
自由と権利、それぞれの抑制と協調
「自由」というと、個人の自由とか言論の自由とか、そうでなくてもそもそも自由でありたいという願望が人にはあると思います。そして、自由というと、それはあたかも無限のものだという印象をもってしまいませんか?
一方「権利」。これはいろいろな物事が侵害されない為の防御や存在意義の言葉として使われることが多い。
ここ最近、特にロシア・ウクライナ戦争を機に、この言論の自由が脅かされています。YouTube等で発言が不適切としてバンされることがよくあります。ツイッターでイーロン・マスクが過去のアメリカ大統領選時の秘密を暴露していたりします。日本のマスメディアはどうか?もう信じられない位に日本国民を洗脳しているように感じます。これを言論の自由と言ってしまえるのかどうか…?しかし何かと偏った報道。TVはひどいですね。何か黒幕?によって制御されているようにも思えてしまうし、これもある意味何か?の同調圧力(強制圧力?)といったものかもしれません。
何を信じればいいのか…?得た情報を鵜呑みにするのは危険な社会になってしまっています。前からそうなのか…???いろいろなソーシャルメディアでいろいろなことが言われており、錯綜状態。私たちはその中から私たちが信じられるものを見つけ出さなければならなくなっています。
自由と権利と言った時には、その線引きは曖昧で、線引きできないものかもしれません。自由と権利は相反するものでもあるので、お互いが反発し合うこともあれば、お互いを喰ってしまうこともあります。
自由も権利も言い出したらキリがありません。それゆえ論争になることもよくあります。特に皆がそれにナーバスであると、これは自由だ、これは権利だとアレもコレもと許容していってしまうことになって、より深くより複雑なものになってしまう。そして分断も生まれる…自由を求めているはずが不自由に、権利と主張したいのにそれが通らなくなってしまうことも多々あるのではないでしょうか?さらに言えば、逆に生きにくい世界に…
何やってんだろう?って思ってしまいます。
自由や権利を口にするとき、あるいはよく耳にするときというのは問題ある時や場所であるということです。問題なければそう主張することもないのですから。そう思うと、発せられている言葉というのは、その時その場所の状態を反映しているといえますね。
自由と権利のどちらも大切なものだし、それぞれが際限ないものかもしれません。そういう意味では自由も権利もエゴの領域がある。私自身思うのは、実社会、上手い言葉が見つかりませんが自由は最小公倍数、権利は最大公約数的に考えていけないものなのだろうか?主張できないものだろうか?と思ってしまいます。それぞれの抑制。そして自由と権利の協調が必要なのではないかと…この「協調」という言葉は、違う他者とを繋ぐ接点、あるいは潤滑し共存させてくれるような気がします。
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