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発達障害の理解と支援にいちばん必要なこと

なんの気無しに、勢いだけで書いたら、長くなりました。お時間のある方は、適当に流し読みしてくださると、嬉しいです。

 脳内はそれなりに荒れている・・・と、いうか、シビアなことを書くこともよくあるので、冒頭はほのぼのさせようとしていることが多いです。
 以降と凄まじい落差ですけど、元着物講師の義母に、久しぶりにがっつり着付けとお手入れを教わり、おくみ線の合わせ方とか、苦手なポイントへの対処法を聞けたので、スッキリしました。

IDネットで買って、帯と合わせて5000円くらいですけど、華やかで気に入りました。

 



さて。発達障害児への教育に、一番大事なのはなにか。

 「授業中に立ち歩いた生徒を殴った」というニュースに付いていた、無知蒙昧の輩によるコメントにちょっとイラッとしたので、意見を述べさせていただきます。



「生徒がADHD(注意欠如・多動性障害)であったのか?

しばしば学級崩壊の原因となることでも知られているが、ADHDに対応するための専門の訓練を受けた教師であっても、ストレスのもとにしかならないのが現実である。それこそ、その傾向がある生徒だけ集めて隔離して教育した方が、生徒と教師の双方にとって幸せであろう。」



 まず、先のニュースで問題になっていたのは、教師による腹を殴るなどの体罰です。

 俳優ウィル・スミスさんが、アカデミー賞受賞の壇上でMCを殴りつけた事件は記憶に新しいかと思います。妻の脱毛症をバカにされたことを端緒とするこの事件、アメリカと日本での反応の差も話題になりました。

 どんな理由があっても暴力はよくない、というアメリカと、家族のために本気で怒れるなんて良いじゃないか、という日本です。


 どちらが正しいかなんて、こちらのテーマにおいても書く気はないです。ただ、都合の良いところだけを拾った「欧米礼賛」思想だけは、完全に昭和・せめて平成に捨ててきてほしいです。


 教師の暴力事件について、上記のコメントにおける、1つ目の悪い点は、まるで暴力の原因が、生徒の行動にあるかのように論じている点です。

 専門の訓練など受けていなくても、アンガーコントロールくらいできて然るべき。誰だって仕事でストレスくらい溜まります。認知症の介護など、どうするのですか?

 ある一定の教師が過負荷になる、小学校のシステム不備が背景にあるかどうかは別として、あえて「定型が発達障害より優れている」という立場になって考えてあげたとしても、「カッとなって殴る」は、ありえないです。


 あ、私は元旦那をカッとなって叩いたこと、ありますね。

 これの違いは、紛争中の両者の、力の差です。

 教師と生徒、親と子どものように、年齢や外観から、力の差が歴然ななか、暴力を振るうことは、あってはならないんです。


 そういう意味では、ウィル・スミスさんの方が、まだ暴力の正否を議論の種とするのに適しています。



 次に、2つ目。このコメントの悪い点は、「隔離すれば幸せ」という点です。

 そもそも、外枠が「排斥」や「排除」が、根本的な解決策になっていると考えているのなら、知的レベルが低いと言わざるをえません。


 古今東西、共存できない相手を排斥して、人間が何かを解決できた事例が存在しないからです。

 食害や傷害から身を護るため、野生動物を排斥した結果、いま、如実に生態系が崩れ、自業自得ですけど人間社会の未来は暗いままです。

 ロシアのウクライナ侵攻も、もとをただせば、ソ連邦崩壊と分割に原因があります。

 


 3つの目の間違いは、やはりこれも根本的に、発達障害をちゃんと理解できていかいことにあります。


 発達障害と定型と、その括りに安心している定型の方におうかがいしたいのですが・・・英語だとグレーゾーン。なぜ「発達障害」と括れるものが、黒ではなく、グレーなのでしょうか?

 ハッキリ領分を分けられるものを、わざわざグレーと呼称するでしょうか?


 医者が言うからそうなのだ、と、人間関係がうまくいかないのを、「症」と呼ばれるところにだけ原因があると思いこむのは


 これもハッキリいって、思考の放棄です。知的レベルが低いのは、まさしく日々、思考訓練をしていないからと言わざるをえません。


 なぜ、定型と呼ばれる人間すら、思考を放棄するのか?それは、上記のコメントのように、「快適な生活環境はエラい人間が与えてくれるもの」と思い込んでいるからです。


 それも個人の自由だといってあげることもできますが、最近のLGBTqなどのマイノリティー・フレンドリー、SDGsという、社会の思考ベクトルを考えると、そのうち生きているのが辛くなるのは、発達障害者ではなくて、上記のコメントのような考えを持つ人間です。



 もう一つ、別の切り口から意見を書きます。病気と、恐怖症のような「〜症」と名のつくものの違いを、ご存知でしょうか。

 それは、病気が科学的・臨床的に定義づけられたものなら、「〜症」は、症状を表すものだ・・・ということです。


 発達凸凹育児な日々を生きるものとしての実体験ですが、息子に受けさせた検査には、発達障害だという確たる数字・検査基準は、ありませんでした。

 ぜひ、おさえてください。発達障害は診断名が下されるのを、拒否できます。

 言い換えると、当事者の生活を豊かにするために、発達障害者の診断をもらうかもらわないか?を、決めるのです。


 つまり、上記のような「発達障害者は隔離して教育すべき」という意見に、差別的なものを感じ、さらにそういう意見の人が大半な世の中なら、ボーダーのみんな診断は受けても、拒否しちゃえばよいんですよ?


 ちょっと笑えてきますよね。


 定型である自分に自信があって、それで意見を述べる人って、大抵、はじめから論理破綻しているんです。

 

 先程の、病気と「〜症」の違いに戻りますと、先端恐怖症、対人恐怖症、集合体恐怖症、いろいろありますけど、結局これらは、そういう人がいるんだって〜っていう話です。


 たとえば私が「お肉見るのが怖いで症」と自己申告したとき、それに共感する人が多ければ、「お肉見るのが怖いで症」は成立します。(もうちょっとそれらしい名前が望ましいのでしょうが)


 発達障害は、「病院で検査してもらえる」というシステムから、障害の一つですが、明確な基準がない・定型との脳の動きの違いも、よくは分かっていない、となると、内実は「ー症」に近いと感じます。


 

 さて、話を戻すと

「発達障害」と「カッとなって人を殴る」・・・どちらが「症状」と言えるでしょうか?


 私が主張したいのは、ここです。

「カッとなって人を殴ることがあります」「言うことを聞かない子どもには、手が出ます」


 全国のお母さんお父さん、いや、暴力には自信が無いすべての人たち・・・こんな大人がいたら、どう思いますか?


 まず、「怖い」ですよね。これに共感する人がたくさんいるなら、癇癪よりも病的なことば、シンプルに暴力症とでもしましょう。

 そういう人を、たくさん集めて検査して知見を集め、ひいては隔離されるべきだと思いますよ。


 発達障害児童と暴力症、隔離するのは

「どっちでもいい」です。確かに、問題は減るでしょう。


 解決策として、排斥がありなら、どっちでもいいんです。では、発達障害者を排斥する署名活動がおこったら?発達障害者、またはそれに関わる人間は、署名もしくは、人権侵害として訴訟で対抗します。

 それでも解決しなければ、暴力に発展します。


 だから、「排斥は解決にならない」と書いているんです。



 今から最低なことを書きますけど、


アラサーも深まる私。

 「発達障害者」よりも、話にならなくてバカで関わりたくない「定型」の人に、たくさん会ってきました。


 なんらかの病気であるという揶揄をこめるなら、定型の前に「自称」をつけますが、現在、私は徹底して、発達障害と定型は対等であるというのが基本的な信念なので、私の中でことばの暴力は使いません。

 

 福祉や公共財を多く受けるものが弱者である、自分も税金を払っているから気に入らない・正しくない、という反論を考えたとして、生まれた時代や家族構成、遺伝子の違い、何から何まで違うのに、税金を100%公平に配分できますか?

 自分の税金がどうのというのは、ただの八つ当たりなんです。


 そこで気分を害するなら、もう「国家」という枠組みにいるべきではない。いっそ、税金を払わずに、公助なし・自助と共助だけのコミュニティに属すべきです。

 イギリスのマーク・ボイルさんをはじめとし、探せば、たくさんあります。極力自給自足の生活をする、というの。


 私が何を言いたいかっていうと、結論は、文句があるなら自力で生きろってことではないんです。


 ただの「常識」。いや、常識なき時代の、原点回帰なんです。

 西洋の個人主義が土台にあるんだかなんだか知りませんけど、常識として、人を理解したり助けようという気が乏しい人間を、他の人間だって理解して助けようとは思わないってことです。


 そういう考え方が染み付いているっていう人には、同情はしますけど・・・同情から優しいアクションを起こす気力体力があるなら、やっぱり、「世話になっている人」「大事な人」に、そのぶんの気力体力を注ぎますよね・・・



さて、

発達障害者の理解と支援にいちばん必要なこと。


 勉強・・・では、ないです。

これは、療育の先生と面談した折に聞いたことなんですが、それは安全です。


今や安全でない学校の方が少ないという事実があるので、軽視してしまうこともありますが、特に児童を狙う危険人物に「目を付けられる」ような、簡単なことでは絶対にいけません。


オープンなイベントを開くな、ということではありません。


日々の安全教育もそうですが、児童は先生の目を簡単にくぐり抜け、道路に出ることができる、授業中に保護者が簡単に出入りできてしまう、など。


安全というと、つい子どもをがんじがらめに縛る環境を思い浮かべる人もいるかもしれません。

組体操の事故、熱中症など、子どもが被害に合うのは悲しく理不尽ですが、完璧は求めていません。生きているということは、いつか死ぬということです。

ただ、注意一秒怪我一生という事件事故は、防がなくてはいけません。



構造設備のことだけでなく、どうしたら危険行為になるか、学校という共同体のなかで、相手との距離感を最優先に、教えていってほしいんです。





 発達障害の旦那さんと天才キッズ二人がいるというママさんブロガーについて、私は、「発達障害はネタになるから面白いんだろうか?」という疑問を呈したことがあります。

 

 興味を抱いてくれるのは嬉しいのですが、想像だけでは「空気が読めない」というのがよくわからない人も多いように感じます。


 


 先日のブログに、未就学児の息子さんと発達障害の旦那さんが二人で出掛けた話がありました。


 旦那さんは、精神的にも幼稚なので、小さい子とお年寄りが席を座りたそうなのに、「自分が先に座ったから」と、譲らなかったことを、大人気ない、という話でした。


 

 お出かけの後で息子さんが母親に話さしたとのことだったのですが、発達障害の特性とは別に、一点こちらにも疑問があります。


 5歳前後のお子さんが、外出で自らが興奮した出来事じゃなくて、パパがどうしたという「チクリ」みたいなことをするだろうか?という疑問です。


 告発とかチクリという概念でなく、単純に、パパ・メッだよー!という意図で、観察し記憶に留めていたというのなら分からなく無いのですが、


と、いうのも、発達凸凹育児をしているとわかるのですが、発達障害は「世間一般」よりも、自分の感覚が鋭敏です。

 その人の立場になってみないと分からない、逆にいうと、発達障害の言動には「理由」があるんです。


 それは、単に利己的というわけではなく・・・酷い言い方をしますが、定型でも利己的な人はたくさんいます。


 むしろ、優秀だとチヤホヤされて大きくなったけれど、年齢が上がり能力が頭打ちになってから、「思うようにいかなくなった」という気持ちに囚われている人のほうが、より深刻に利己的であると感じます。


 

 もちろん、発達障害者だとてパーソナリティを保証するものは無いですが、逆に、発達障害だから利己的だというのは大きな間違いです。関係がありません。


 発達障害育児を経験されている方が感じる通り、それは、校則で決まっている制服の肌触りが悪すぎて着ることができない、とか、先生のいう「これ・あれ・それ」という指示代名詞が不明瞭なので理解できず、パニックになってしまう、とか、そういう類のものです。


 「自分が特別扱いされないことが嫌だ」という感覚ではありません。


 発達障害者は、社会から隔絶されたいわけではありません。社会に、居場所、生物学的な用語で、「ニッチ」がほしいんです。

 けれど、それは定型だとて、同じですよね。


 たとえば、メキシコにはメキシカンテトラという全盲の魚がいます。観賞魚としても人気なこの魚は、光の届かない場所を繁殖の場として選び、目が退化しました。


 

 自然がそうであるように、人間にも「こうしなければならない」ではなく、「こういうやり方もある」と、あまり例のない行き方を選ぶ者もいる。

 居場所さえあれば、人気がないとか奇異の目で見られるとか、ほとんど苦痛に感じないタイプの人間はいます。


 それが発達障害者である、といったほうが、通じやすいかもしれません。

 もちろん、貶められるのは気分が良いことではないですが、他人と違うこと自体は、それほど気にならないです。



 そう、このママさんブロガーの、発達障害への認知へのおかしな点ですが、冒頭で示した通り、発達障害者にまず不安を抱かなくてはいけないのは、子どもの安全管理がきちんとできるのか?、ということです。

 


 激しい発達障害の旦那さんと、未就学児の男の子を二人で外出させられるかというと、私は、仲の良い夫婦でも、場合によっては難しいかな?と思います。

 何が起こるかわからないですから。


 私は自分のグレーゾーンを疑っていますけど、化学専攻、製造現場勤務、重大な労働災害の事例をいくつか見てきていることもあって、安全管理については平均よりシビアな見方をしていると思います。

 だから、発達障害者だから危機管理に疎いか、というとそうではなく、たとえば、絶対に子どもを一人にしない、と、明文化し夫婦の共通認識にすればよいので、どうにもならないことでは無いと思うのですけど、夫婦でコミュニケーションが取れていないのに、発達障害者といかなる共通認識も持つことはできない、と、私は思います。


 「当たり前」が、無いんです。 

 5歳児はふにゃふにゃの赤ん坊ではないし、動かないでねと言いつけて、「はい」と言う子もたくさんいるでしょう。

 でも、好奇心旺盛だから、それに安心して離れたら、何をするかはわからないです。

 

 交通事故で多いのも、このくらいの、小学校低学年頃。定型や発達障害に関わらず、できることが爆発的に多くなる代わりに、怪我の伴う失敗も、めちゃくちゃ増えます。


 しかし、大人の発達障害者でこうした育児の事例やルールに「馴染みきっていない」と、子どもを託すのは不安が大きいと思います。






ママさんブロガーのブログを、あえて引用させてもらいます。


ーーーーーーーーーーー

(発達障害者とは)遭遇したことがないかな〜と

思っていたけど、いま思えば

学生時代、いつもニコニコしてて

勉強はとても出来るんだけど

早口で一方的で

話があまり成立しなかったあの先輩は

そうだったのかも…と思ったりします



旦那さんもまた

会話があまり成り立たない人ですけど

人の気持ちが全くわからないのか

わかろうとする気持ちがないのか

人の目を見て意思を伝えることが

乏しいように見受けられます。



病気!ではなく

脳の特徴のひとつということなので

治すことは難しく

このままの状態なのか…

話し合えないことで

改善の余地がない…と感じることもあります。


ーーーーーーーーー引用終わり



 発達障害者について書かれた文章で、まずいちばんの違和感は、書き手が定型であり、自分の感覚が一般的であるという自負があることです。


 このママさんブロガーは、実はその典型で、自分が定型であるという思い込みは、逆に「自覚のない発達障害者ではないか」という疑念を抱かせるものです。


 

 と、いうのも、私は「自信満々の発達障害者」というものには会ったことがないし、同世代で発達障害をわざわざカミングアウトされた人に会ったことがありませんが、子どもさんがそうというママの知り合いはたくさんいて、いずれも「話し合いが成立しない」人ではありません。


 先程も書いた通り、発達障害の言動には、理由があるからです。その理由が分からないうちは大変です。

 苦手があり、忍耐が必要なのは確かです。


 ただ、息子を含めて、発達障害者との話し合いは、ハッキリいって成立します。それは定型、発達障害に関係なく、人は、社会的な生き物で、居場所を求めているからです。社交性がありますし、他人に譲歩することもあります。

 ただし、外からの刺激に過敏だったり、なんでも無いようなことが苦手だったりして、必ずしも共同歩調を取れない。

 

 本を読むのもひとつの手段ですが、療育や脳科学の先生に聞けば、動線や時間的な感覚を合わせやすくするため、写真やタイマーを使ったたくさんの対処事例を教えてもらえます。


 その対処事例も、効果があるかは一様ではないので、トライ・アンド・エラーがあり、忍耐が必要、というところに戻るのですが、


 少なくとも絶対に折り合いがつかないであろう概念は、定型による発達障害者はこうだという決め付けです。





 椿鬼奴さんという芸人が、彼女は確か発達障害をカミングアウトされていた?と思うのですが(周りに言ったほうが理解を求められるという人にとって、カミングアウトはひとつの生存戦略です。ただし、私にとって、誰かがそうであるということで特に見方は変わらない(プラスにもマイナスにもならない)ので、重大事ではありません)、彼女はラジオで興味深いエピソードを述べていました。


「小さい頃、目を合わせろと大人に言われていた。それが苦手だったけど、瞬きせずに相手の目を見ようとすると、焦点がボヤケて不安にならないので、ガン見するようになったら、誰からも注意されなくなった」


 見事だと思いました。

きっと、見られた人間からは、「こっわ!」と思われたんでしょう。ちなみに私も目を見るのが得意ではないので、鼻あたりを見たり、にっこり目を細めて視界をボヤカシたりしています。



 まいどまいどの「話が成立しているか」は、かなり微妙です。と、言うのも、私は、小説を書くこと、三味線を弾くこと、ひいては古典好きなこと、アニメも漫画も読むオタクなこと、どう思われようと、実践ビジネス英語とロシア語を勉強し続けていること、最優先事項の「安全管理」以外は、子育てについてかなり緩い・・・自分の成長にかける時間が多いお母さんなのではないか?と思うのですが、どれも現実の知人と共有しやすい趣味とちょっとズレていて、思いのまま興味関心を話すことはほとんどありません。


 けれど、日常会話なんて「当たり障りない返事」何パターンか覚えていれば、それで十分なんです。

 あとは笑顔と、せいぜいラジオを聞き流すくらいでしょうか?

 おしゃべり好きな人が、どんな場にも必ずいますし、後は愛想よく聞いていれば、なんとでもなります。そういう場にいて、疲弊したり空虚な気持ちにならないわけではありません。


 特筆すべきは、おそらく私の感覚は、たとえ少数派であっても特別珍しくないことです。

 「私は友達が多い」とか「話し上手である」という自負のある人からみて、私のような感覚の持ち主がいたときに、それは「私がおかしい」ということになるでしょうか?


 ね、それはとても不思議な話でしょう?マイノリティの意見を同調圧力などの空気で殺するのが、定型の能力なのだとしたら、それはむしろ無い方が良い。


 仮に、発達障害が定型より劣るとすると、定型の能力とは、「発達障害者の気持ちを汲み取り対処できること」ではないのでしょうか?


 できないのなら、レトリックや数で、正誤を決めるのはナンセンスです。


 単純な話、発達障害者が必要としているの理解、なんですけど、この意味合いが、「空気が読めない」とか、定型と発達障害の違いをむりやり一般化するかのような、「区別」「線引」はイコール偏見であり、望むところではありません。


 こういう人だという事実のみを受け入れる、ただそれだけのことなのです。


 江戸の頃まで遡ると、弱視ですら親ははじて家から出さない(家から出さないなどという不健康極まりない育て方、消極的な自殺の強要と思います)という話も聞きますから、今のほうが随分良いのですが、最低限の安全管理の上にある、完全なボーダーフリーというのは、まだまだ遠そうですね。



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