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嫌。
地道にコツコツ!大嫌い。
目標に近づけば近づくほど、やる気を失っていく。
こんなに頑張っているのにまだ到達していないのか…というマインド。そして、自身の成長の先にはまだまだ途方もない未開の領域があるということがたまらなくウンザリする。無駄か。自分を高めても。
コレが仕事なら割り切れる。仕事とは苦しいもので、与えられた業務に対して否が応でもベストを尽くすことしかできないからだ。それでも遂行できないもの、よしとされないものを作ってしまった場合はその結果を甘んじて受け入れ、何が悪かったかを反省し次に生かすこと。業務はこれの繰り返しでなんとかなる場合がほとんどだ。
しかしこれを好きなことでやるとなると、自身のフリーの時間を使ってまでそんなことしたくない!と思ってしまう。なぜ自由時間にベストを尽くして邁進し、反省しなければならないのか、せっかく自由なのに…。それをやるぐらいなら、インスタントに消費できる楽しみに時間を使ったほうがマシだ、と本気で思ってしまう。思いたくなくても。そういった具合。だらしない現代人だ。
要は変化、成長というものに対して元来面倒だと感じる(というかそれが外的評価とわかりやすく繋がらないことに対する虚無)というのと、それ以外のことができない(本当はできる)という閉塞感を感じる。しかしこれは全部思い込みなんだろう。(これを書いている現在は、全く思い込みだとは思っていない。ただムカつきがある。)
しかし、一つの目的を達成してしまえば、その達成感や喜びというものを賞味期限が切れるまで消費し尽くせる。
これはなんだかんだ楽しい。
それが簡易的にできるのが、被害者意識なるものなのだと感じた。
この被害者意識は、上記の成長のための努力や苦しみがほぼ要らないのだ。というよりも、自身の身の回りに起こった不運なこと、かわいそうなことがそれの代用品になっていると言った方が正しいかもしれない。かわいそうなことを経験した結果として嫌な思いをした、辛い思いをしたけど、それを笑い飛ばすわけだ。相応にウケるし、とっても楽。んー、インスタント!
嫌な思いをすることが好きでもあるし、嫌な思いをすることは美徳であるという意識もある。さらに言うと、楽しいことより辛いこと、嫌なことを重要視している衒いがある。何が好きかよりも、何が嫌いかで自分を語るよ!俺は!
ただ、本当に辛い、苦しいということは嫌だ!という我儘は拭えないというか、脱却できるのだろうか、これは。
うわべだけの辛み、苦しみというものを堪能することで、こんなに辛いのに生活をしている。それだけで十分凄いだろう!と自己の誇示、守護、肯定、否定、etc。とにかく複雑なことをしている。多分この行為を指す動詞は日本語にはない。
楽観、悲観、冷笑、虚無など、さまざまな感情が入り混じり、心身があまり健康でない状態の場合がある。最近である。これは往々にして自身の主義主張が通らない場合に発生するいわゆる我儘、駄々の類だと思っていたのだが、そもそも自分は主義主張などという高尚なものを持ち、尚且つそれを誇示できるような実力のある人間なのだろうか。いやそもそもこの感情は自身の主義主張由来のものなのだろうか。どうにも釈然としない。今までもこの感情を言語化しようと努めてきたが、どうも的を得た言葉が出てこない。
しかし、
「どうせすぐ忘れるからいいや、ほっとこ。」
とはならないのが厄介なところだ。
以前はこの場合、散財が助けてくれた。ゲームとか服とか、トレーディングカードゲームとか、そういった即物的な欲求の解消を囮に、暗雲が過ぎ去るまで気を散らしていたものだ。しかしなにぶん今は金銭的な余裕というものが全く無い。どうしよう。最近は専ら、ものに当たってしまうことが多い。幼いね。出来るだけ大きな音がするもの、ペットボトルとか要らない皿とかをぶん投げる時間がある、1日に1回。地面に落ちたそれらを拾い集め、片付けている時間が一番自分を客観視できる気がする。人生の中で。それにしても、人に当たらなくて本当によかったと心から思う。出来るだけ早く発散法を編み出したいものだ。もちろん、出来る限り健康的な方法で。
中学生ぐらいの時、今と同じようによく物に当たり散らしていたことを思い出した。あの時は実家の自室だったため、もっとダイナミックにストレスを発散していた。椅子を投げる、電気のスイッチを壊す、部屋でバレーボールのサーブを練習したりもした。
今は中学生じゃない。
もう大人なんだからやめようよ…。
どうしたら良いかは聞くな。
思う壺だから。
誰の?
知るか。
文章が捗る。こういった時間に書く文章は、後々見返してとてもとても恥ずかしくなることが多く、この時の自分の感情が全くといって良いほど理解できないのだが、こう言う感情は歳を重ねるごとに薄れていくのか。はたまた。
少なくとも、コレを次に見るときの自分が心安らかであってほしい。そんな祈りと共に、これを2024年8月1日の日記とさせていただく。
直井幸太