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今更聞けない、日本を変えた日本海海戦の真実

日本海海戦                              日本の未来を決する重要な戦にもかかわらず、存在すら知らない日本人の多いこと。

ということでこの記事では日本海海戦がどのような状況下でどうような理由で展開されていったか詳しく書いていきます。

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1904年にロシアと日本との間で日露戦争が勃発しました。                       初戦で日本は連戦連勝し、1905年3月に奉天で日本は勝利をおさめます。(奉天開戦)しかし、ロシアの皇帝、ニコライ2世は敗北を認めずバルチック艦隊の派遣を決定しました。                         

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バルチック艦隊の最終地点はウラジオストクで、ウラジオストクについてしまえば日本の敗北は確実でした。(日本の海上支援が脅かされるため)           

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しかし、これがニコライ2世にとって最後の頼みの綱。            これが破れたらニコライ2世は敗北を認めるだろうと、日本は全国力をかけてバルチック艦隊に臨みます。

さて、バルチック艦隊の司令長官になったのはロジェストヴェンスキーという男でした。                              彼はウラジオストクに移動するため1904年10月21日にバルチック海(現在のバルト海)を出ました。

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その航海途中、イギリスの漁船に出会いましたがとても急いでいたので漁船を襲いましたが、その救助もせずに立ち去ったのでイギリスから非難が殺到し、これ以上バルチック海から船が出向できなくなりました。(ドッガーバング事件)                                 この艦隊が本当の最後の頼みの綱なのでニコライ2世の心情はさぞや心配しかなかったでしょう。最も感情的には日本に負ける訳がない、と豪語していましたが。

しかし、もう出てしまった艦隊はしょうがない。死力を尽くして戦うしかないのですが、問題はバルッチック艦隊はどこの海峡を通るか。                

対馬海峡                           

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津軽海峡

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宗谷海峡

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の3つが挙げられます。

日本はバルッチック艦隊が対馬に向かっている、という情報をもらいましたので対馬近くで待ち伏せします。                       しかし、「バシー海峡を通過した」という情報を最後に情報が来なくなりました。                                     

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普通なら10月23日になれば対馬海峡に現れますが、全くいない。                  ということは他の海峡に行った可能性が出てきます。                   そこで日本海軍は26日になっても現れなかったら北上すると決定します。                   26日にバルッチック艦隊が石炭運搬船を切り離したという情報が入ります。

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ということはバルッチック艦隊は対馬海峡を通る。(もしほかの海峡を通るとしたら、ここでは切り離さずもっと遠い場所で切り離すはずです。ここで切り離せば燃料が足りなくなるからです)                       しかし、嘘情報という可能性も捨てきれず実際に確認してみたら・・・

27日の夜に信濃丸がバルッチック艦隊の明かりを発見し「敵艦見ゆ」と送ります。

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なんで灯りなんかともしているんだ?と思われた方もいますがバルッチック艦隊の1隻だけ規則に従わず灯りをともしていました。                危なかった・・・・                         もしここでともしていなかったら、日本艦隊は北上していたでしょう。               この情報により日本艦隊は対馬でバルッチック艦隊を待ち受けます。

ここから戦いの詳細について解説していきたいところですが、次の記事に移ります。  

この記事の引用元:世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった(作者     神野正史)                                      発行:ベレ出版                                        http://sekaisi.com/          


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