 3/18(FRI) 10:00 ~ 3/22(TUE) 18:00
の全日程を無事に完走することが出来ました。
ご来場の皆さま、ご助力いただいた皆さま、とりわけNASCのご協力、NASCセンター長の坂野さまのお力添えに、深く感謝申し上げます。
https://note.com/niigata_artbrut/n/n41fb3a8c5385
今回の作品展示会について、作り上げていく模様を、企画発案者として、その内側も記していこうと思います。
・企画発案
・たくらむ
・くわだてる
・そんなこともやっていた
・展示作品の内側の人間の観点
・展示会負荷
こんな見出しでやっていこうと思います。
新潟県から、10/10出る。やらないテはない。
2021年の春先、新潟県の事業として、文化芸術活動にかかる費用を助成する動きがありました。
この直前の2020年度の年度末ーー2021年の2月あたりにこの助成事業を見つけ、バタバタっと手続きをして、初の個展を開いた経緯があります。
「theUN-DIS」というタイトルで、回廊に作品を点在させて回遊してもらうスタイルをとりました。
常在スタッフをつけない低コストでの作品展となり、もうちょっとお金をかけて、きっちりやってみたい・・・これが初の個展を終えて感じていたところでした。
初の個展「theUN-DIS」の報告書をとりまとめ、手続きをしていると、新潟県から2021年度もやります!という広報がありました。
これは早々に挽回するチャンスととらえ、2021年度に作品展を打ち出す作戦にとりかかりました。
消費税を含まず、100万円まで、10分の10の費用の会場費等を助成していただけるものです。
金銭的に余裕がなく、特にスポンサーや資金提供者がいるわけではなかったので、会場費等の心配をせず展示会や発表が出来るというのはとてもありがたく、
この助成金がなかったら、そもそもの企画も立ち上がりませんでした。
たくらむ 個展ということは、自分のコンセプトでやれる。
「theUN-DIS」のテーマとしては、評価されないものを世に出す、DISられるものに、打ち消し接頭語"UN"をつけ、
自分では会心の出来、気持ちよく出来た、これはノって作ることが出来たーーそれらをケチョンケチョンにされた、
残念・悲しい・傷付いた、という内向と、
こんなにウマくできたのにこの良さが分からないのか、という苛立ちや外向きベクトルのエネルギーをそこには持っていました。
コンクールに出しても落とされる、
作品を持ち込んでも乾いた苦笑いで拒否される、
生み出していった思いの断片でもある作品らは、行き場をなくし、処分するにできないまま、ほうっておかれる。
せめて一度、人目に触れてから終わりにしてやりたい。
思いの断片らである作品らは、言わずもがな、自分をそこに投影する部分があります
幾何学模様だね、何かの生き物の絵だね、で終わるわけではない。
でもそこを前面に出すには、難しすぎました。
キャプションも付けない、タイトルもない作品。それらは何か1つの意味に、汲める意味を限定させたくはなかったのです。
花に見えたり、太陽に見えたり、監視する鋭いまなざしにも見える作品もある。
それは、花と言った瞬間に太陽になれず、
太陽と言った瞬間に花であることを否定される。
発したいのは、受け取る人の経験と感性に働きかけたい感覚もあります。
分かる人には分かってほしい、けれども大々的に「これを見て! これを感じて!」というのとは違うような。
そこには、発信者からの一意の押しつけではなくーーある物事を一面的にとらえて決めつけるのではなくーー、多面的にとらえて、複数の意味合いや思いがあることを感じ取ってもらいたい。
そして複数ある、ということと、どちらでもある、という曖昧さや多元的なものーーこれは花だけ、ではない、太陽のみでもない。花であり太陽でもあり、何か他のものにも見えるまだ未開のものでもあるーーそんな発現、それはつまるところ、
時に障がい者になったり、時に障がい者を隠す、どちらでもあって、どちらも含む自分自身そのもののようにも感じてきます。
またどこかで、きっと解り合えはしないよね、という諦めと、必死にとらえよう・意味を見出そうとするコトへの馬鹿馬鹿しさのようなーーただ感覚のまま、理論や分析による計算し尽くされた美しさとは別の、直感的、本能的、動物的に、ああ面白い!おお引き込まれる!という、
流していて心地よい、BGMやラジオのような投げかけも孕んでいます。
芸術や美術、その道の専門家への叩きつけ、あなた方がその道にそぐわないものをDISとしたものへの、UNをつけてお返しするもののような所もあります。
covered;秘匿された、
dis-coverd;でも、中には秘めているモノがあると見つけるも、
un-dis-coverd;それには気付かず(ただの作品展示だね、と)流される
こんな言葉遊びに思いをのせていました。
作りながら、企画しながら、コンセプトは徐々に輪郭を描かれてきました。
規則的に並列された、格調高い空間演出・・・もちろんそれも良い。良いけれど。
そこに嵌められない、きゅうくつで、ウズウズしてしまう。
もっと思ったまま、そう、苦しいやつらい、キツいというのさえ出したい、
そしてこのシンドイのは、障がいだから、病気だからというとこではなく、
みんな感じ得るところはあるよなあ、という思いも、じんわりと滲んでくるようでした。
そう。開いてみていけば、そこに大きな、明確な違いがないのかもしれない。
境目があいまいで、ぼやけている。
ゴリッゴリの障がい者にも、健常者の世界にも、
どちらにも居て、どちらにも居ないような存在として。
光のあて方でシルエットがかわるような。
時に、明確に障がい者だからと断絶されるシーンや、障がいが目に見えて分かるものでもなかったりするときの、「え?障がい者じゃないよね?」という反応への安堵とガッカリ感。
絶えず変化しつづける自分の環境や自分自身において
その時々の思いや気持ち、形にならない感情や衝動、
その時は「これはいいぞー!」と猛っていても、数日後にはつまらなく感じるもの。
あわせて、紡いで形として世に送る。
成仏させる、弔いのような、儀式めいた意図も知らずについてきていたのかも知れません。
捨てるに捨てられない、きっとどこかで発表したい。
ただそれは、発信した後には、この世には残らない物にもなるのです。
残らない、ゴミであり無価値であり、捨てるべき物になるのです。
初の個展「theUN-DIS」を踏襲し、評価されなかった作品らを自由に、表現したいまま、
ポジティブなものだけにとらわれず、ネガティブなものもありのままに、
作って、表して、壊して、捨てて。とても普通とはかけ離れた、UNusuralなことをたくらみました。
くわだてる 作家を巻き込む
個展を開くにあたり、自分自身の力では集客が心もとない。
これはすごく感じていたところです。
新潟県の助成事業を使って開催することもあり、助成金の効果を報告するにも、来場者が片手で終わりました、というのではお金を返せと言わr・・・ゲフンゲフン。
展示会を企画して、そのコンセプトについてお示しし、作品を出展いただけたのが、人気アールブリュット作家の佐藤葉月さまです。
数多くのコンクールで受賞し、多くの固定ファンを抱えるアーティストをゲストとして呼べることは、とても大きな強みとなりました。
あくまで、私・情報資格試験の個展、自分でやるものという意識でいたので、なるべくゲストには負担なく、自由に展開してもらいたいと思っていました。
作品展におけるスペースを確保するので、どうぞご自由に・・・と。
他にも展示会にお誘いしたアーティストはおられますが、
あいにく日程調整のかねあいで、叶いませんでした。
よって、ゲスト1名とで開催していくことになり、このメンバーで行う事実から、
展示会のコンセプトにも醸成されていく部分がありました。
私・情報資格試験も、ゲストの方も共に障がい者である、というのを武器として前面に出そう。これはゲストにもきちんとお話しした部分になります。
障がい者アートというのは、「障がい」という文字を回避しようとするため、別な表現がされます。言い換えとして様々な表現がありますが、それぞれ本来の意味があり、障がい者アートも含有できるもの・できそうなものとして使われているように感じます。
アールブリュット、アウトサイダーアート、等々。個々のそれらについてここでは言及しませんが、障がい者アートを示す場合もあります。いずれにせよ、「障がい」のワードを使いたくない思いが感じます。
そこで今回、障がい者、しかも障「害」者という文字を使って展開していきました。
精神障害者という言葉は、とても強烈で、強いマイナスの意味も含んでいます。
ノーマライゼーション、今ではSDGsと呼ばれ、差別や偏見をなくし、誰も取り残さないようにしよう、というのがあります。
それが叫ばれるということは、それがまだ実現しきっていないことも意味しています。
分け隔てなく、むしろ積極的に支援しようとする多くの人々がいることは重々承知しております。
しかし、全員が全員、そうではありません。
障がい者は、こわい。気持ち悪い。何するか分からない。危険。近付かないようにしよう。
とてもよく分かります。私も、思う部分もあります。
それこそが、狙いです。
突出しているというのは、人の目にとまるわけです。
好奇な目であったり、「障がい者アピールかよw」という批判的な目であったり、逆に肯定的にとらえる人々の目にもとまるのです。
また既存の障がい者アートに対しての疑問も、障「害」者として展開する中に込めました。
障がい者アートとして、受け取る人々からは
「ひたすらまっすぐに作品に取り組む姿に胸を打たれた」
「ふつうの人では真似できない感性から、作家が感じる世界を新たに知れて新鮮だった」
「のびのび作られていて、見ていてハッピーになった」
という感想があがりがちであるが、どうしてもそういうのが納得できないでいる部分がありました。
いやてきとーに作ったものもあるし、苦しみながら作るものもあるし、
むしろ作ることが苦痛であったり、苦痛そのものの表現だったりもする。
この苦しくなったりツラくなったりというのは、何も障がい者だからとか関係ないだろ?と思うところもあります。
ウワーッと強迫状態になって色をぶつけていく抽象画だってあります。
幻覚が見えたときそれを忠実にリアルに摸写して表現することは不可能ですが、何か適当な作品を示して「これは見えた幻覚です」と言ったら、なるほどこれがこの人が見える世界なのか、と解釈される場合もあります。アウトプットがイコールでインプットではないのにね。フシギナコトデスネー。
個展だからこそ自分のコンセプトでやれるというものの繰り返しにはなりますが、
障がい者アートと言われるものでよく感想に持たれるような上記のようなものーーむしろ、その解になるような作品ーーを作らなければコンクール等で選出されないんじゃないか?
という考えにも至り、
発禁されているような苦しさやツラさをも、この展示会で出していこうと思いました。
ゲストには、こういうコンセプトではいくけれども、基本的に自由に、コンセプトに縛られずにやっていただくようにお伝えはしました。
そんなこと(運営)もやっていた
具体的に何を準備するのか。
場所の予約、その場所で展示が出来るのか、
搬入や設置の照明や、どんな備品が使えて、どんなものを用意しなければいけないのか。
場所代支払いのお金は間に合うのか。
買いそろえるものや、それら使ったお金分の領収書ないし証拠をどうするのか。
ネットで注文しても、いざ備品を現場に運ぶとなると、現実的なのだろうか?
助成金を申請するにあたり、どんな書類が必要なのか、
感染症予防スタッフを外部委託するにあたり、どんな契約書がいるのか、どれくらいの金額で契約してくれるだろうか、労働基準法から見ても大丈夫だろうか・・・などなど、この外部との折衝が・・・とてもたいへんでした。
そのかたわらで、作品を作ったり、展示の方法を考えたりする。
アーティストと、ディレクターを兼務するような、やってみてとてもキツいところでした。
具体的な話をするとーー
ゲストとして出ていただく佐藤葉月さまは他にも展示会を予定されており、そことかぶらない日程を考え、
荒天になりやすい季節を避け、搬入搬出の負担を減らすよう考えました。
夏は猛暑、秋は他の展示会、冬は豪雪と、それらを回避し雪解けの春分の日を計画しました。
展示会場についてもいくつか候補地をあげ、自治体の施設や貸しスペースなどいくつか候補はありましたが、商業施設であるエルマールであれば、買い物ついでのフラッと立ち寄るお客も見込めることから、
また場所代についても助成金があてられるので、とても魅力的な会場だと感じました。
スポットライトなどの照明や、電源の有無。搬入搬出のための駐車場と会場の往来のしやすさや、集客性といった面も考慮しました。
感染症予防対策からサーキュレータという風の循環も考えるも、どうせならばその風を可視化して作品として成立できないか。機材としてそこの空間にあるのではなく、作品の一部にしてしまうことで、演出する空間に溶け込めるのではないか、なんていうことも考えました。
助成金の項目の中に、マスクがある。
これはマスクを忘れた人のために、感染症予防の観点から配布・・・というものですが、これもそのまま配布、というのでは問題があるように思えました。
事情がありあえてマスクをしていない人に渡すこと、未着用の人だけに配る不公平、いっそ別にマスクは計上しなくても、とも思えましたが
来場者に全員配布をする、それも1つずつに価値を与えられればと考えました。
佐藤葉月さまはアーティストです。アーティストがいるのであれば、可能なことがありました。
それが個包装マスクにデザインしていただき、ノベルティ化することです。
これで渡されてすぐに捨てられることを防ぎ、渡す側も「マスク未着用の人に強制する意味合いを減じること」の実現にもなりました。
ただ用意した300という膨大な数のマスクにデザインを、1つ1つ手作業で施していただくのは鬼の所業だったと思います。
改めて佐藤葉月さまのご厚意に感謝申し上げます。
受付を設置するには、飛沫防止のパーティションを考えなければなりませんでした。
単純にパーティションを設置して、というのも面白みがなく、そのパーティションにもデコレイションや、何かクリエイトなことをできないかと考えました。
見積を集めて新潟県に申請し、ご指摘を受けて修正・再提出。
感染症予防スタッフには昼食代を入れてはいけない、交通費を入れてはいけない、と
仔細に渡りご指導を受け、何とか申請が通り、いよいよ展示会を作っていくステージに進みました。
申請が通った後も、見積書の有効期限のうちに助成金を工面してもらえないかと交渉したり、広報用のチラシやポスターにも着手しました。
感染症予防スタッフを外部に委託しましたが、どこまでの業務ができるのか、どこまではやっていけないのか、等の打ち合わせで、委託先ともよく連携をとりました。
最終的には、シフト作成の大まかな部分まで協議し、とてもパワーを要したなあと思い返されます。
たくさんの情報を探して整理していく中で、上越市の観光課で照明のLEDを無償貸与してくれることを知り、コンタクトをとりました。
本来なら神社仏閣や雪まつりの雪像などに使うライティングの機材を、室内の、作品展に使うということ、市の方は面白い、色んな使い方があってむしろ嬉しいと、機材使用を了承してくれました。
結果として、このことが市の観光課が広報についてもらえることになり、市公式の観光案内に作品展を広報してもらえることになりました。
上越市観光Naviさま
https://joetsukankonavi.jp/event/detail.php?id=784
チラシやパンフレットを作成してからは、多くのメディアへ広報してもらえるよう働きかけました。KomachiWebさまを筆頭に、上越タウンジャーナルさま、雪国ジャーニーさまにも掲載いただきました。
無印良品さまにも、ホームページに大きくインタビューと共に情報を掲載していただきました。
こまちウェブさま
https://www.week.co.jp/event/event.php?pgno=39951
上越タウンジャーナルさま
https://www.joetsutj.com/articles/35688979
MUJI無印良品さま
https://www.muji.com/jp/ja/shop/046607/articles/events-and-areainfo/events/961871
展示会期間中は、上越タイムスさまから取材いただき、新聞にも掲載していただきました。
上越タイムス電子版
https://digital.j-times.jp/Contents/20220320/293b4298-0891-4057-854f-126cbddb22ea
備品の搬入という所がとても大きなネックであり、いち個人の作品展でパーティションやサーキュレータ等を持ち込んで、作品も持ち込んで、最後は撤収する、
これを考えるとトラックが何台必要なんだろうということになりますが、
無印良品さまとよく話をさせていただき、無印で販売しているアクリルフレームを購入し、期間まで預かっていただくというお話をさせてもらいました。
このおかげで、心配していた備品の搬入について大きく軽減できたので、とても感謝しています。
ネットでパーティションを購入するという話で県へ助成金の申請をしていたので、
ここにおいても、県の資料を確認し、申請金額に大きな変化がないため、このまま申請金額の通りに展示会を進めることができました。
いざ、作品展を行うとなっても、運営スタッフはきちんと業務をこなしてくれるのか、時間通りに来てくれるのか、途中でばっくれないか、と
そちらにも気を遣うことになりました。終わった今では杞憂ではありましたが。
展示作品の内側の人間の観点
ここから、少し作品についても語りたいと思います。
実際に展示する作品たちですが、事前にこれを出そう、と考えていたものもあります。
地元にまつわる作品を、ということで、上杉謙信が詠んだ「九月十三夜」というのがあります。
無印良品のOpenMUJIでは、地元の作家とつながる、というのをコンセプトにあげておられていたので、この会場でやる!と決まってからは、これは作っておきたいと考えていました。
よく、川中島の「べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる」があげられますが、
こちらはややマイナーな詩になります。
わりと好きな詩ですが、これが「好き」というと、さも三度の飯より大好物ととらえられそうですが、そんなことはありません。
これもきっと、「へぇえ、そんなのもあるんだ」と誰かの気付きに働きかけたい自分の表現欲に基づくものかもしれません。
つくりも、一度、アクリル絵の具の黒でブラッシングし、そのブラシで撫でられる肌の上に、赤や黄色をところどころに入れて、ブレンドしていきます。
その上にマスキングテープを文字の形にはりつけ、上から白をポンポンと毛羽立てるように叩きます。
マスキングテープをはがすと、雪の上に型取られたような文字跡が、ブレンドした黒に見えてきます。
やっていることは、結構複雑なことをしていますが、見て通る人は、「なんだか文字のようなもの」、通りすぎる小学生から「俺の方が字がうまい」とまで言われた作品ですが、
”上杉謙信”の文字に、何人もの方が足を止めて見ていかれました。
やってみたかった表現をやってみた、というのが表したいところです。
きっと、上手さにこだわる人からは「こんな稚拙なものは、恥ずかしくて出せない」とお怒りになるでしょう。
逆説的に、「稚拙なものは恥ずかしくて出せない」という人がいる、というのも、この作品から感じるのではないでしょうか。
捨てるべきもの、で、捨てられずに、一度は出してあげたいものがありました。
使い古したペンや、短くなった鉛筆。
だからどうした、というものですが。
インクが出ないペンや、先の短くなった鉛筆を意図的に作り出そうというのも、すごくコストのかかるものです。
これは意図して作ったものではありませんが。
この鉛筆を使って勉強し、重要なことをこのペンでまとめ、英語の音読などをしたら夏休みのラジオ体操のように先生のシャチハタハンコを押す(このハンコもインク切れ)。
それは、自分が努力した証拠であるわけです。
誰かに評価されたい、褒められたい、認められたい。そういうのは多かれ少なかれありますが、努力はオープンにするべきではない、するのは格好悪いという考えの人がいます。
私は努力をオープンにしても、クローズにしても、どちらでも良いのかあなと考えています。ただ、どうしてこの使えないペンや鉛筆を捨てられていないんだろうと考えると、きっとどこかで承認欲求が働いているんでしょうね。
ここからはその欲と、経過した時間というのが読み取ってもらえればと思います。
壁に直接、紙をテープや画鋲などでとめることがよろしくないと考え、
ひっかける部分にビニールテープを張り巡らせ、
そこから紙を貼り付けて、あたかも壁に絵を描くようなことをしました。
せっかくなので、大きいことをやろうと思っており、
動きがあったほうが通りがかる人にも訴えると考え、壁に向かってひたすら描いていました。
今回、描いてみたのは鳥です。めちゃくちゃ鳥が好きというわけではありませんが、かわいさとかっこよさと、どちらも共存でき、
かつ、そこまで描けないわけではない、くらいな感じで作り始めました。
特に何がいいかなと決めてはいませんでした。
それよりも、運営の方に気がいっていましたので。
ヘビクイワシという、蛇の頭を踏んづける鳥ですが、見た目が華やかなので、描いていて楽しいかなと。描くのが長期戦になるので、飽きないのがいいなとも考えにあったかもしれません。
半日くらいで大きい鳥を描き上げましたが、描き終えると飽きるので、
目をつぶしたり、目をつぶしたら、涙が出てきたり。
日々、描き続けて変化させていこうと思っていました。
大きい壁絵のようなものを、常にかまっていたほうが、通りがかる人に訴えられるかな、と。
こういうのができました!という完成で終わりというより、パフォーマンスな意味合いが強かったので、描いて描いて、最後はめちゃくちゃになりましたね。
最後には、展示会終了前に絵をビリビリに破きました。これも計画のうちにありました。
作ったものを残すつもりはなかったので、そこでなくなると、どうなるんだろう、という
実験的なところもありました。
「惜しいね」という声もありましたが、その声があがるのも織り込み済みで、じゃあこの作品をどこに取っておくの?ということになり、結局は処分ということになります。
そして、オンライン上で評価された作品についても、展示しました。
薬袋(やくたい)というものです。
毎日、毎日、服用する薬の入れ物を、このようにまとめたものです。
結構、意図的に「怖さ」を出せたらいいかなと考えるところもあります。
集合の恐怖に敏感な人はヒットするかもしれませんが、それよか、こういうのがホラーゲームやお化け屋敷などにあったらどうだろう?と思うと、効果的なアイテムなのかな、と。
「なんでこの人は、毎日毎日、飲んでいる薬を規則的に、不規則的に集めているんだろう」
キャッチーだよな、と考えて、かなり狙っている作品です。
なんだろうこれ、という好奇というところにフォーカスしています。
これこそ、障がい者アートというものに、多くの人が持ってるフィルターのようなものがあるかもしれません。
なんでこんなに集めてんの?
何か規則性がある? そこから何か見えてくるのでは?
その実は、なんのことはありません、単に捨てるのが面倒でたまった薬の袋を集めて貼っただけです。
”そこに何か意味があるのでは? あるはずだ!”と障がい者アートを見つめる人へ、どこかで「あっかんべー」と舌を出してみたい、そういう気持ちがここにはあるかもしれません。
~かもしれません、という物言いが多いですが、自分も後から意味を見出しているので、
そこは、上記の人たちと結局は同じかもしれませんね。
作るときは特に何も考えない、その作業が何かやってみたい、やり続けたい、という発端で、
その実は特に意味なんてない。ような。
他にも、制服のデザインコンペで最終選考まで残るも落選し、同作品が約2万点の中から工事現場の仮囲いデザインに最終選考まで残って、決戦の1対1で負けた、というものがあり、
腹が立って自分でシャツにプリントを雑に貼り付けたもの、というのも展示しました。
作品に対する「こんなに良いものが受賞されずに悔しい」というより、
「作品の価値は自分でもよく分かってはいないが、2度も持ち上げて落とされることをされ、その行為に腹が立った」という思いで作った、デザインシャツです。
”雑に”創作することで前者の意味を否定し、後者の意味を強めるものです。
魂を込めて演じたネコマタのパフォーマンスにおける、ナレーション・脚本の文字を印刷したプリントも掲示しました。
動的なものを、文字という静物に変換したものです。
自身が行うのは動的なパフォーマンスがあり、展示会という静的なものの中へ次元を変えて、自分を示したいというものでした。
熱心に文字を追って読んでもらう人も多く、読み終えた頃にお声掛けをしてパフォーマンスの話をすると
「あー知ってるー!」「へぇーそうなんですねー」なんて反応もいただきました。
ある企画展のために作成したアートを、履歴書をキャプションに展示しました。
ある負の意図を抱え、作品を真っ二つに両断して、さらにもう一枚の履歴書を添えて、2つ目の意図を示した作品になります。こちらについては、来場者の方に「展示が終わったら処分する」と伝えたところ、持って帰りたいと仰ったので、そのままお渡ししました。
自分の作品の価値はよく分かっていませんが、もし転売があっても私は問題にしないと判断しました。
それも込みで、面白い作品展示になったなあと感じています。
重い展示会負荷
ここには書き切れないほど、他にもたくさんの展示や仕掛けを施しました。
すべてをご紹介できませんが、たくさんの方々に来ていただき、大きな事故なども起こらず、無事に日程を消化することが出来ました。
しかし、大きな果実を得るに、大きなキツい目にもあいました。本来ならばそこは表に出さず、成功しましたという美談で終えるところですが。私は、足掻き、もがく部分もあらわします。
作業的にシンドイという部分だけでなく、心がシンドイというのが大きいのです。
すべての交渉や企画が成功したわけではありません。失敗もありました。否定もされました。障害者という名称の使用や、それを看板に使うことに拒絶感を抱く人もいました。
いわゆる楽しい、嬉しい、ハッピーというものを要求され、それを提供できない可能性を示すと、展示会そのものが開催されない恐れもありました。
また展示会が迫るにつれ、気持ちも穏やかではありませんでした。
以下に、展示会直前の、ギリギリまで出そうか迷った書き出しを吐きます。
表現することはツラいこと 叱られることは、とてもツラく苦しいものです。「どうして言われたとおりできないの!?」「何てことしてくれたんだ! ナニ考えてんだコイツ!?」 何か思ったり感じたり、心に思うモノがあったとしてそれを出してはいけないんだーー 自分でも分からない自分の気持ちに対してまわりの偉い人が言うから、きっとそういうことなんでしょう。 別れは必ず悲しいものであって出会いは必ず喜ばしいこと。そう思えない自分の気持ちは不適切・不適応・不適格であって無理にでも、あるように済ませる。そうやってみんないきている。 ここまで苦しい思いをナゼハラセナイノカーーー、ーーー 思った気持ちを出すことを抑えられてしまってぎゅうぎゅうになった気持ちはどこへ行けばいいのか、どこへ持ち込んだらいいのか。持て余す、たくさんの気持ち。あの人に会わなくなって清々した、嫌な人と巡り会ってつらい思いをする。けれども別れは悲しむもので、出会いは喜びであってすがすがしいのに悲しいふりをしてつらいのに喜ぶそぶりをする。 否定された行き場の無いような気持ちの連続は、ずっと続いている。今の自分の後ろの影まで、ずっとずっとのびている。 気持ちをありのままに出すこと表現することはツラいこと。 叱られるのではと尻尾を足で挟んで苦しんでにじみ出た気持ちをおずおずと、そっと差し出します。 希望や喜びに満ちあふれて見る人触る人にパワーを与える、元気を与える、そういう意図では作られてはいない希釈されていない、毒気も帯びた、生(き)の表現。 こんなものを飾ってはいけない!表現してはいけない!と思った方は、絵を破ったり、切ったり壊して下さい。謝罪を要求する方はお申し出下さい、「こんなものを出して申し訳ございません。こんな気持ちを作品にのせてすみませんでした」と謝罪致します。そこで精一杯のお詫びをしながら、また気持ちを出せなかった、表現できなかったと私の影にくくりつけ、じゃらじゃら引きずっていこうと思います。 表現を見た人がこれはおおらかな気持ちになってノビノビ描いたんですね、と言われるとへぇそうなんですね!?教えてくれてありがとう、悩みながらモヤモヤしながら描いたつもりですが、私の気持ちは間違っているので、訂正してくれてありがとうと思うと同時に、また自分の気持ちに自信がなくなる。 だからもう、これはこういう画ですよ、っていうのが嫌になってしまう。見た人が勝手に思えば良いし、自分だって勝手に思うようにする。けれど、自分が思っていることが伝わらないとき、いつもツラくなる。あぁそうなんですよ!って言っておきながら、どこか、絶対に自分の気持ちにはたどりつけない、ずっと平行世界。。。また今回もミスリード。。。だからもう、だからもう。ミスリードに閉じ込めようと、投げやりになるとすごくツラくなって涙が出てくる。 ーーーーー・開催するにあたり ご来場、ありがとうございます。この展示に至るまで、非常に多くの困難を乗り越えてきました。精一杯の表現です、ご堪能ください。 「私は障がい者です。」これを言った瞬間にバイアスがかかります。障がいに立ち向かい、乗り越えて作品が作られると想像されるかもしれません。それは間違いではありません。しかし、それだけではありません。日々、施設に通所して集中して作品を作る。障がい者アートにはそういう作品もあります。自宅に創作の空間があって、丹念に作品と向き合いながらつくる作家もいます。私はいずれでもなく、毎日を一般企業で勤務し、ぐちゃぐちゃになってベッドの上で ・障害者ということを前面に出した意図は? 障害者(”がい”を漢字にしておきます)というワード、精神障害者というワードは強烈です。インパクトがあり、目を惹きつけると共に、大きいリスクもあると思います。 精神障害者という文字面から、恐怖の存在、未知の存在で、我々からは違う世界に住んでいて、未知数の所が大きい故に、攻撃されるかもしれない、危険な目に遭うかもしれない、だからなるべく関わらないようにしよう、あるいは逆に好奇な視点から解明しようと近付く場合もあるかと思います。いずれにせよ、何か発信するモノよりも「精神障害者だから」ということに注目が集まります。 (リスクとしているのは、精神障害者だから、障害者だからというフィルターが入ること。何か作家が想いを込めて、あるいは特に想いを込めずにあるがまま創作する、つくりたい衝動のままクリエイトされた作品たちーーそこに福祉や、いま流行りのSDGsが入り、作品が放つ光を屈折させること) 腫れ物に触るような感じがあり、モヤモヤと不快感
追い詰められていますね。
見よ!これぞ我が表現!としてはやっていないわけです。やれないのです。
遠慮するのです。配慮してしまうのです。
価値観を自分にではなく、誰かに見出して取り付けてもらっているのです。
それはきっと多くの、ーー障害や病気が云々の前に、今いきている一人の人間として、多くのーー人が感じたり思ったりしている所かもしれません。
展示会をやれたことに、後悔はありません。
来場者のひとりに、両親につれられてヘルプマークをカバンから下げた女の子がおり、会場内をくまなく見ていってくれました。
その光景を見て、やった価値はあったと確信しました。
特に声かけをしたわけでもありません、
彼女が何故ヘルプマークをつけていたのか定かではありませんが、
きっと、ここまで大々的に”精神障害者のART”と打ち出さなかったら、来てくれていなかったかもしれません。
障害があるのか、病気があるのか、はたまたファッションなのか。分かりません。分からないままが、いいのです。
聞いて、どちらかに振り分けるというのは、とても不粋なのです
障がい者アート、障がい者の表現というと
施設に通ってそこの施設の中で多くの時間を創作にあてられる人の作品、というのが
自分の中ではとても大きいのです。
かたや、身体の障害で、障害のない体の機能を使って作ったり表現したりするもの、ということだとも思っています。
それだけ、とはしたくない、という思いが強くなっています。
私は確かに、通院や服薬を続け、精神障害というものになっています。
けれど、生まれてすぐにそのような生き方を続けてきたわけではありません。
たまたま環境的に壁にぶつかってつまずいて、そこで心療内科や精神科に診てもらうようになったのです。
働いている人の中には、いろんなことがあって病院に行って、一時的な薬を処方されたり、診断書を書いてもらって数日、あるいは一定期間お休みする人もいるでしょう。
学校がつらくて、スクールカウンセリングをうけたり、不登校や保健室登校をする人もいるでしょう。
彼ら彼女らと、程度の差はあれ、その直線上に、同一直線上に自分はあると考えています。きっと私も、その中のひとりだと思っているのです。だからこそ、強く言いたいのが。
障がい者アートと言ったときにはくくられないけれど、
アールブリュット、アウトサイダーアートと言ったときにはきっと
彼ら彼女らの生み出す作品や表現は、これらの世界に発信ができると思うのです。
障がい者ではない、けれど。
どくどくと体から、心からあふれだすものを、喜びでも悲しみでも、喪失感や多幸感、なんであれ
絵に、文字に、模様に、色に、動きに込めたら
それはきっと何も飾らないそのままストレートの生の芸術がそこに出てくるはずでしょう。
迷いながらでも、立ち戻りながらでも、何度でも、何度となく
そういったものに自分自身も触れさせてもらいながら
かき、つくり、あらわし、いきていこうと思います。
UNusualMuseumを終えて。
情報資格試験
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