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指導者がアホすぎて負けた インド大反乱

世界史で世界覇権国になったイギリス                  

そんな歴史のキーパーソンだったイギリスですが、そもそもイギリスが 「ブリタニカ」と呼ばれるほど、繁栄した理由はインドがいたからです

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インドは人口が高く、またタバコや胡椒など資源が豊富で、豊かな国です   そのインドから収奪をしていたので、大繁栄しました

イギリスがインドを植民地にしたきっかきとなった、インド大反乱について書いていきたい思います

最後まで見てくれると嬉しいです

1850年くらいのインド

まずインド大反乱がおこった後はインド全土は全てイギリス領になっていたのですが、その前は勢力がごちゃごちゃしててました

意味わからなくて理解するのに結構時間がかかりましたが、とりあえずこれが勢力地図と思ってください

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ぐちゃぐちゃですが、国は一応存在しているんです                 しかし、この青い丸い部分の中はイギリスが併合した土地となっています              とりあえず、この青い部分がイギリスが植民地とした土地と覚えてください

ちなみに、この勢力地図は1853年の物です

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そして、1854年、ムガール帝国のメラートという場所で事件が    起こります

それは、新式の銃の弾を包む紙に牛の油が使われたことが原因でした

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インド兵「おい、新式の銃の弾をくるむ紙に牛の油が使われるそうだ」

弾が包まれた紙を口でほどき、中から弾を取り出しますが、それだと牛の油を口にすることになります                            牛を神聖なものとしているヒンドゥー教の信者たちはヒンドゥー教を馬鹿にしているとして激怒しました

インド兵2「よし、長年こき使われた恨みだ、これを機に反乱を起こそうじゃないか!」

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インド兵が起こった直接的な原因は新式の紙にありましたが、それは建前で長年こき使われた不満が爆発したからでしょう                       なので、紙の油を牛油以外使っていようと、いつかは反乱が起こりました

これに対して、イギリスの第三ベンガル軽騎兵連隊長ジョージ・スミス中佐が誤解を訂正しました

中佐「この紙に獣油は使用されていない、それでも口でかみ切るのが嫌なら手で切ればいい!」

が、しかし、インド兵はこの答えに満足がいかず90名中85名が銃の受け取りを拒否しました

これにより、85名は軍法会議により重罪が課せられました       この扱いにインド兵たちは激怒

インド兵全体「85名は悪くない。仲間を救い出すのだ!」

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こうして起きたのがインド大反乱です

余裕に勝ててた

こうして、1857年5月10日メラート(今のニューデリー)を中心にインド大反乱が起こりました

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イギリスの武器は新式でありインド兵たちに勝ち目が無いように見えますが、全然違います                           当時のインド総人口は1億5000万                    それに対し、イギリスの総人口はたかだか600万人

そのうち、軍人を抜き取るとたかだか80万人以下                       単純に戦力で換算するとインド戦力の1%にも入りません

まさしく、大軍で押し寄せる像に小銃で戦うようなもの                イギリスなどインドの敵ではありません

インド人が一丸となって戦っていれば、反乱は成功していました              そう、一丸となっていれば                                  一丸となるには強い精神的な支柱が必要でした                 それはムガール帝国の皇帝「バハトゥール=シャー」です

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が、この人は自分の保身しか考えられない男で頼りない         なので反乱軍は皇太子のヒズル=スルターン、アブー=バグルの二人に指揮官をさせましたが、この人達も皇帝と同様腰抜けでした

もし、この皇族たちが優れた指揮者だったら                        野心があったら、度胸があったら                                

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これがインド大反乱勢力範囲です 

ラクシュミー=バーイーという人

ちなみに、ジャンシー藩王国にはラクシュミー=バーイーという王妃がいましたが、この人はさっきのムガール帝国の男たちと違い勇猛果敢でした

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彼女はインド大反乱が起こると、すぐさまインド兵たちと協力し先頭の最前線に立ちジャーシー場を奪還

この勇猛果敢戦いぶりに「インドのジャンヌダルク」と呼ばれます  

このうわさを聞き付けたイギリス兵は大軍を率いジャーシー城を攻撃            彼女は徹底抗戦し、イギリスは苦戦しました

そして、最後に城の門が開けられると、自ら銃を持ちイギリス兵の中に突進します

ここで、人知れず彼女は死にました

勝てたのに敗北

バーイーと違いムガール帝国の皇族たちは腰抜けなので、インドは上手くまとまりませんでした

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ちなみに、この時のイギリスの捕虜の扱いとして、インド兵を大砲の前に立たたせ、大砲を飛ばして殺すという残虐っぷりを発揮しました                  そして、最大激戦地であるデリーでは夜に皇族たちが自ら敵陣の中に行き降伏しました

これにより、士気が下がり、遂にデリーは陥落                    その後の成り行きとしては東インド会社は解散し、インドはイギリスの直接統治となりました

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まとめ

見返してみると、少しわかりにくい文章になりましたが、どうでしたか?

どんなに、戦力が相手の何倍もあろうと指導者が使いこなせれば、意味がないのです

最後に、関係ないですがフォロワー200人いきたいので、フォローよろしくお願いします                                     必ず、フォロー返ししますから

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使った資料 

・世界史劇場 浸蝕されるイスラーム世界

・Wiki  ラクシュミ=バーイー

            

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