ものと語りと語られぬもの②
情報資格試験さんによる2回目の記事をお送りします。1回目はコチラ↓
お疲れ様です、情報資格試験(じょうほうしかくしけん)です。
よろしくお願いいたします。
先述した記事は、どこかモヤっと気持ちの悪い感じになったかと思いますが
それこそ「そう表現している」ので、
どこか後味の悪い感覚になってもらえれば、私の表現は叶ったというものです。
さて、
・情報資格試験とは
・もの思う当事者
・「ものと語り」のその後に
・これからの活動
このあたりを順に記していこうと思います。
「ものと語り」のその後に
「アール・ブリュット」というものに触れ、その言葉を調べると障害者芸術というものに突きあたりました。その障害者芸術とはどういうものか? 詳しくは初心者の私よりもプロの方にお任せしたいと思いますが、
私が思うに、写実的でない、とてつもない量をとてつもなく集めている、きつい言葉を使えば異常性、異常行動からなるもの、と感じます。
というと「侮辱しているのか」と反駁と感情的になりそうですが、ちょっと待って。
事実としてはどうでしょう。その本能的な、直線的な表現にならって「ああ、こういうのがウケるのかな」と絵を描いてみるわけです。
そうすると、同じような考えを持った人が目の前を横切りました。
「私は人生の途中から障害者になって障害者アーティストとして作品を作っている。真面目に写実的な作品や高度な技法を用いて作品展に出しても落選し、あえて足で筆を持ったり粗いタッチにすると障害者展で入賞する。なんという世界」という趣旨をつぶやいていました。
この方は入選の方法、何がウケるのかについて熟知していると感じ、またそのことを実現しているとも感じました。おそらくプロの美術家で、どこか身体の障害を抱えている方なのかなと推測しています。私は、あえて障害者らしい作品を作ってエントリーしてもことごとく落選していくのですが。ただ、考え方はピタリとハマるわけです。
そこで自分の中にある異常的な、あるいは本能的で直線的なものをゴリゴリと出してみることにしました。
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人とのコミュニケーションや人間関係の構築というものは、普段何気なくなされていることであっても、私はとてもパワーを使うものだと感じる時があります。そこで感じていなくとも、後でドッと疲れた時、ああ人との関わり合いで疲労したのかと思い知らされる時があります。
生活して人と関わるそこには自覚無自覚を問わず、推し量る、建前、場を読む等があると思いますが、そういった疲れてしまうことを抜きにして、遠慮なく、直情的に作品作りに向かうことで大きなカタルシスを得られることに気付きました。正確には、気付いてはいましたが、その行為は封じられていたわけです。非常識的であるからです。
憑依されたような行為、非道徳や非教育的な行為からもたらされる表現、禁忌とされていたような表現を、その枷を外した時、感情の解き放たれる心地よさ、このまま表現してよいのだという許された感覚もあります。これらは、通常の表現の中では出来なかったことで、「障害者だから」というバイアスで見られることを逆手に成しえたとも言えます。
…アールブリュットを評価する立場にある人や、障害者の近くでその行為に意味を見出そうとする人たちが、どう判断するか、ーー舞台で震えてシナリオ通りに動けなくなった場合、普通は叱責されて干されるところ、障害者だからこう感じこう思いこのように動けないのかーーとすると納得はいくところなのではないでしょうか。これは障害者に対する優しさとはまた別の、何かを見出そうとするバイアスがあるのだと感じています。ここがプロの方がジャッジするところで、私は触れずに専門家の当事者でない方々に任せている部分ではありますが。…
具体的に例をあげるならば。殺陣において、斬られる役は、やられたら一定時間を経過したら画面から消えないと、グロい、気持ち悪い、残虐行為、ホラーという表現になります。想像してみてください、斬っても斬っても絶命せずに主人公に絡みついてくる姿を。まるでゾンビです。
せっかく主役が悪役を成敗して主役の活躍を引き立てるところ、斬られ役がいつまでも呻き散らしている様は、主役の正義を歪ませる行為にもなるわけです。
しかし、タブー視されたことをやること、抑えられていた表現を発露することで、カタルシスを得られるのです。2020年に制作した猫又の表現は、そのタブーの領域に挑戦したものになります。
猫又を倒すも相打ちで命を落とした主人公は可哀そうである。そんな美談なだけの表現では満足はいきませんでした。なぜ命を落とさねばならなかったのか、皆は主人公に責任を押し付けたのだ、という恨みや怒りの表現を泣き狂いながら行ったのは、今まで経験してきた殺陣のシーンでは表現ができませんでした。それは勧善懲悪ではないからです。主役が周りに毒を吐くのはありえないのです。しかしどこかそれは、とても人間的な行為なのだと思っています。
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「ものと語り」のその後に、写実的な絵やクロッキーを行うようになりました。100円で揃えられる画材を用いて、よく障害者芸術で取り扱われる絵の分野に挑戦しました。結果としてクロッキーの技法に至りましたが、ハナからそんな技法を知らず「見えた物の影に注視して影を描いていく」と、とらえたモノのアウトラインを出していくクロッキーのそれになっていたというものでした。
一時は面白がっていましたが、その完成された形がどれだけ整っているかというのが、そうでなければ気持ちが悪いとなり、自分の中でつまらなくなっていって、完成物でなく工程を楽しめるものへとシフトしていきました。いわゆる抽象画のジャンルを手掛けるようになり、あらゆるものに感化されながら表現をしています。
障害者芸術を評価するプロの方が何を基準に評価するのかは、そのコンペの今までの受賞作や審査員らの好み等を突き止めないといけないかと思うと、狙って受賞というのは遠い世界のように感じますが、それでも出来上がった抽象画を作品展などに挑戦させていったりもしています。
あまりこの道を進みすぎると、作っていて楽しいという所から逸れてしまうも、また巡り巡って追ってしまう所としては、
障害者は何を感じ何を示しているのか?と追求しているプロの方を、この人たちはいったいどんな基準で評価をしているのか? と見つめている障害者の情報資格試験という存在がいたりするのです。自身を俯瞰的と言われましたので、あいや、さらにその遠くからも見ているのですよ、とここで加筆しておきます。そしてそれはカルマのようにグルグルとループし続けるとも。
ちなみに、文頭に「写実的ではない」と表現したところには、インプットとアウトプットが合致しないものという意味であると補足させてください。障害者芸術の中にリアルな絵は存在しないという意味ではなく、例えば花の画を描いたときに四角を多用して描いた場合、「君には花が幾何学模様に見えたんだね」なんていう人がいますが、とんでもない。入ってきた情報と表現する情報が必ずしも合致するわけでもなく、その人を通り抜けて出てきたものに、面白みや迫力が乗るのであって、さもアウトプットされた作品を切り出して「この人の世界では花が全て角ばっている(、そうかそうか、そんなふうに世界が見える障害を抱えているのか大変だね)」なんて解釈されては困るということ、かつ、あながちそういう見方が多くみられることも、ここに記させていただきます。
第3回「これからの活動」へ続きます。