自己紹介(幼少期〜日本語教師を目指すまで)
こんにちは。Yuinaです。
今回の記事では、私の幼少期〜現在までの記録をかなーり抜粋してご紹介します。
自己満足な文章になってしまいましたが、この記事をきっかけに少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです:)
日本語教師を目指すきっかけに興味のある方は、幼少期〜高校時代部活編まではすっ飛ばして読んでいただいて大丈夫です!笑
高校時代進路決定編から私の人生の方向性がガラッと変わっていいきます。
それでは最後までお付き合いください!どうぞっ!
幼少期〜中学時代
私が生まれ育った場所は、ど田舎です(笑)
田畑に囲まれ、海まで徒歩20秒、森で秘密基地とターザンを作るのが放課後の過ごし方という、、、まさに野生児ですね。
幼稚園〜中学まで同級生は40人程しかおらず、1年生から6年生まで全員の名前と顔がわかりますっといったようなファミリー感満載の学校でした(笑)
両親は中学の体育教師。(ちなみにおばやおじ、祖父も教員というまさに教員一家!)
幼少期からバレエ・新体操・水泳・公文・習字・ピアノ・テニスと教育熱心な家庭でした。
ただどれもそこまでハマることもなく・・・(両親ごめんなさい笑)
唯一ハマったものとしては”公文”。
自分の学年よりも2~3学年程高いレベルの内容に入ると表彰される公文式。
表彰されたいがために、勉強には熱心でした!
1週間でプリント400枚を意地で解くことも。今思うとなかなかの根性ですね。
そして勉強に精を出した結果、高校は進学校に合格!
そこから私の人生は変わっていきます。
高校時代 部活編
進学した高校は新体操の団体競技で全国大会に出場する強豪校。
4歳から始めた新体操ですが、私はお遊戯程度のレベルだったので、マネージャーとして入部するつもりでした。
しかしひょんな事から、メンバーとして入部することに。
これがまぁ大変でした。
始発で朝練、早弁してお昼休みはまるまる昼練、夜練も大会前は夜中12時を回ることも何度もありました。(夜中の3時まで練習した時はもう意識は朦朧です)
そんなこんなで勉強どころではなく、授業の8割ほどは寝ていました。(先生ごめんなさい笑)
教科担当の先生からは同情され、「寝てていいよ」とまさかの発言も(笑)
高校時代 進路決定編
高校では部活に命を注いでいたため、進路のことなど1ミリも頭にありませんでした。
ただ、それでも避けては通れない進路決定時期。
両親も体育大出身だし、なんとなく体育大学に入ろうと安易に考えていました。
しかし、、、私が実際に入学したのは「外国語大学」。
なぜ急に?と思いますよね。
きっかけとなったのは、年末、長野合宿へ向かうバスの窓から見た光景。
長い長いトンネルを抜け、長野県に入った瞬間、
トンネルに入る前の景色とは全く違う、一面の雪景色が視界に飛び込んできました。
「こんなに一瞬にして目の前の世界が変わることがあるんだ。」
「外の世界に行けば、もっともっと私の知らない世界がたくさん広がっているんじゃないか。」
「その景色を見てみたい。」
こんな感情がぐるぐるぐるぐると頭の中を離れませんでした。
そこから海外留学を考え始め、英語を学ぼう!と決意しました。(この時すでに高2)
大学時代 1年生編
はい、高2の時点で英語の成績・・・なんと10段階中2という赤点ギリギリの大問題児(笑)
そこから必死に勉強です。
確か最後には8くらいまで上げたような上げなかったような・・・。(私の妄想かもしれません笑)
無事に大学に合格し、英語教員を養成する英語教育学科に進学。
こちらも入ってびっくり、まぁ大変でした笑
全ての授業が英語で行われ、毎日2つは重めの課題が出されていました。
毎日夜10時まで学校にこもり、泣きながら課題に向き合いました。
私の学科は海外研修プログラムを持っており、1年の夏にボストン1ヶ月留学・1年の冬にオーストラリア2ヶ月留学に行かせてもらいました。
教員を養成する学科だったこともあり、2ヶ月のオーストラリア留学のうち1ヶ月は、現地校で”日本語を英語で指導する”という貴重な経験をさせていただきました。
私の初めての”日本語教師”経験です。
留学の経験はまた別の機会に詳しく詳細しますね。
それではいよいよワーホリ時代です。
大学時代 ワーホリ編
3年生を修了後、1年間休学してニュージーランドでワーキングホリデーを実施することを決意。
有料エージェントは使用せず、全て自分で計画や手配を行いました。
WWOOFという機関を使用して、1年間でニュージーランドを1周しました。
こちらも詳しくはまた別の機会に、体験記を記していきます。
このニュージーでの生活が、私が日本語教師を目指すきっかけとなりました。
理由は大きく2つ
①言語の障害がある中でも優しさや温かさをくれた現地の人へ恩返しがしたいから。
ただ、優しさをくれた人へ直接的に恩返しをすること、短期間の出会いだとなかなか難しいですよね。
だからこそ、私は”恩送り”をしようと決めました。
いただいた恩を別の方に送ることで、優しさがどんどん繋がっていくのではないかと思います。
日本に「期待・ワクワク・不安」を抱えてやって来る留学生をサポートしたい。そう思いました。
②日本の文化・日本語を教えるのが単純に楽しかったから!
ニュージーランドでは数え切れないくらい多くの新しい出会いがありました。
そしてその中には、日本に興味のある方がたくさんいました。
そんな方達に、オススメの旅先・食べ物・体験/経験すべき日本文化・簡単な日本語を伝えてました。
それがとっても楽しくって、私自身、日本のことがとても好きなんだぁと毎回実感してました(笑)
と同時に、私はまだまだ日本のことをよく知らない、外の世界を知ることも大切だが、自国のことをもっと学びたい、そう思いました。
①言語の障害がある中でも優しさや温かさをくれた現地の人へ恩返しがしたいから。
②日本の文化・日本語を教えるのが単純に楽しかったから!
以上2点が私が日本語教師を目指したきっかけでした。
さて、中高の教員免許を取得+英語教育学科を卒業し、私がついた職とは・・・?
会社員時代
英語教師でもなく、日本語教師でもなく、、、会社員でした。
最終的な人生の目標は「対学生」だったものの、このまま卒業して学生相手に何を伝えられるか・・・社会という荒波に揉まれてからの方が人間として厚みが出るのではないか・・・と考えました。
そこで「対お客様」「対クライアント」を経験できる、資格取得講座と人材サービスを扱う会社に入社。
自分のやりがいにつながる「人をサポートする・教育」という部分はぶらさずにいました。
しかし、やはり社会はそう甘くありません。経験を積むためのキャリア・・・これは本当に覚悟がないと続かないと痛感させられました。
恥ずかしながら日々の業務に追われるばかりで、自発的な学習・提案などはできず、
「やはり対学生相手のキャリア」へとシフトしたいとその思いばかりが膨らんでいきました。
そして、2021年12月末を持って退職することを決めました。
ここでも改めて日本語教師を目指すきっかけが。
働いていた会社の資格取得講座の一つに「日本語教師養成講座」があったのです。
日本語教師養成講座の講座担当者の方と食事に行く機会があり、その方と話をした時にニュージーランド時代の思いがブワァーーーと溢れてきたんです。
よし!日本語教師に挑戦してみよう。その日の帰り道、一人で静かに決意を固めました。
まとめ
はい。長々と読んでいただきありがとうございます!
目は疲れていませんか?緑を見て視力を回復しましょう(笑)田舎の小学校での教えです(笑)
つらつらと自己紹介しましたが、同じような経歴を持つ方、これから日本語教師を目指す方、はたまたすでに日本語教師として走り出している方、、、などこのブログを通して多くの人と繋がりを持っていけたらと思います。
どうぞ宜しくお願いします!