芥川竜之介『鼻』と整形と儒教精神、そして日本語
芥川竜之介『鼻』
芥川龍之介の『鼻』は中学高校の教科書にも掲載されているようで、その話よく知られている。念の為にその概略を記す
禅智内供(ぜんちないぐ)というお坊さんの鼻は、長さ五六寸もあって顎(あご)の下まで下がっている。内供は表面上はこの鼻を気にしていない振りをしていたが、内心は深く苦に病んでいた。
ある医者の薦めにしたがって、その鼻を熱湯で茹でて弟子に履ませ、また茹でて、という治療法を施した所、象のような鼻がすっかり短くなって鍵鼻となった。内供は鏡で短くなった鼻を見て、これで誰も鼻を哂(わら)うものはいないに違いないと安堵した。
ところが内供の安堵に反して、すれ違う人々は皆、以前にも増してくすくすと哂(わら)うので、内供は日ごとに機嫌が悪くなった。そうこうしているうちに、ある朝、内供が目覚めると鼻が元通りに長くなっていた。
内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく反ってくるのを感じた。ーーーこうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁(ささや)いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。(芥川龍之介『鼻』より)
長い鼻ゆえに人に笑われていると思っていた内供が、鼻が短くなったことで一旦は晴れ晴れとするのであるが、反って人々の笑いが増すように感じて機嫌が悪くなる。
ある朝、鼻が元通りになったのを見て、再び晴れ晴れとした感覚を抱くのである。まことに複雑な人間感情である。
異常なまでの整形天国と儒教精神
今や異常なまでの整形天国として世界中に認知されている韓国だが、その韓国へ整形旅行に出掛ける日本人も結構いるようだ。整形旅行を案内するブログも多数ある。やれやれ。
他国のことをとやかくいう積もりはないのだが、それにしても親が子供に整形を勧める事が普通に行われている民情というのは、私には理解できない。
そもそも韓国は、李氏朝鮮が朱子学を国教として以来、儒教の国と云われてきたのではなかったのか。ずらりと並んだ韓国整形美人グループを眺めると、ほとんど見分けが付かないのは私ばかりであろうか。
儒教の経典『孝経』には、有名な一節がある。
身体髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり
(人の身体は髪の毛や皮膚に至るまですべて父母から恵まれたものであり、傷つけないようにするのが孝行の始めである。)『孝経』
持って生まれた己の身体容貌に劣等感を抱くあまり整形手術に走るという気持ちは、百歩譲って分からぬこともない(としておこう)。
しかし「あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」という『孝経』の訓えはきれいさっぱり捨て去って、儒教の国といわれてきた韓国で、親が子供に整形手術を勧めるというのは、もう世も末だといわざるを得ない。
自分たちが産んだ吾が子の容貌では就職に差し支えるとして子供に整形を勧めるとは、そこまで見栄を張らねばならぬとは、いやはやこれ以上の言葉はない。韓国の国魂の神もさぞやお困りであろう。肉体形成の根源神たる素戔嗚大神に申し訳ないこと甚だしい。
李氏朝鮮よりは高句麗のイクサ人を
事々に日本の文物の由来は自国にありといいたがる韓国は、中国に発した儒教を取り入れて国教となし、「東方礼儀の国」と云われるようになった。物知らぬ韓国人は「東方礼儀の国」を自国の尊称と思っているようだが、それは勘違いである。
「東方礼儀の国」とは宗主国中国が李氏朝鮮に対して、お前たちはわが大中国の云うことをよく聞くとても行儀のよい子だとして頭を撫でてもらっている表現にほか成らない。
そもそも「朝鮮」という国号が、李氏朝鮮を建国した李成桂が、明の太祖の朱元璋に伺いを立てて付けてもらったものである。自国の国号を他国の皇帝に付けてもらって喜ぶという例は、世界史上この一例にとどまる。以後、李氏朝鮮は大中国(グレート・チャイナ)にすり寄ることで政権を維持してきた。今もまんざら変わる所は無い。
韓国の民が、国魂の神の御心に沿う生き方ができるようになる為には、李氏朝鮮などは通り越して、更に昔、高句麗に思いをいたすほかなかろうと思う。
中国などは物ともせず、北方に覇を唱えた高句麗のイクサ人たちが大挙して今の韓国に生まれ出でたならば、韓国という国も少しはぴりりとして骨のある姿を現せるかも知れない。
韓国人が国魂の神の御心に沿う生き方ができるようにと、祈るほかない。
大道廃れて仁義あり
儒教は中国に発し、朝鮮半島を経由して日本へ持ち込まれた。中国も朝鮮も、自分たちが教えてやったのだばかりに胸を張る。
では今の中国人韓国人の儒教精神・倫理意識が、日本人にとって兄として敬うに足るものであろうか。
まさか今の中国人韓国人の倫理意識を学びたいと思う日本人はいるわけはなかろうと思う。
中国の聖者・老子がそれを喝破して述べている。
「大道廃れて仁義あり」(老子第十八章)
儒教が生まれ、それをひたすら学んで来たというのは、民族の意識レベルが高かったからではない。大道が廃れて民心が乱れ、そのまま捨て置いては混乱が生じて仕方がないから儒教の教えを借りて引き締める必要があったに過ぎない。キリスト教も、イスラム教も同様である。
西洋の日本研究者が、日本人の倫理意識を形成したのは外来の二大要素、儒教と仏教であると説くのは、「大道廃れて仁義あり」を知らぬ大きな誤解である。というよりも、日本語「アップダウン構造」を知らなかったがゆえに生じた誤解である。いつまでもこういう誤解を野放しにしておいてはいけない。
日本人には、キリスト教もイスラム教もそして儒教も本来は必要がなかったと言ってよい。そのまま捨て置いても民心が乱れないのが日本人である。
それは何よりも日本語を使い続けたおかげである。<strong>
日本語の中に神が内蔵されているが故に、ことさら外に宗教や儒教の教えとして定立しなくとも、日本人が日本語を使い続ける限り、日本語に内蔵されている神の光が無意識のうちに日本人の心に流れてくる。
大道は廃れずに日本語の中に輝き続けてきたのである。
他国では、そのまま捨て置いては民心が乱れるから、宗教・儒教が生まれた。
日本では、そのまま捨て置いても民心が乱れないのは、日本語アップダウン構造のおかげである。
これが震災の時に日本人の秩序ある姿の根本原因である。
日本語が、日本人の無意識の「宗教・倫理規範」の働きをするのである。
『鼻』と整形、儒教精神の話が、日本語アップダウン構造の話にまで展開した。
隣国のあり方を見るに付け、神を内蔵する日本語を使わせて戴けるという日本人の有り難さに想いを深く致すべきであろう。
▼ 『日本語は神である・日本精神と日本文化のアップダウン構造』