Interview / 【板垣 崇志さん】
※この記事は、厚生労働省:令和2年度障害者芸術文化活動普及支援事業、第8回東海・北陸ブロック研修会(2021年2月)の講演の内容を改編しています。
板垣 崇志さん
(しゃかいのくすり研究所・るんびにい美術館アートディレクター)
社会福祉法人の職員や、るんびにい美術館アートディレクターとして長年現場に携わってきたが、それらと並行して、昨年から「しゃかいのくすり研究所」というフリーランスの活動を立ち上げた。これまでも、知的な障害のある人の表現を社会に投げかけるような取り組みの中で、社会に対して、「命ってなんなんだろう?」という問いを生むような発信をすることをテーマに関わってきた。その中で、美術の展示や発信だけではカバーしきれないアクションがあるべきだという想いが強まり、幅広い取り組みをしたいと思いしゃかいのくすり研究所の活動で実践しようとしている。
近年、障害のある人のアートの分野はかなり大きな動きになってきた。だが、どれほど作品の社会的活躍が大きな規模になろうと、あるいは社会的、経済的な影響が大きくなろうとも、表現とは常に個人の内面からあらわれるものであり、社会資源として消費されてはならない。個人の表現および作品が、個人の内面が出発点であることを忘れたときに、消費されていく現象に陥ってしまう。障害のある人の表現という、社会に対しより明確に人間性を問いかけるアクションであるものが、場合によっては人間性を疎外するものになりかねない。個人の表現および作品を扱うことがそのようなリスクをはらんだ行為であると、われわれ周囲の人間は常に忘れないでいる必要があり、自らも常に言い聞かせている。
自らが関わってきた当事者の中には、表現を発信、共有し、社会的評価や反応へとつながることに喜びを感じる人は多くいる。だが、このような反応にはならない人も時折いる。
その例として具体的なエピソードがある。
ある当事者は「自分のイメージ通りの柄の衣服を着たい」という子どもの頃からの長年の夢を叶えるため、自ら裁縫を練習し縫製してその夢を叶えた。本人にとってはオリジナル柄の服に身を包まれることが夢であったが、実際に完成した服のそのインパクトから公募展に出品されることとなり大賞を受賞した。表彰会場のギャラリーでは、トルソーに着せられた服が鎮座し、それを目にした作者は自分の服を回収しようとトルソーから脱がせようとした。周囲の人たちは止めようと作者を説得し、展示し続けられることとなった。その日の帰りはラーメンとカツカレーを食べたという。公募展に出品することや服が展示されることは、周囲の人から作者に説明がなされていたが、自分の作ったものが社会的な文脈で周囲から「美術作品」としてとらえられ、それが公共の場に展示されるとはどういうことなのか、本人の中でイメージができていないまま進めてしまったのではないだろうか。
その後、服は大変な好評を博し、大阪の国立民族学博物館やパリでの展示、さらにはヨーロッパ各国へ巡回された。長期にわたり服が手元にないことで、作者は精神的に不安定になっていた一方で、展示を観るため作者とその家族で大阪やパリへ旅行するという体験も生まれた。家族一緒に各地へ出かけて行くことは新しい体験となり、やがて作者と家族の間の信頼や絆を深めていくという出来事ももたらしたのである。
作者にとって、服はあくまで身につけるための服であった。そして他者の文脈のうえで「作品」となったその服が、多くの人に共有されることは直接的には作者にとっての幸せや喜びにはならなかった。しかし、作品として社会的に求められることは、結果的に作者本人を含む家族にとってすばらしい変化をもたらし、かけがえのない思い出を残したのである。
この出来事を結論まで知ったうえでは、作者本人の理解が不十分なまま公募展に出品するという過程はあったものの、とても意義のあることだったと見ることもできる。
しかし、これは結果論でしかないとも言える。公募展会場で作者本人を説得し、あるいは食べ物と引き換えに納得してもらい引きとどめたのは、はたして正しかったのだろうか。いまだに葛藤は残っている。
こういった事例に類いすることはたびたび起こる問題である。われわれが作品と呼ぶものが作者にとっては作品という概念の認識すらされていない場合も多くある。社会的文脈でわれわれが作品と呼ぶものは、それを社会へつなぐことが「自明の善き行為」なわけではないという認識が大事である。個人にとって重大な意味を持つ表現されたものを、社会的な文脈のうえに位置付けるのは、良くも悪くも作品の意味を本人から引き離し、みんなで新たな意味づけをすることにつながる。つまり、個人の作品が一種の社会的共有物に近いものとなり、個人から社会に作品の「置き場所」が変更されるということだ。こういった行為は、葛藤をともないながら丁寧に進められるべきことである。葛藤をすることが非常に大切だ。
自分は美術館のディレクターという役割上、発信し伝えることが仕事である。だからこそ、あえて発信しない、伝えない、個人の秘密のままにすることの大切さもわきまえたメッセンジャーでありたいと思っている。
るんびにい美術館 https://www.kourinkai.net/museum-lumbi/
しゃかいのくすり研究所 https://www.shakaino-kusuri.com/