磨きたてティンバーランド
洋二は迷っていた。代々百年以上続いた造り酒屋を継ぐのか、ヒップホップの道に進むのかを。
ヒップホップとの出会いは、友人にライブをやるからと、チケットを無理矢理買わされ行った寂れた地元のライブハウスで初めて見たフリースタイルとかいうもの。
ズンズンダカダカ鳴っている音楽に合わせて、友人はヘイとかヨーとか叫んでいた。少ない客はほとんど棒立ちだったし、明らかに友人は言葉に詰まりまくり、発した言葉の七割はアーとかエーだったが、初めて見る世界に洋二は衝撃を受けた。そして、自分もやってみたいと強く思った。
どうせ家業を継ぐのだと、大して夢を抱かず生きてきた洋二にとって、初めて具体性を持って迫ってきた夢と呼ぶらしいそれは、出会いから四日経った今でも、相当の熱量を持って洋二の中に渦巻き、自分自身でも持て余すほどのものだった。
洋二は今年で三十二になる。
毎日、杜氏達にお茶を出して、当代の社長(お父さん)の引退を待つばかりの生活を送っていた。
一応、仕事は他にもあって、最近オンラインショップを始めた自社の在庫管理もやっていた。パソコンを扱えるのは他にもいたが、彼は名人だった。
それもそのはず、彼は理系エリートで高専を出ているのだから。C++とHTMLとJavaScriptを存分に扱い、オンラインショップのサイトレイアウトはオシャレを極め尽くしている。5G環境下であってもその表示速度は三秒を有に超えるほどだ。
彼はそれにそれなりに満足していたし、その事について、次はどうしようかと考えるのはとても楽しかった。はずだったのだが、今となっては、ヒップホップの事しか頭にない。
暇な時間を見つけては、動画サイトでフリースタイルバトルを見漁った。カッコいいビート(そう呼ぶのもそれで知った。)と言葉の応酬、客の盛り上がり、全てが素晴らしく思えた。
ついにその日がきた。
相手は百戦錬磨のスーパーヒップホッパーTAGANEだ。地元無敗のこの男は、最近じゃちょくちょく東京にも行っているらしい。
それを見せつけるように今日もTAGANEは原宿で買ったと言う、チャンピオンの白いパーカーをきめ込み、さっきも舞台袖で山手線の混みようを仲間に語っていた。
洋二はそれに戦慄した。完全車社会の地元じゃ、そんな話をしている人間は一人もいない。混んでいるとかいないとかの話が出るのは、個人経営の内科クリニックについてぐらいだ。
「ヤツのレベルは相当なもんだぞ。」
振り返ると、杜氏の山寺爺が腕組みをして立っていた。
「やっぱり…。」
「でも、ボンは負けねーよ。」
「どうして?」
「そら、私らのボンですもの。」
胸が詰まる思いがした。
幼少のみぎりから、良き遊び相手であり、人生の指南役でもあり、自分をボンと呼び孫のように可愛がってくれた杜氏の頭の山寺爺の、愛に溢れた無根拠の励ましは、萎びかけた心を奮い立たせた。
そうだ、きっと大丈夫。きっと勝てる。あの日から二週間、寝る間も惜しんでバトル動画を見漁った日々を思い出せ。
そう思い、静かに深呼吸する洋二を見て、山寺爺がポツリと「いい顔になった。」と呟き、瞳を潤ませたのに洋二は気づかなかった。
「無愛sixnein!」
洋二のMCネームが呼ばれた。
ステージへ飛び出していく洋二、いや、無愛sixnein。彼のヒップホップ人生がここから始まるのだ。
威風堂々仁王立ちで、無愛sixneinを睨みつけるTAGANEの顔は余裕に満ち満ち、口元には微かに笑みすら浮かんでいる。
完全に舐められている。だがここは弱肉強食のストリートだ。新参者の彼が舐められるのは通過儀礼のようなもの。この舐め腐った大男を、言葉の刃でズタズタに切り裂き息の根を止めさえすれば、周りの見る目は一転するだろう。
ジャンケンに勝ち有利な後攻を取ることができた無愛sixnein。だが先攻TAGANEはいきなり高速バースをかまし、無愛sixneinのペースを乱しにかかった。なんとか言葉を拾ったまではよかったが、後を繋げない。浮かんだ言葉が、喉を通る前に砕けて出てこない。ビートが鳴り響くライブハウスのステージで、スポットライトに照らされ、どうしようなく立ち尽くすしかない無愛sixnein。
手のひらに滲んだ汗に滑り落ちそうになるマイクを握り直し続けることしかできない。
ビートが遠のき耳鳴りがする。
TAGANEが吹き出し、笑い出したのがスローモーションで見える。
自分の心臓の音と息をする音がうるさい。
客も笑っているのか?
山寺爺は失望しただろうか?
なぜ出来ると思ったんだ。
どだいはじめから出来るわけがなかったんだ。自分には才能がない。何もない。だからこそ夢を抱かず生きてきたんじゃないのか?
その時だった。
無愛sixneinの体が光を纏い、形を変え、その姿は巨大な一羽のオウムに変わった。
ライブハウス中にどよめきが広がる。
オウムはゆっくりと口を開き「ヨー、メーン。」と甲高いすげーデカい声で言い放った。
TAGANEは消し飛び、もちろんDJも、客もそして山寺爺まで爆発四散した。
ライブハウスから半径50キロは瓦礫の山と化し、町も造り酒屋も失くなった。
その声の衝撃は地球を二周半しても余る程で、ブラジルにまで聞こえたと言う。
オウムがその後どこへ行ったのかは誰も知らない。一緒に吹き飛んだと言うものもあれば、何処かへ飛び去ったのだと言うものもいる。
かくして、洋二a.k.a.無愛sixneinは伝説のサグラッパーとなったのだ。