見出し画像

東京歴史散歩1ー神田界隈ー

2023年4月22日(土)、神田界隈ぶらり旅の記録である。
散歩の参考にでもしていただければ幸いである。

人工河川 神田川

 今回はいつものことながら、司馬遼太郎氏の「街道をゆく36:本所深川散歩・神田界隈」を読み、ふと思い立って神田を訪れた。
 JR御茶ノ水駅に降り立ち、まず目についたのは神田川とそこに架かる聖橋(ひじりばし)。駅のホームを横断するように架かる聖橋は表面がモルタルでコーティングされ、少しのっぺりした印象を受けたものの、そのアーチは存在感があった。
 ここで少し神田界隈の地形の話をする。現在、神田界隈は西から東に向かって流れる神田川を挟んで北と南に台地が存在する。北は湯島台地で南は駿河台地である。その昔、これらは本郷から連なる一つの台地(神田台地)であった。江戸時代に、幕府は江戸城外堀工事の一環として、仙台藩に命じ、神田台地を切り裂き、その間に神田川を通した。つまりこの辺りの神田川は江戸城の防御を担う濠の一部なのである。神田界隈と江戸城は距離的に離れているものと考えていたため、その繋がりに驚いたが、地図で改めて確認すると、確かに神田川の流路は江戸城を囲うように流れている。聖橋に立って、神田川の上下流を見渡すと確かに左右に台地がせり上がり、神田川がかなり深いところを流れているのがよく分かる。また、神田川には聖橋をはじめとして、昌平橋、お茶の水橋など多くの橋が架かっており、人々や電車が行きかう。これが人工の景観であることは俄かには信じがたい。壮大なスケールで地形というものを見ていた江戸時代の土木技術者にはいつも驚かされる。
 ちなみに神田川の水源は武蔵野市の井の頭恩賜公園内の湧き水である。今では流域の開発や湧き水の減少等で水は濁っているが、昔はさぞ綺麗だったのであろう。

聖橋より東方を望む(右が駿河台、左が湯島台)

学問のまち

湯島聖堂

 神田界隈はなんといっても学問のまちという印象が強い。お茶の水駅周辺には所狭しと大学の建物が立ち並び、神保町には多くの古書店が存在する。今回はそのルーツとなった場所を訪れることが目的の一つであった。それが湯島聖堂である。
 江戸時代初期、幕府は学問に対してそれほど力を入れておらず、学びたい者は、私塾で学ぶという具合であった。それが1690年五代将軍綱吉(学問好きであった)の時に、官学(幕府が認めた学問)である儒学の振興を図るため、湯島に聖堂を創建し、林家(林羅山から続く儒学者の家系)の私塾と孔子廟をここに移した。ここにおいて、ようやく半公半私の学校が出来たのである。建物の名前としては、孔子廟を大成殿と呼び、大成殿とその付属の建物を総称して聖堂と呼ぶようになった。
 そののち、1797年十一代将軍家斉の時に、聖堂の構内に昌平坂学問所(昌平黌)が開設、完全に公立の学校となった。この昌平とは孔子が生まれた村の名前である。
 明治維新を経て、昌平坂学問所は閉校となったが、その後日本初の博物館(今の東京国立博物館)が置かれたり、東京師範学校(今の筑波大学)、東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)が置かれたりと、神田界隈の学問の中心地として栄えた。
 ちなみに湯島聖堂は1923年関東大震災において、ほぼ全ての建物を焼失したが、1935年大林組の施工により、鉄筋コンクリート造で再建されている。
 余談になるが、湯島聖堂付近を歩いていて気になったことがある。それは絵描きさんが多くいたことである。湯島聖堂構内はもちろん、昌平坂の歩道にも数人。街道をゆくにも、湯島聖堂付近で絵描きさんとお話しするシーンがあったので、この辺りには愛好会のようなものがあるのか。または、湯島聖堂を維持管理している斯文会の方々なのであろうか。詳しい方がいれば、教えて欲しい。

杏壇門と大成殿

法律学校

 神田界隈には本当に大学がたくさんある。街道をゆくでは、その中でも法律学校としてスタートした大学について触れていた。私は本書を読むまで全く知らなかったのだが、有名な以下の私立五大学は全て法律学校としての創立であるらしい。
ー中央大学、明治大学、法政大学、専修大学、日本大学ー
 国家の黎明期は法の整備が急務である。明治初期という時代はいかに早く日本の法制度を作り上げるかが第一の課題であった。そのためには西洋の法律を学び、それを日本の法律に適用する必要があった。そこで明治政府は1871年、司法省に明法寮を設置(のちに東大法学部に統合)、さらに1877年、東京大学を設立し、法学部を設置することで、法律の教育研究を進めた。
 その一方で、1876年に代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立したことで、法律家の育成(日本の法律は未完成であるにも関わらず)が急務となった。そこで司法省学校や東大法学部のOBらによって試験準備のための学校が創立された。それらが今の上記五大学なのである(神田ではないが早稲田大学も同様)。まさに日本の法律は神田で作られたといっても過言ではない。機会があれば、今度は法律学校に焦点を当てた歴史散策をしてみようと思う。

ニコライ聖堂

 湯島聖堂や昌平坂学問所跡は神田川の北側、湯島台地に存在する。その湯島聖堂の大成殿へ続く階段を登り後ろを振り返ると、当然のことながら、神田川を挟んで南側、駿河台が見える。その駿河台に目を凝らすと、ビル群に囲まれてひと際目立つドーム型の建物が見える。これがニコライ聖堂(東京復活大聖堂)である。湯島聖堂とニコライ聖堂を繋ぐ橋が「聖橋」。センスがある。
 ニコライ聖堂は日本にロシア正教を伝導した亜使徒ニコライ指導のもとで1891年に建てられたもの。大きなドームを中心に、白い壁と緑の屋根で彩られた重厚感ある建物からは、日本中に溢れかえっている、陳腐な西洋風の建物とは異なるホンモノ感が漂っていた。
 ニコライ聖堂は信徒でなくても、300円を支払えば内部を見学できる(土日限定)。聖堂内部はイースター祭の期間中であったこともあり、様々な装飾が施され、非常に神秘的な空間であった。信徒の方々もちらほらと訪れており、今も生きている建物なのだと実感した。また、ボランティア?の方によるニコライ聖堂やロシア正教の解説が非常にありがたかった。
 一通り解説を聞いた後、ベンチに腰を下ろし、聖堂内をゆっくりと眺めた。聖人やイエスの生涯を描いた絵が非常に多い。ステンドグラスにも聖人の絵が描かれている。これらはロシア正教においてイコンと呼ばれており、信仰の対象であるらしい。そこで私はふと思った。これは偶像崇拝に当たらないのかと。私は西洋の宗教について勉強中の身で、よく理解していない。それでもなんとなく、ユダヤ教やイスラム教において偶像崇拝が固く禁じられているという話は知っていた。それらの宗教と根っこで繋がっているはずのロシア正教では、偶像崇拝に対して寛容なのであろうか?インターネットで調べた限り、「イコンの前で祈るのは、描かれているイエスや聖人を敬っているのであって、イコンそのものを神として拝んでいるわけではないため、イコンは偶像ではない」ということらしい。これだけ聞いてもなかなか納得できなかった。ではなぜ立体的な像は、イコンと同じような考え方で、偶像ではないと言えないのか。
 ニコライ聖堂を去ったあと、ある思いが強くなった。それはユダヤ教、イスラム教、キリスト教を体系的に学ばなければならないという思いである。私は日本人で、かつ仏教や神道に接しながら生きてきたため、これらの宗教について学ぶことを少し敬遠してきた。どうせ理解できないだろうと。しかし、様々な本を読む中で、これらの宗教に対する理解が深まれば、世界の見え方が変わるだろうという考えも大きくなった。一朝一夕で学べるようなものではないが、人生の宿題の一つとして気長に学んでいきたいと思う。

ニコライ聖堂


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?