船が陸を行く?コンスタンティノープル攻防戦
オスマン帝国 吹けば飛ぶような、小さな小さな国だったが、たった100年でバルカン半島を統一し、あの1200年も続く大国東ローマ帝国を陥落させた国。 人類史に計り知れない影響を与えた国でしたが、この記事ではどのような方法で東ローマ帝国を陥落させたのか書いていきたいと思います。 それではどうぞ。
1402年、チムール帝国という国が中東を大体制圧し広大な国土を持っていました。 連戦連勝、向かうところ敵なし。 そんな国に立ちふさがったのは、同じ連戦連勝のオスマン帝国。 チムール帝国はそのオスマン帝国を目障りだと思っていましたので、 初代チムールがオスマン帝国に服従を誓う手紙を渡します。
「汝、余の命令に従うべし。さもなくば、余の呪いに打ち震えることならん」
これに対し、オスマン帝国が出した答えは・・・
「汝、チムールと名乗る狂犬よ。余、汝の書,しかと読みたり。余、呪われたるものならん」
つまり、かかってこい。 オスマン帝国とチムール帝国が会戦します(アンカラの戦)。
結果は、オスマン帝国の敗北、チムール帝国の勝利。 これにより、オスマン帝国はバラバラ状態になりましたが、それを名君、 メフメト1世が見事立て直します。 そして、何とか力をつけ東ローマ帝国を陥落させようとします。
さあ、1453年4月にコンスタンティノープル攻防戦が開始しました。 まずは、コンスタンティノープルの図を見てみましょう。
東・・・ボスファラス海峡に面していて、壁で守っている 北・・・金角湾に鎖で封鎖している 南・・・マルマラ海に面していて、これも壁で守っている 西・・・テオドオシウスの壁で守っている
テオドオシウスの壁・・・10mの塔と20mの塔の2重の守り
というまさに大要塞でした。 あまりにも桁違いな強固な守りで固められていました。 そういうわけで、オスマン側も本気で攻撃しました。
戦力
オスマン帝国 80,000-200,000人
東ローマ帝国 7,000人
しかし、こちらも負けてられない。 金角湾以外の海に120隻もの船を編成し、さらに東ローマ帝国が誇るテオドオシウスの壁にウルバン巨砲で攻撃します。
さあ、開戦が勃発しました。 オスマン帝国は行動するや早く、ウルバン巨砲でテオドオシウスの壁を攻撃します。
しかし、命中精度が低く、1発打つのに時間がかかるため、例え合わせて穴をあけても東ローマ帝国が夜に建設するだけです。 陸がだめなら海なら。
とはいいつつも、オスマン側も簡単に船を仕上げたため、金角湾を突破できるほどの海運力を持っていない。 じゃあ、どうすれば陥落できるか。
しかし、周りから支援をよこさないようにガチガチに包囲しています。 補給が無くなれば、城内は飢餓が襲い、見ているだけで自滅してくれます。 東ローマ帝国、ジリ貧か!
ところが、急遽報が入ります。 東ローマ帝国の補給船(3隻)と思われる船はこちらに近づいてきます。 たった3隻で?!何を考えているんだ。こっちは150隻以上の大艦隊だぞ。 なんと、その3隻はオスマン帝国の船をするりするりと、金角湾に入ってしまいました。 これじゃあ、いくら包囲しても意味がないじゃないか。
困り果てたメフメト2世はある方法を思いつきます。
それがあの有名な、木に油を塗ってそこを戦艦が渡り金角湾に入場する作戦です。 それを行動するにあたって側近は渋ります。
側近「船が山を渡るなんて聞いたことがないです。前例にありません。この作戦は失敗します」
メフメト2世「出来るかできないかの問題じゃない、するんだ。さあ行動しろ」
の一蹴により、作戦の実行に入ります。 夜に綿密に慎重に敵に気付かれないように、油を塗った木に船を置き渡らせる。
結果、見事に大成功。 前例がないなど、失敗するだの側近が騒いでいた作戦は見事に功を奏します。 これで金角湾に入場します。 驚いたのが、東ローマ帝国。 船が山を渡るなど、聞いたことがないため、「なぜ、オスマンの艦隊がいるのか!」とパニック状態になりました。
メフメト2世はこれを材料に以下の内容で和平交渉に入ります。 1、コンスタンティノス11世は降伏し、オスマンの開城を許す 2、モレアス専制公領をメフメト2世に渡す 3、以下の条件を呑むならば、コンスタンティノス11世の命を保証する
命を助けてくれるものの全面降伏に等しいため、コンスタンティノス11世はこれを破棄します。 和平交渉失敗、オスマン帝国による金角湾からの総攻撃が始まります。
5月28日の夜、東ローマ帝国(防衛側)も最後を予想していたか、東ローマ帝国の軍やら大臣やら主要な人々が集まっていました。 コンスタンティノス11世の最後の演説が終わると、そこにいた人たちは皆「キリスト教のために死ぬのだ」と泣いていた。
コンスタンティノス11世「余のみじめにより、このような思いをさせてすまない。だが余は最後まであなたのために尽くそう」
臣民「陛下・・・・・」
みたいな謝罪の言葉をその場にいた国民に言いました。 その場で泣かなかった者はいなかったという。 最後の礼拝と聖体礼儀が終わり、死を覚悟します。
「総攻撃ーーーーー」 の掛け声とともに、5月29日にオスマンが場内に侵入します。 貧弱な東ローマ帝国軍人はなすすべもなく、敗退します。 「聖ロマノス門が突破させました」 この報を聞くや、コンスタンティノス11世は 「おお、神よ!帝国を失う朕を許したまうな。朕、都とともにせん」 と言い、殺到してきたオスマン兵と交戦します。 所詮、1人。 ぼこぼこやられ、コンスタンティノス11世は皇帝とも気づかれないまま生涯を閉じました。
これにより、1200年と異常に長い政権を保った東ローマ帝国(通称ビザンツ帝国)は彼の死とともに幕を閉じました。
東ローマ帝国の象徴的だった聖ソフィア大聖堂はオスマンに改造され、以後、オスマンの首都の中心となります。ここから、オスマンの繁栄が開始します。
このように、新しい時代を切り開く人は従来の法則に従わず、新しい方法で挑んだ人たちがほとんどです。 皆さんも何か失敗したら今までの方法ではなく、新しい方法で行動してはいかがですか? この記事が皆さんの役に立てれば嬉しい限りです。
参考文献:世界史劇場 イスラーム三國志(作者 神野正史) 発行:ベレ出版 http://sekaisi.com/
参考資料:コンスタンティノープルの陥落(Wikipedia)
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