優秀さと精神性
私は学生の頃、スポーツや勉強が優秀な者は評価されても、優しさや親切さ等の精神性、正しい行いがどうして評価されないものかとよく思っていました。スポーツ等はその記録、勉強等はテストの点数など数値で表すことができますが、そういう意味では後者は数値では表せないので評価するには確かにしにくいものであるとは思います。この場合、数値の代わりに「言葉にしてたたえる」でしょうか?学生時代は特に前者の数値で評価されるものが重要視される教育を受けたような気がします。今でもそうでしょうか?ゆとり世代といわれる教育社会ではどうだったのでしょう?多少悪いことをしても、勉強が優秀だからと大目に見られたり、しかられることもあまりない人がいたような気もします。「それとこれとは別」ということが、曖昧に見逃される…
そのように教育?された者が社会に出ていく。
社会に出れば、会社内、大きく見れば国内、更にはこの世界全体という話になります。資本主義社会において、精神性はお金に直接結び付きにくいものではありますが、資本主義社会とて人間同士が関わり合うならば、回りまわってお金に結び付くものではありませんか?それどころかお金や権力を盾に服従したりさせたり、理不尽なことがまかり通る世界に。
政治家や官僚という立場の人間は、そりゃぁもう優秀な人でなければ務まらないと思います。しかし精神性はどうでしょうか?現社会や制度を思うに実は私、誰をもってということではありませんが、精神性に欠いているのではないかと感じています。精神性を欠いてしまったら、人としてその優秀さのベクトルが間違った方向に向いてしまうのではないかと思ってしまうのです。政治家や官僚が「国のため」と言った時に、漠然とした全体としての国、そしてその数値しかみていないのではないかと思うのです。それは決して「国民一人一人」ではないと…
自分の立場やポジションの為に保身とか思うのは、現社会では当然とか仕方ないと思ってしまいがちですが、それをよしとしてしまっていいものだろうか?と改めて思うことが多々あります。
国民を活かして自分も活きる社会にはできないのでしょうか?彼等は優秀なのですから。
ところでインボイス制度の動画が結構流れていますが、税金を正しく納めるというのは多くの人が理解を示せることができると思います。しかし個人事業主や零細企業が困ってしまう制度というのは問題なのではではないでしょうか?制度をつくる人は優秀なはずなのに、なぜそうなってしまうのか?ここにも精神性の問題がかかわっている気がしてなりません。
国内の様々な現行の制度は複雑すぎませんか?だから会計士等の専門職というジャンルがあると思うのですが、あえていろいろな制度を難しくしてはいないでしょうか?「方法がそれしかない」のであれば仕方ないのかもしれませんが、例えば税金も収入に%を乗じれば簡単じゃないですか?その方がわかりやすい。それを税額表でとか、年末調整も保険控除とか所得を算出する為の計算式だとか、なんか無駄なことに時間や労力を使っているようにしか思えません。経済発展と言いながら、国全体が…というよりは結局お金持ちはよりお金持ちになり、そうでない者は取りこぼされていくというような社会にますますなっていく。
勉強するといったことも、それを教える側がこ難しいことを説明して、教えられる側が結局わからずじまいよりも、簡単に説明して理解というゴールに辿り着くことの方が「優秀」ではないでしょうか?
優秀な人ほど精神性を獲得できたのなら、この国は絶対に最強で最良の国になるはずです。しかもその精神性といったジャンルこそは、この全世界の中でもっとも日本人が獲得するに近いと思うのです。
それによって善い行い、制度、政治経済に生かされ、それを阻む者が消えていったなら、国民もこの国に誇りをもって生きることができると思います。そしてこれを理想論だと片づけてはいけないと思います。
人として優秀さと精神性は両輪で、また優秀さと精神性のどちらかが優れているというのでもなく、自身にとってどちらかが欠けていたらそれを諦めず求め、またそれを補い合うような人間社会に期待したいです。
そのことが実はこれからの社会には重要で、いやこれまでも重要だったに違いありません。