【昨日の授業】主体的で対話的な深い学び
土曜日は毎週国語&継承語としての日本語の高校生年代対面授業。
昼休みをはさんだ90分×2コマで、もう一人の先生とクラスを交替してもつ。
(私の事前準備は90分分で済み、2回転する)
授業の前に今日の目標設定
今週のテーマは「話す」活動。
でも、その前に漫然と話すのではなく、目標を設けてもらった。
このコマを秋に引き受けてから何度か話す活動はしていて、例えばメモの取り方、例えば意見の言い方表現などの取りだしもしている。
人の話しを聞いたり、自分の意見を言うのは、いいことだけど、何となくしているだけには力には結びつかない。
例えば、メモをしっかり取る、「えーっと」「あの」といった口癖に気をつける、ですます体で話す、聞き方(相手の意見を受け止める)というような目標を設定してもらったのだ。
「文を最後までいうようにする」「ドイツ語を混ぜない」「いつもより話す」など、各自が自分の苦手なところを意識して、取り組むことになった。
発言苦手な人にもチャンス増える小グループでのディスカッション
午前クラスの1つ目のテーマは、卒業を控えている3年生からリクエストのあった「卒業後、どうやって日本語の勉強を続けていくか」というテーマで、お悩み別に小グループで話し合った提案を発表してもらった。
お悩みには、漢字、敬語、考えを話す、語彙などがあったけど、最終的にどれにも共通するのは、目標を設けて、インプット(読書、動画、ニュース、アニメ、ドリルやアプリ・・・)、アウトプット(人と話す、日記、接客業アルバイト)。
2つ目のテーマは「この学習会はどのような形がよいのか」。
実際には卒業目前だけど、3年の学びから、どんなところがよかったのか、要改善なのかというようなことを話してもらった。
私の授業材料がたくさん集まった!
最後のテーマは簡単に、再来週の予定の書道でなんの字を書くか。
みなで同じでもいいし、テーマを決めて選んでもいいし、ということで、
①自分を四字熟語で表すと
②この会での3年間を一文字で表すと
③みんなへのメッセージを文(歌詞の一部や、和歌、ことわざなど)で
の3つが決まった。
中学生までの「習字」じゃなくて、高校での書道は芸術なので、味のある字ならむしろおいしい!
せっかくの文化的な活動なので、楽しめるといいと思う。
話し合うなら、バリエーションあるメンバーのが面白い
午後クラスは比較的大人しめの女子が多い。
意見をいう人と言わない人がグループになると、発言者が偏るという弊害がある。
(だから目標設定をして、多く話せ、少なく話せという練習をしたこともある)
でも、みんな譲り合うタイプだと和気あいあいで、やさしくやわらか~く盛り上がるのはいいんだけど、見ていて盛り上がるに欠ける気がしないでもない。
例えばいうなら、あんこを炊くときの塩の存在!?
勇者チームがみんな、俺が俺がタイプで、がんがん前衛で攻めたいタイプばかりだったら、マンガ(でも映画でもアニメでも、小説でも)がつまらないと思う。
そこに後衛やヒーラーがいたり、エルフやドワーフがいたりというので、面白みが増す。
ディスカッションも色々なタイプがいると、意見に幅が出て面白くなる。
男子と女子や、学年やタイプが混ざっている2クラスの方が、面白いと思うものの、今のクラスは午後は女子クラスなんだよねー。
現在男子は全員3年生で、みんな卒業してしまうけど、4月からまた男の子が増えるので、楽しみです。
やはりバランスはいい方がやりやすい。
午後の話し合いのメインは「学習会の理想形」。
将来に役立つ日本語や、日本文化を楽しく学びたいというので、一致した。
そこに私が高校生年代は、自主的に活動すべきだと思うこと、思考力を鍛えるときだと思うことを付け加えた。
春からまた新しいメンバーを迎え、違う形に発展していくのが楽しみだ。
文科省の掲げる「アクティブラーニング」
2018年から始まった文科省の新しい学習指導要領「主体的、対話的で深い学び」は、日本が国際社会で生き残れるかをかけた施策だと思う。
補習校の中学生で日本に留学していた子が
「日本語で授業を『受ける』っていう意味がよく分かった」
と言っていたけど、日本で授業とはそもそも「授けられる」もの。
上の者から下の者に賜うもの!
だから、下の者が疑問を呈したり、文句を言ってはいけないものとして、長らくやってきた。
まあ、フェアにしておくと、ドイツ語の「Unterricht」は、下の者(Unter)に正しいを方向を示す(richten)という感じがする。
古今東西もちろん知識を持っている者が、持っていない者に授けるのが教育なのだろう。
ただ、上から降りてくるものが全て正しいとは限らない。
ドイツの戦後教育は、第二次大戦のナチズムの反省から「例え最後の一人になっても、Neinといえる人を育てよう」を目標に掲げたというのを聞いたことがある。
元々子どもを子ども扱いしない習慣(日本のように親の付属物ではない)を土台に、またドイツ的厳しさを相当緩め、あらゆる人権に配慮して発展していった学校の授業は・・・
日本人が見たら、学級崩壊寸前?!というくらいうるさい。
でも、先生だからといって誰もがリスペクトされていた昔の日本や、先生だからという理由で誰もが表面上だけ敬わられ、あとはなんとなく煙たがられている今の日本と比べて、いい先生はリスペクトされるし、ダメな先生はバカにされるしと、とっても分かりやすい状態になっていると思う。
ドイツの学校では自主性はあって当たり前。
先生が何かしろと指示しても、「なんで?」と口答えする生徒もいる。
だから先生自身、生徒が納得するように理由を述べて話さないとならない。
これが、人と話す→対話ということではないか。
一方通行の授業でも、人と「対」しているというのは詭弁だろう。
先生がいて、生徒がいるなら、双方向にやり取りが生まれるべきだ。
それは「Aさん、この問に答えて」「3です」というやり取りではない。
そして、もちろん生徒同士も対話すべき。
自主的、対話的が通常になれば、学びは自ずと深くなる。
なんで、こういう語尾変化をするんだろう、なんで比例のグラフは真っすぐになるんだろう、なんで水に浮かぶものと浮かばないものがあるんだろう、という気付きと学びが常に身近にある。
上官の命令に従って、復路の燃料を積まない飛行機に乗って敵方に突っ込む戦闘員を作りたいなら、旧来通りの授業でいい。
国際社会で、他の国の人と話し、協力したり交渉したりすることのできる人物を作りたいなら、相当注力してやってかないと、お題目を掲げるだけでは到達できない。
方向は正しいと思う!
文科省、そして先生たち、がんばれ~!!
当時まだ補習校で教えていた私に、このモットーは響いた!
それ以来、どうしたら主体的、対話的になるか、というのを国語でも、日本語でも模索しているように思う。
今のところ、なるべく口を挟まないファシリテーターが理想形。
日々邁進しています!