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文学の定義について

私は難しいことを考えるのがあまり得意ではないので、できるだけ平明な言葉で考えたい。あらゆる学問において、小難しく語ろうとするのは特権化という悪い宗教行為のようなものだと思う。

文学という言葉の定義にはけっこう曖昧なところがあって、どこからどこまでが文学なのかという境界線は人によって異なる。けど、一番多くの人を納得させることができる最大公約数的な定義を探るのであれば、文学とは「言葉の芸術」であるといったところだ。ここから定義の範囲を広げるか狭めるかは個人の見解による。

私には「汎文学主義」的なところがあって、大体のことは文学に分類されるようになっている。つまり、先の最大公約数的定義からはだいぶ広がる。排他的な考えはあまり好きではないからだ。こういうことはみんなでワイワイ楽しくやるのが良いと思うので、この定義の家主として入口をたくさん作り、客を迎え入れすぎてカオスにならないよう土地を広げ、定義の増改築を繰り返して、みんながゆっくりくつろげるように配慮しなければならない。これは骨が折れる作業だが、いずれこの壮大な建築物が宇宙と同じ大きさになるかもしれないと想像してみるのは実に愉快なものである。

こうした無謀とも言える建築計画は一部の人の目には野放図に映るかもしれない。だがここで言いたいのは、あのたいへん精力旺盛な実業家ウォルト・ディズニーが自身のテーマパークについて述べたのと同様のことが文学にも言えるということだ。すなわち「人間に想像力があるかぎり文学は完成しない」ということである。

したがって、文学はたくさんの銀河を閉じ込めた宇宙の風船の膜を破って広がり続けるに相違ない。これは一興である。私たちの想像力に耐えきれずシャボン玉のように宇宙が弾け、飛び散った金平糖のような色とりどりの星々があちこちで再集合して新しい銀河をつくり、愉快な渦巻き模様や珍奇な図形を描いて、私たちの目を楽しませてくれるかもしれない。古い宇宙が爆発し、新しい宇宙がきらめく光とともに誕生する花火大会の日にはできるだけ多くの人に招待状を送ってこの記念すべき日を祝ってもらいたいと思う。

私はいま、めちゃくちゃに比喩をこねくり回している。だがこれこそが私にとっての文学の故郷なのであり、無味乾燥な客観的現実の殻を破って自由に想像力を行使できることこそが、文学の第一条件であるように思われていならないのだ。したがって、私にとって文学の条件はつぎのようなものとなる。

1、文学は人間に自由な想像をうながすものである。
2、文学は普遍的なものを特殊の領域に移す営みである。

かかる条件から以下の定義が導き出される。

「文学とは世界の解釈である」

この定義によって、一般的に文学作品と呼ばれるもの(詩歌、戯曲、小説)は文学というカテゴリーに収まる。ホメロスはこの世界を神々の相克に揺蕩うものと解釈して歌い、シェイクスピアはこの世界を響きと怒りの道化芝居として面白がり、フランツ・カフカはこの世界を無限と従属の構造として見て冷笑した。作家はそれぞれ独自の世界観を持っていて、それらを直接的に表現したものが文学作品として結晶しているのである。作家は固有の文体を持っているものだが、それは世界を認識するための方法なのだ。

加えてあらゆる人文・自然科学もまた文学に分類される。なぜならそれらは世界を観察し、所与の現象から各々の方法によって解釈するものだからである。文学と違い、物理学の世界の解釈は数式によってなされる。なぜならそれらの理論やモデルを説明するのに自然言語は適していないからだ。数学は非常に強固な記号体系なので、人類の認識にとって普遍的な現象を統一した方法で説明するのに優れている。物理学はまず世界を観察し、所与の結果から数式で表現されるべき本質的な要素を抽出する。そして抜き取ってきたそれらを数式に変換して解釈するのである。

ここまで読んでくださった方の中には、こいつの文学の範囲が大きすぎると感じる向きもあるかもしれないが、実際のところ私はただ「文学」という言葉が本来意味していたことと近い解釈をしているにすぎない。日本において「文学」とは書物による学問と芸術全体のことであったし、英語のliteratureもまた「文字で書かれたもの」を意味するラテン語由来の言葉だ。これらの事情を鑑みれば、私の文学の定義がかなりふわっとしているのもご理解いただけると思う。

私の文学観について書くには、文学がほかの学問(というより私は文学を学問だとは思っていないが)と決定的に違っている点を述べなければならない。それは、文学は他の学問と全く逆のことをするということだ。すなわち、普遍性の殻を脱ぎ捨てて特殊性のほうへ突き進むということなのだ。「文学は普遍的なものを扱えないから学問ではない」と言われることがあるのはそのためだ。だが文学は学問ではないのだから当たり前だともいえる。文学は普遍的なものを特殊の領域に移していく。すなわち世界(普遍)から固有の世界観(特殊)を創造するということだ。ある小説を読むことによってその人の世界観が変わる、というのはよくある話で、いままで特に意識することもなく、日常に埋没してしまっていた景色や事物が、優れた文学作品によって霊感を与えられることで色鮮やかなものとなる経験をした人もきっといることだろう。いわば世界の解釈が変わったのだが、これは全く普遍的なことではない。むしろ逆だ。

文学は四角四面の大理石のような真理を探究することに興味を持っていないのだ。代わりに文学が希求してやまないのは星のように輝く真実なのである。そして「真実」は、人を真の意味で自由にしてくれる。二十世紀における最高の知性の持ち主であったフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは「労働者に必要なのはパンではなく、詩である」と言った。偉大な文学に触れることは、人生における絶望を治療するための切符を手に入れるということなのである。それはヴェイユ的に言えば、「重力」から抜け出すことを意味する。「重力」とはあらゆる精神と肉体にかかる自然的な力だ。デヴィッド・フォスター・ウォレスが言うところの「自動的な判断」と言ってもいいかもしれない。「自動的な判断」は、私たちの思考の視野を狭くしてしまう。この悪魔は、私たちをもっとも楽なほうへ誘導しようとするからだ。この普遍的な力に耐える、あるいはそこから身をもぎ離すためには、偉大な文学を読み、それに心から感動することが大いに役立つ。「どうやって物事を見るのか」を考える、これこそ文学が良いものだと言える最も重要な根拠であり、私の文学観の根っこの部分だ。

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