体の中に耀る月 第三話「肚の中」
第3話 「肚の中」
斑で不均一の粒から、白く柔い生物が体節をくねらせてモソモソと這い出してきた。明朝。眩しそうに身をこごめた幼体だが、慌ただしく塀を登り始める。背中に暖かい朝日を浴びて微睡み始める。彼は、その一生を歓喜の唄だけで終えらせる。
夏がきた。晴天の下、体育の授業だった。暑気は爽やかと感じられる程度だが、生徒は不満たらたらである。マラソンの授業で校舎の周りを三周走らなければならない。俊之は、学校にきていない。南戸は、「激しい運動を医者から禁止されている」のだそうで、校門の前で見学だった。睦が、走り終えて校門を潜ると、南戸が、スポーツ飲料とタオルを持って出迎えた。それを見ていた女子生徒が、クスクスと笑い、何事か囁いている。
睦も、小肥りの従者を従えている気分で恥ずかしかったが、汗を拭きたいし、喉も渇いていたので、南戸から無言でそれを受けとる。南戸は、笑顔になって体を揺すらせた。嬉しいらしい。
生徒全員が戻るまで、休憩できる。タオルを頭に被せていると、春が近付いてきた。ヨシハル‥‥という囁き声。
「ヨシハル?」
睦が呟くと、耳聡い春は、
「福吉春だから、ヨシハル」
と、睦に解説した。
「胸が無いから、男みたいだって。蔑称」
春は、胸元をつまんで、広げて見せた。先日襟足が見えるほど髪を短く切った春は確かに遠目から見れば、少年のようだ。
「ふうん‥‥」
「何の用だよ」
南戸が噛みつく。
「うるせえ、デブ」
喧嘩が始まる。
「やめろよ、何の用だよ」
「お願いしたいことがあって」
「またか!もう騙されないぞ」
「うるせえ、デブ。お前には聞いてねーよ」
春の剣幕に、衆目が集まる。
「やめろったら。今度はなんだよ」
春は言った。
「アツシは怒ってないんだね」
睦は怒っていない。開き直った春の図太さにあきれていた。しかし、警戒はしていた。今度は何を言ってくるのか。
「まあ、私もまずは謝ろうと思ってたんだよ」
春は、屈んで、地べたに座り込んでいた睦に視線を合わせた。
「騙してごめんね。でも仕方なかったの」
「何が仕方なかったんだよ」
以前ほど可愛い子ぶっていない春は、男性的で不愛想だが、美少女である。睦は、彼女の顔を直視すると緊張する。
「私、トシユキに脅されてるんだよ。言う事聞かないと、秘密をばらすって」
「なんだよ、秘密って」
「だから、秘密だって。アンタもそこのデブも意外と勘が良いんだね。トシユキは悔しがってるよ」
ニヒルに笑う春に、反省の色は微塵もない。馴れ馴れしく呼び捨てされたり、「アンタ」呼ばわりされるのも、気分が良くものではない。睦は、ムッとして顔をしかめた。
「それでね、アツシにお願い」
「お前、物を頼むなら態度というものがあるだろ」
「ああ、もう。横からぎゃーぎゃー喚くなよ」
春から、罵詈雑言を浴びせられて、南戸は半泣きになった。
春と南戸が口論を始めると、「猿と豚」と揶揄された。南戸は萎縮して縮こまったが、春は、声があった方を睨み付けて、「誰だよ今の」と怒鳴り付けた。
「やめろよ、いい加減にしろよ」
睦が宥めると、ようやく春は、睦に向き合った。コイツもよく分からない奴だ、と睦は思った。頭は良いらしいが短気だ。利己的ではないが、頑是ない。華奢な見た目や執念深いところに女を感じるが、粗野で粗暴である。
「今度はなんだよ。もう嘘は無しだぜ」
「安心しなよ。もう嘘は吐かないよ」
「お願いってなんだよ」
「トシユキからね、秘密を取り返す手伝いをしてほしいんだよ」
「秘密を取り返す?つまり、何するんだよ」
「家捜し」
「ふざけるなよ」
南戸と睦が同時に言った。春は舌打ち。「テメーには言ってねえよ、デブ」
「人を痴漢にしようとしたと思ったら、今度は家宅侵入か。カンニングに痴漢に家宅侵入って。犯罪の度合いがだんだん上がってるぞ」
ついに睦は怒った。春は冷めた眼で睦を眺めた。
「仕方ない。もう時間がないし。親の仕事の関係らしいけど、トシユキは来月引っ越すんだって。トシユキ今学校で居場所がないから捨て鉢になってる。引っ越す前に全部暴露してやる・その前に一回ヤらせてくれたら見逃してやる、だって。冗談じゃない。同情してくれるよね?手伝ってよ」
「ヤるって、何をだよ」
強い語調問われ、春はため息を吐いた。決まり悪そうにもぞもぞしながら、南戸が、何事か睦に耳打ちした。睦は、赤くなったり青くなったりした。
「俊之が、そんな。それに、それはお前の都合だろ‥‥」
急に小声になった。春は思った。睦が春に二度と協力する義理も情もないことは分かっていた。だから、今回はお願いではなく「指令」を出すつもりだ。その方が、媚びる必要もなく、春の性に合っている。機械は、与えられた指令[コード]が正しければ、間違いのない仕事をする。しかし、睦のこの素直さだ。強気であろうとしているが、動揺するとすぐ顔に出る。春は彼をからかいたくなった。
「その代わりと言ってはなんだけど。アツシに良いこと教えてあげようか?」
「なんだよ。良いことって」
「アツシは、エコーロケーションが使えるね?」
「エコーロケーション?」
「反響定位の事だよ。イルカが水中で泳ぐために。コウモリが、夜間何物にもぶつからずに飛ぶために。自分の出した音の反響を感知して、障害物の位置を把握するんだ」
南戸がそのような事を言った。南戸にしては、分かりやすい説明だった。
「え、それを俺が使えるって?」
春は微笑んだ。
「そう。でも、別にイルカやコウモリに限らない。盲の人も、白棒で地面を叩いていると、反響定位が発達してくる。反響定位を習得するための教育方も確立されている。この間のニュースでは、視力に問題なくてもほとんどエスパーと呼べるくらいの人も、たくさんいるって話だよ」
「そんなにいるの?」
「うん。実は、私もアツシと同じような事ができる。だから、仲間を見付けられて嬉しい」
睦の緊張と怒りに強ばった顔が綻んだ。
「なんだよ。俺、ずっと、自分だけ変なのかと思ってたよ。俺だけじゃなかったのか。ちゃんと名前も付いてるような事だったかのか。なんだ」
睦が胸を撫で下ろすのを見てから、春は言った。
「嘘だよ」
「え」
「確かに反響定位に近い何かだとは思う。けど、アツシのそれは異常だよ。普通盲の人だって、訓練しなくちゃ反響定位は使えない。それに、何よりアツシは反響を拾うために必要な吸着音を出していない。イルカは、メロンという器官で音を出し、顎で反響を関知しているらしいけど、アツシはどうなってるんだろうね・・・?いろいろ考えちゃうんだよね。私が思うに、学者垂涎のレアな被検体だと思う。悪用する事もできそうだし、アツシに興味を抱く人は、学会に留まらない。無理矢理誘拐して、調べたくなる人もいると思う。あっちこっちで危ない目にあって、ようやく保護という名目で、合法的に拉致される。各国で平等に研究するために、有識者が議論する。『取り扱い方法』が決まるので、アツシは軟禁状態。ふふふ。ネットって便利だから、私がリークしたら、あっという間に広められるよ。面白そうだね。アツシは嫌だろうけど」
睦の顔がみるみる蒼白になった。
「騙したな」
「うん」
「脅したってダメだ」
「どうかな?ただの脅しで済めば良いけどね」
睦は、救いを求めるように、傍らの南戸を見た。南戸は、顔をひきつらせているだけで、何も言わない。分かった。これはやはり、みだりに知られてはいけない特殊能力なのだ。睦は悟った。
「言うことを聞いてくれたら、黙っててあげる。それに、アツシの秘密を守るのに、協力してあげる。そこのおデブさんより、私は役に立つよ。家宅侵入なんて言っても、本来私のものを取り返すだけだよ。人生がしっちゃかめっちゃかになるより、ずっとマシじゃない?」
畳み掛ける。
「お願いじゃなくて、脅迫だ」
「どちらでも。イエス以外の選択肢がないことだけ、理解してもらえれば」
コードにノーはあり得ない。
「わかった、わかったよ。交換条件だ」
「なに」
「南戸のこと、あんまりバカにするなよ」
「良いよ」
春はほくそ笑んだ。俊之は勿体ない事をした。こんなに素直で扱いやすい「探査機」を、自分から手離してしまった。
春が目的を達して去ろうとすると、南戸が口を開いた。
「僕だって、僕だって、お前の秘密を知ってる‥‥」
春の心臓が飛び上がった。なんだって?戦闘モード。南戸を睨む。落ち着いて、単なるハッタリかも知れない。
「ヒミツって何を?」
「お前が、ここで暴露されたら、嫌なことだよ」
南戸が知っている筈がない。しかしどうだろうか。春の援助交際を、俊之は「たまたま」見ていた。それなら南戸も「たまたま」見ていたとしても、何らおかしな事はない。しかし虚勢かも知れない。あるいは「授業中寝ているところを見た」とか、どうでも良い事をかくも大きな秘密を知り得たりと勘違いしているだけかも知れない。南戸が本当に春の秘密を知っているか、問い詰めたかったが、それは手前で墓穴を掘ることのように思えた。
とりあえず相槌を打つ。
「・・・それで私に何をして欲しいの」
春は言った。
「僕も一緒に行く」
「どこに」
「俊之君の家」
「‥‥」
こいつの睦に対する忠誠心はなんだろう。まるで下僕だ。まあ、良いだろうと、春は頷いた。いかにも鈍そうだが、勘は鋭いし居ないよりマシかも。
俊之は自暴自棄になっていた。彼が引っ越すことになって、春が安堵したのも束の間、俊之は連日のように、春に電話をかけてきた。「俺はもうダメだ」とか「どうして俺ばっかり」とか、聞くに耐えない、愚痴や戯れ言。職員室の一件では、「春だけ難を逃れた」「裏切り者」だと罵られた。春は、巻き込まれるのはごめんだ、と言ったが、あまりぞんざいな物言いをすると、「バラすぞ」と脅される。援助交際の写真である。禿頭の親爺とホテルに入っていくところ。春は、母親を亡くす直前の、疲弊しやつれた姿だが、彼女だとハッキリ分かる。一枚あればいくらでも複製できる。プリントアウトされたものと、デジタルデータ、全てを根絶しなければならない。俊之がどれだけバックアップを取っているか分からないので、春は恐怖していた。
とうとう俊之は、写真を盾に「処女じゃないなら良いだろう」と要求してきた。 春が黙ると、一度は「冗談だ」とことばを濁したが、徐々に「冗談」では無くなってきた。春は、俊之を殺そうかと真剣に計画を練ったが、やはり殺人となると、躊躇がある。足が付かないようにするのも難しい。
俊之の部屋を荒らすだけなら、バレても軽犯罪で済む。ついでに、俊之の秘密でも探して持ち帰れば、それをカードに、二度と彼の言うことを聞かずに済む。
春が見たところでは、睦の能力は未知数で過信は禁物である。だが、スケープゴートにしかり、頭数にしかり、一人よりは良い。
春は、人間の「身辺調査」などやったことがない。ネットを利用すれば、ある程度は容易く情報が集められるが、問題はその確度である。ただでさえ各々が嘘吐きの坩堝である人間が、増長して膨張してネットは嘘の大海になる。かと言って、足で情報を集めようとすると、目立つ。ネットでなら姿を消していられても、現実に素行の怪しい異分子がいれば、物言わずとも、人間の警戒心は高まる。春は、自身にITの非凡な才能を見出だしてはいたが、訓練もなく探偵や泥棒じみた事が上手にできるとは思っていなかった。その点で睦は有能だった。春は、まず、睦に「俊之のスマホと自宅の鍵」の場所を聞いた。春に強制されて、しぶしぶではあったものの、ただ俊之を遠くから見つめるだけで、「スマホは、鞄の第二ポケット、鍵はスラックスの左のポケットだ」と、言い当てた。ここ数日ずっと確かめていたから、間違いないと言う。無論、春に真偽は分からない。自白したとは言え、未だに睦が反響定位を使っているか、疑わしい。大いなるまぐれかも知れない。何か別のトリックかも知れない。もっと観察する必要があった。やはり睦は、反響を拾うために必要な「音」を出していない。試しに春の鞄の中の物や、握った拳に入れた物が何か、当てさせてみた。睦は、これもやはり「実験動物のようだ」と嫌気したが、言い当てた。ただし、形は分かっても、色は分からないようだ。超能力も疑ってみたが、超能力は、つまり「説明の付かない何か」だ。睦のように、分かる事と分からない事の線引きがハッキリしている能力は、観察を続けていればその原理が分かるような気がした。見方を変えて、春は、「今私が何を考えているか分かる?」と聞いてみたが、返事は「知るか」だった。
結局カラクリは分からないままだが、精度は確かだと信じた。春は、俊之の「家探し」決行前に、俊之の鍵を拝借して、コピーを取るように命じておいた。機会が巡って来たら、いつでも侵入できるように。
学校での制服の着脱は、体育の時間の前後くらいだ。この点でも、同性の睦に任せられるメリットは大きかった。春は、俊之の「誘い」の皮を被った脅迫を、体調が悪いだの生理だのと言ってかわしていた。春自身が、俊之と二人になるのはあまりに危険だった。
ユディト・コンプレックスという言葉がある。男性に身を任せながら、男性の性的嗜好を軽蔑し、女性の自尊心を保つ。春は、一度体を売り、男性への不信感を募らせたものの、二度と同じ過ちを繰り返すつもりはなかった。春の孤独は大きく、気持ちが荒んでもいたが、喪った母親への大きな思慕が、彼女を今以上に投げやりにはさせなかった。
俊之の引越が間近のある日、俊之は、教師との面談で、放課後、生徒指導室に呼び出されることになった。俊之との会話のログには、俊之の両親の帰宅が遅くなる日がある。それで、俊之の家に誰もいない事を確信する。春は、ここ数日鞄に仕込んでいた、手袋やハッキングプログラムが入ったポーチの中身を確認した。
休憩時間に俊之を校舎裏に呼び出し(以前睦と南戸が隠し撮り写真を見ていた場所である)、「面と向かって言うのは恥ずかしいけど、本当は俊之が居なくなると寂しい」というような事を告げた。俊之の表情からは何も読み取れなかった。ただ春の腰に手を回して、唇を寄せて来たので、春はそれを受け入れた。どのみちキス程度は「囮」にくれてやるつもりだった。片方の手は俊之の肩に乗せながら、もう片方の手は動揺で宙を掻いている。俊之にはそう思ってもらう。主導権は俊之にある。実際は春の手は音を立てずに俊之のスラックスへ向かう。幾度となく盗み見た俊之のスマホ保護解除のフリック。それを真似して、アルバムを開く。俊之の頭越しからでも、写真群の判別は十分にできる。俊之が唇を離そうとするので、そっと舌を入れると俊之はそれに呼応して春の唇を再び貪った。嫌悪感で鳥肌が立つが、耐える。記憶に蘇るあの行為。感覚を表皮に集中させればただ不快なだけである。汚い、そう汚いのだ。憎悪を抱きながら、スマホを睨みつけながらフリックし、程なくして件の写真を見付け、静かに削除した。スマホを俊之のスラックスに戻したとき、俊之は昂ぶっていて春の小さな乳房を服の上から鷲掴みにしてきたので、春は身を捩って俊之から身体を離した。俊之はなぜか不敵に笑った。
「刺激が強すぎたのか?」
とでも言いたいようだ。それに対して反射的に湧きあがるのは、もう何度感じたか分からない殺意だが、春は目を伏せただけで何も言わない。それは、俊之にとって「恥ずかしがっている」ように見える筈だ。眼前のこの男は、自分の都合良いよう人を解釈する天才だから。
睦に、「今日俊之の家に行く。鍵を持ってくるように」と連絡した。俊之が、席を立った時を見計らって、彼の鞄にGPSを仕込んだ。
下校時間になった。いつもなら、教室に残り、人が疎らになってから出ていくはずの春が、珍しくチャイムと同時に席を立った。それに次いで、睦と南戸が、何やら話をしながら、忙しく出ていった。典子は不審に感じながら、日誌を抱えて職員室に戻った。睦たちのクラスの前担任が、声をかけてきた。
「幸田君と南戸君、最近よく一緒にいますね。福吉さんとも、三人で話をしているところも、この間見ました。盗撮騒ぎで、どうなるかと思いましたけど、孤立しがちで心配してた子達が仲良くなったみたいで、嬉しいわ」
屈託なく笑う女教師に、典子は
「ええ」
と相槌を打ちながら、その表情は曇っていた。
春と、睦と南戸である。彼らは、俊之の住むマンション前に来ていた。エレベーターを使うと監視カメラに映るので、階段を使う。とは言っても、春は完全犯罪を目指していない。遅かれ早かれ、俊之は、「盗られた物」から犯人を簡単に推測できる。
避けなければならないのは、俊之以外の第三者にも、マンションへ侵入したことが分かる証拠を残すことだ。俊之に「罪」を捏造される。以前、中学生の不良グループが、総合住宅の蛍光灯を割り、住民の苦情で逮捕された事がある。これ以上、俊之に隙を見せてはならない。
俊之の家の前で、睦に、鍵を渡すように命令した。睦は、周りを憚りながら、春にそっと鍵を渡した。
「はい」
鍵に付いたアクリルキーホルダーを見て、春は、思わず叫んだ。
「ちょっと。コピー取っといてって言ったでしょ。これオリジナルじゃないの」
「だって鍵がないと家に入れないだろ。コピーでどうするんだよ」
「?」
そう言って、睦は春に、A4の紙を一枚、手渡した。
「何これ」
「だから、コピーだよ。これをどうするんだよ」
春は、睦と南戸がふざけているのか確かめようと、じっと顔を見つめた。緊張に引き締まった真面目な顔をしていた。
「なんだよ」
「鍵のコピー代に5000円札預けておいたね。あれはどうしたの」
「猫ババしようなんて思ってないよ。オマエも小銭くらい用意しておけよな」
そう言って、春に4940円を手渡した。
「あのさ」
春は、平静を保ちながら言った。
「何かの拍子に俊之がポケットに手を突っ込んで、鍵が無いことに気付いたらどうするの。先生との話を切り上げて帰ってくるかもよ」
南戸がドヤ顔で横槍を入れた。
「それなら大丈夫。僕が、兄から錠を変えて使えなくなったという鍵を貰って、レジンで俊之君のに似せたキーホルダーを作った。それをポケットに入れておいた」
そのような事を言った。
そんな気遣いができて、そんな匠があって、どうして「コピー」という文言を取り違えるんだろう。このボンクラども。
全ての計画を白紙に変えて、二人の死体をここに残し、俊之に罪を擦り付けるのはどうだろうか。あまりに無謀で危険なので、春は怒りをとりあえず鞘に戻した。
「うん、後でね」
その言葉の意味が分からず、南戸と睦は顔を見合わせた。
南戸と睦に、手袋を渡して、春自身も薄いテフロンの手袋をはめる。念のため、マスクと帽子を。少女ながら不審者の出で立ちとなった春を、南戸と睦は、呆然として眺めた。構わず、南戸には、俊之の現在位置が表示されるデバイスを持たせた。まだ日は高いが、カーテンを閉めているらしく、室内は薄暗い。睦に、先頭を行かせる。極力電気を付けずに、俊之の部屋を見付けようとした。
「たぶん、ここ」
学習机があるらしい。今度は春が先頭に立ち、そっとドアを開ける。ここで真っ暗では仕様がないので、電気を付けた。落ち着こうとしても、手足がガクガク震えて思考がまとまらない。春は、ニュースで見る強盗や泥棒の図々しさが、羨ましいような気さえした。俊之の部屋は、片付いていた。ベッドと机と本棚とクローゼット。ベッドの下には、インディゴ基調のマット。机の上には据え置きのパソコン。
南戸は、常にGPSに気を配るよう、睦には、部屋の中にアルバムや写真集、手帳など、写真らしいものを全て確認するように命じた。できれば睦にも援交写真を見られたくはないが、最悪睦には「戒厳令」が有効である。
春は、パソコンに向かった。まずはログインコードである。ハッキングプログラムは、いくつかのケースを考えて、作ってきた。二つは、確実に使用する。同期元であるスマホの画像を、消去するプログラム。そして、俊之がPCからのログインを、スマホに知らせる設定にしていた場合、連絡を遮断するプログラム。三つめは、できれば使用を避けたいが、念のため。不正ログインを許すプログラムだ。これは、他二つよりも複雑なため、PCのセキュリティレベルが、一般的な家庭とそれより高かった場合、失敗する可能性がある。物理的にハードディスクを破壊しても、俊之が登録するクラウドに入れないまま、BAN(追放)されてしまっては、打つ手がない。まず、俊之の個人情報をメモした手帳を広げる。春が、「最も可能性の高い」と判じたコードを入力した。
「パスワードが違います」
喉が乾いた。唾を呑み込んだ。次点のパスワードを入力した。
「パスワードが違います」
思わず目を瞑った。次、ダメだったら、ハッキングを仕掛ける。手が滑り、7を4と二度もミスタッチしてしまった。イライラする。
「いらっしゃい」
声に出さない快哉をあげた。自作のプログラムに、ハードディスクの中の全てのデータを書き出した。目の前に樹系図が広がった。去年のある日以降に保存された、画像データのみを抽出し、削除した。中身をちまちま確認する時間は、惜しい。
「トシユキは」
短く、南戸に確認する。
「まだ学校」
よし、大丈夫。余裕かも。インターネットブラウザを開く。俊之が登録している、クラウドでデータ保存する機能のアプリを開く。ブックマークを開く。俊之は、オートコンプリートを使っておらず、ログインにパスワードが必要だった。しかし、大体がPC本体のパスワードと一致していた。しかし、
「パスワードが間違っています」
というメッセージが出る度に、春の心拍数は上がっていった。焦りが、なけなしの冷静さを容赦なく奪っていく。こちらも、一年前のとある日以前の画像データを全て削除した。最後に、引き出しを開けて、目についたUSBやSDカードを拐う。南戸が叫んだ。
「今、学校を出た」
春の心臓が、跳ね上がった。息が詰まる。こんなに緊張していたら、そのうち本当に飛び出してくるんじゃないか。見落としがないか、不安だ。学校からここ、俊之の家まで15分程度。まだ、少し余裕がある。春は、俊之の他のブックマーク、SNSなどを覗き見始めた。見落としがあっても、俊之の弱味を握ることができれば、もう彼の脅しに屈する必要はない。しかし、残念ながら、俊之の個人投稿はほとんどなかった。ネット商取引の履歴から、俊之は、金融商品の売買で儲けた分で春に「報奨金」を支払っていたことが分かった。俊之の親は、俊之が何をしているかも知らず、湯水のように小遣いを与える人間だと思っていた。しかし、それが分かったところで弱味にはならない。学校にバラせばいろいろ問題にはなるかも知れないが、税務署に納めるものを納めていれば、大人は、かえって俊之の自立性を評価するかもしれない。
春は、メールボックスを覗き見し始めた。妙なメールを見付けた。父親とおぼしき人間から、謝罪のメール。そして、別々に暮らしても、月に一回は遊びに行こうという、というメッセージ。それに対して、俊之は返事をしていない。「下書き」ボックスを見ると、2通。1通は父親宛。
「クズ。死ね」
もう1通は、春宛だった。今度は何を要求するつもりだった?愚かで、可哀想な奴。家庭崩壊するからって、私で憂さ晴らししていたんだ。隠語がディスプレイに浮かんでも、動揺しないように、身構えた。しかし、予想に反して、俊之の未送信メッセージは、
「ごめん。ずっと好きだった」
それだけだった。
スクロールできない。それだけしか書いていない。何かが春の心臓をスッと貫いた。防御しようとしたが、間に合わなかったようだ。胸が詰まった。吐きそうになった。女を虐げて悦ぶあの男の、それが「好意」だったとして、どうだと言うのか。穴の開いた心臓から春の苛立ちや悲しみが溢れて、どうしようもなくなった。
「ごめん」というのは、春の母親の末期の言葉と一緒だ。春は、知っていた。それは、幼い春を残す事に対する罪悪感ではない。春がどれだけ苦しんでも、自身の寂しさから、最期まで春が傍にいることを望んだ事への謝罪だった。それを思い出して、春は時と場所を忘れ泣き出しそうになった。
急いでシャットダウンして、席を立った。
睦が不意に、春の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?真っ青だ。気分悪いのか?」
どうして心配するの?睦に、そう言って、掴みかかりたい気分だった。何もかも破壊したい。君らがどうしようもなく愚かで姑息な人間で居てくれないと、私は君らを憎めない。
「なんでも」
春は、目を背けた。
「もう行こう」
南戸と睦は、戸惑いながら春に続いた。玄関の戸を開けると、俊之がいた。その場の全員が硬直した。春は、まず南戸を振り返った。南戸は、呆然として、首を振った。
「GPSなら捨ててきた。スマホからお前の写真が消えてたから、なんか変だって思ったんだ。春、お前やってくれたな」
春は、俊之に、胸ぐらを捕まれた。
「なんで睦と一緒なんだ」
脳の中で、バシッという鈍い音が響いた。遅れて、「痛い」という感覚が全身に広がった。春は、打擲を受けた鼻を押さえた。涙に滲んだ瞳で、俊之を睨んだ。俊之は、鬼の形相で、尚も春に掴みかかった。それを、睦が後ろから抱き止めて、制止しようとした。狂騒の中、睦は頭を押さえて苦しみ始めた。睦が昏倒して、一瞬の間場は静寂に包まれた。春が救急車を呼び、数分後に、睦は担架に乗せられ、病院に搬送された。
その場にいた全員が、同伴を許された。隊員に状況を聞かれ、春は、苦し紛れに「友達と遊んでいて、喧嘩になった。彼は止めようとしてくれていただけだが、突然倒れた」と言った。救急隊員は、目を見開いて、
「君が男の子と、殴りあいの喧嘩をしたの?最近の女の子は過激だな‥‥」
と言った。春は、鈍い痛みを脳に送り続ける鼻に、手を置いた。鼻血が出ていた。南戸は、気を失っている睦よりも顔色が悪くて、何も言わない。俊之は、黙っていた。黙って、首肯した。病院に着くか着かないかと言うところで、睦は、意識を取り戻した。
「○○分、幸元君気付きました!」
狭い救急車内に、隊員の朗々とした声が響いた。
睦は、虚ろに辺りを見渡していたが、隊員に保護者の連絡先を聞かれて、
「あ、はい」
と狼狽えながら返事をした。医者は、睦を、念のため検査入院させると言った。睦の意識がハッキリしたことを確認すると、春たちには、帰宅するよう指示された。南戸は、動揺して、常よりも甲高い声で、
「ボクここにいちゃダメですか?」
と医師に食い下がった。医師は、苦笑しながら許可した。次いで
「君も怪我してるね。診てもらった方が良いよ」と言われたが、
春は、
「大丈夫です。帰ります」
と言って、医師の薦めを振り切り、その場を離れた。疲れた。考えなければならないことが、たくさんあるような気はした。けど、全てに靄がかかっているようだった。鼻柱がジンジンと傷んだ。病院を出たところで、俊之に呼び止められた。きっと罵倒される。しかし、身構える気力は残っていない。しかし意外にも俊之は怒りではなく、顔に皮肉の笑みを浮かべていた。
「お前、俺の家に忍び込んで何したんだよ」
「言わなくても分かるよね。もうお前の言う事は聞かないから」
春がそう言うと、俊之は悔しそうに歯噛みをした後、言った。
「お前も趣味が悪いよな」
は?と問い返すと、
「睦だよ。あんな鈍いのとつるむなんて。バカなのに、見栄張りだから、変な嘘吐いて、苛められてたことあるんだぜ。春は知らないだろうけど」
春は、何か言い返そうとしたが、何も口から出てこなかった。ただ、睦が必死になって、春に飛び掛かる俊之を止めようとしていたことだけ、ぼんやりと思い出した。
「アツシがどうとか知らないけど私はお前が嫌い。一生かかっても許せないかも知れない。二度と話しかけないで」
俊之から笑みが消えた。その顔色は、みるみる内に赤黒く変化した。
「そうかよ」
春は、ただそれだけで怒りがスッと溶けて消えるのを感じた。疲労と悲しみだけが残って、それが春には辛かった。融けて消える怒りのエネルギーの残滓にすがろうとしたが、もう遅い。
俊之が黙ったので、春が行こうとすると、彼の声が再び春を追った。
「俺も別に、お前の事なんかもうどうでも良いよ。お前を脅して反応見るのも、ちょうど厭きてきたし。いつもお高く止まって可愛げないお前なんか、嫌いだよ。お前なんか‥‥俺が話しかけてやらなきゃ、ずっと一人だろ。そうでなきゃ、睦みたいなトロい奴とつるむしかないんだ。そうだろ‥‥」
再び、春は足を止めた。何か言った方が良いのだろうか。けど、どんなことばを返しても、この人は私と話をしようとはしない。私と俊之はだからダメなのだ。似たような所にいても、似たような事を考えていても、似たような気持ちを抱いて、どれだけ孤独を恐れても。ことばを交わそうとしないなら、どんな言葉でも無意味である。
でも睦は
「でも、アツシはアンタにずっと憧れてた。ずっと心配してた。仲直りすれば良いのに」
俊之は激昂した。
「なんで、睦なんだよ。睦は良い子ぶってるだけだよ。俺は、いつも必死で努力してるのに、睦はセコい手使って目立とうとする。俺と睦は対等じゃないんだよ。勘違いするなよ。アイツとは友達でもないでもないよ。お前にそれが分かると思ってた、俺がバカだった」
俊之は喚いていた。春は、今度こそ俊之から離れて、振り返らずに家へ帰り、すぐ布団に潜り込んだ。着信があった。生玉典子。なんだ、あの女。睦が倒れた事、南戸が典子に話したんだろうか。戦う気力がなかったので、それを無視して、朝まで眠った。
春と俊之、そして、俊之と睦の話は、一旦ここで終了だ。俊之は、これ以降不登校となり、静かに転校する。それから十年弱、春や俊之と没交渉になる。睦が倒れた翌日、春は南戸を連れて、睦の見舞いへ行く。そこで、睦から、俊之の家で見付かった写真を渡されるが、その中にもやはり春の援交写真は一枚もなかった。
翌日目を覚ました春。土曜日である。典子から、メールが一通来ていた。内容を確認する。睦は、昨日から翌週の月曜日まで、検査入院する旨が書かれていた。典子が見舞いに行く予定時間も書かれている。一緒に行こうと言うことか、それとも。そして一言、「睦に謝罪すること」と添えられている。
典子は、どこまで知ったんだろうか。高みから塩を送るような典子の態度には、いつもイライラさせられる。しかし、春は意地を張ることに疲れ果てていた。脅迫のタネが無くなった春は、ただ頭を下げて楽になれるのなら、それが良いという気持ちになっていた。春は、南戸に電話した。
南戸は、もちろん警戒した。睦の見舞いに行こうと誘っても、すぐには承諾しなかった。「じゃあ、もういい」と電話を切り、身支度して出掛けた。途中で、菓子折りを買う。病院前で、南戸と鉢合わせる。偶然のような書き方には語弊がある。南戸は一人で見舞いに行く勇気がなかった。今まで睦の陰にいて、気付かれにくい事だったが、彼は人見知りなのだ。南戸は、電話を受けてから、春が悪さをしないように見張る、という名目を得て、すぐに病院に向かった。南戸の姑息な思惑を見抜いた春は、勘に障ったものの何も言わなかった。
ただ、「睦君を困らせるような事をするな」とキイキイ喚いて、煩いので、
「腰巾着は、手ぶらで主人を見舞っても、失礼と思わないんだね」と、嫌味を言うと、黙った。嫌味がすぐに通じるのが、南戸の良いところだ。
受付で、幸田睦の部屋番号を尋ねなくとも、南戸が覚えていた。運悪く、エレベーターで一緒になった看護婦が、春の知己だった。
「あれ、春ちゃん久しぶりね。さっき、典子さんが来てたわよ」
「ああ、そうですか」
「その子は学校のお友だち?」
「ええ」
「そうなの!こんにちは。もしかして、春ちゃんのボーイフレンド?!」
南戸は、頭を振った。春は、内心で舌打ちをした。そんなわけない。春こそ否定したかったが、堪えた。
南戸は、愚鈍に見えて勘が鋭いので、こういう事があると緊張する。かといって、これは必死になって隠す必要はないのだが。看護師ははしゃいでいた。母親を喪った春を見ているので、年相応の健康さを取り戻している春の再訪が、嬉しいのかも知れない。
エレベーターを降りて、看護師がナースステーションへと向かい、離れていったところで、南戸が呟いた。
「確信したぞ」
「何をだよ」
「お前の秘密だ」
「だから、何をだよ」
春は、マラソンの後で南戸に牽制された事を思い出した。しかし、丁度良かった。睦を見舞う前に、南戸の知る春の秘密を、ハッキリさせておこう。南戸の様子から、南戸が今度もズレている可能性を、春は感じた。
「お前、生玉先生の親戚だろ」
そらきた。
「うん」
「‥‥生玉先生は、おばさんか、何かだろ」
「うん」
「当たりだな?」
「そうだよ」
首肯した春に、動揺する南戸。春は思った。やっぱり、その事を春が隠していると思っていた。無論、性悪女と血縁であるという事実は、春にとって嬉しい事実ではない。しかし、それは気にしても仕様がないことだし、あえて言わないだけで、隠すほどではない。
南戸は、春を脅かそうと尚も続けた。
「僕がクラスに言い触らしたらどうなると思う?君の嫌いな生玉先生に『そっくり』『似てる』などと、卒業までからかわれる事になるぜ」
バカバカしくなっていたが、春は一言。
「うん、どうぞ」
と言った。
瞠若する南戸。少し気の毒になった。俊之の家侵入では、一応働いたのだし、結果として俊之は春を脅迫するのを止めた。狼狽えるフリぐらいはしても良かったかも知れない。まあいいや。憂慮の小さな種を潰せて、春は安心した。睦の部屋へ向かった。南戸は、ぶつぶつ呪詛を吐きながら、付いてきた。
くそ女、地獄に落ちろ、などと呟いているが、無視した。睦の部屋の前で、ノックすると、中から「どうぞ」と女の声がした。
典子の声とは違う。春は、睦の母親であると察して躊躇したが、ノックしてしまったものを引き返すわけにはいかない。居住まいをただして、部屋に入った。
個室である。中に入ってすぐの右手に、シャワー室と手洗い場がある。奥の三畳ほどの間に、ベッドがあって、そこに睦に睦が膨れっ面で寝ていた。傍らには点滴を下げたポールがあって、睦の左手に繋がれていた。
「ああ、こんにちは。ごめんね、睦は今ちょっと機嫌悪いけど‥‥睦、お友だち来たよ。挨拶しなさい」
睦は、黙っているので、睦の母親が、取り直すように言った。
「この子ね、入院中、必要な物を買う用に渡したお金で、テレビカード買って、一晩中テレビ見てたのよ」
「そういうこと、なんでイチイチ言うんだよ。もう帰ってよ」
睦が真っ赤になって怒る。
「言われなくても帰るわよ。洗濯物はこれだけ?」
何気なく睦の母親の荷物を見ると、トートバッグから、睦の衣類らしいものがはみ出していた。
「あの、良ければこれに入れてください」
春は紙袋から菓子折りを出して、睦の母親に渡した。
「え?!ありがとう‥‥。睦、この子クラスメート、お友だち?ちょっと、いつまでむくれてるの。睦はあの通り、子どもですけど、仲良くしてあげてね」
「いいえ。私の方こそ、いつもアツシ君にお世話になっております」
初対面の大人がいて、動揺したらしい。南戸は、春の後ろで挙動不審になっていた。春は南戸に気にせず、微笑んだ。先手必勝である。
「私は、福吉春と申します、この子はクラスメートの南戸君です。二人で睦君のお見舞いに来たんですけど、突然でご迷惑だったらごめんなさい。これ、つまらないものですけど‥‥」
「あら、そんな気を使わなくて良いのに‥‥。福吉さんのお父様かお母様は、受付で待っていらっしゃるのかしら?お礼を申し上げたいわ」
春は、笑みを消した。
「その、私の両親は」
渋面の睦が、声をあげた。
「母さん!騙されるなよ。そいつ、本当はすげえ性格悪いぞ!」
睦の母親は顔を青醒めさせた。
「あんた、何てこと言うの?!せっかくお見舞いに来ていただいたのに、ありがとうの一つも言えないの?!ご、ごめんなさいね。私には生意気なのはいつもだけど、まさか、学校でも福吉さんに、こんな態度を取ってるのかしら」
「いいえ、良いんです。確かに、私学校じゃいつも暗くて、皆に馴染めてないんです。ずっと母子家庭で育って、一年前に母親も他界してしまって‥‥教室では腫れ物扱いなんです。でも、アツシ君は、そういうの、気にせず話しかけてくれて、 すごく嬉しいんです。アツシ君にとっては鬱陶しいのかも知れないけど、つい馴れ馴れしくしてしまって‥‥ごめんね」
茶目っ気のある表情を作って、睦に向けた。睦は、唖然としていた。
都合の悪いところは大幅に脚色したが、事実がベースなので問題ない。睦の母親は、
「え、あなたのお母さん・・・」
と、目を潤ませた。この一年で分かった。春に両親がいないことを知ると、大抵の大人は、春に憐憫の情を向ける。保護者の庇護を幼くして亡くした少女が、あらゆる艱苦を一人で受け止めて、健気かつ逞しく生きているのだと忖度してくれる。なかんずく子どもを持つ母親は、この傾向が強い。可哀想だと思われる事は、時に春のプライドを傷付けたが、そう思わせておくと、何かと便利でもある。実際は、母を喪ってからよりも、母の生前、彼女が入院していた一ヶ月間の方が、耐え難い苦痛に充ちていた。
彼岸と此岸の狭間に立たされた母親は、最期まで春の手を離す決断ができなかった。春自身、その手を振りほどく事もできず、時節本当に身が千切れるような心地がした。この世への未練と体を蝕む癌細胞に苦しみ、痩せ細り、醜くなっていく母親は、正視に耐え難かった。
悲しむ余裕、そして、これからの生活を見直し生きる覚悟を持ったのは、母の没後である。癌が見つかるまで、母と一緒に生活している中では、人並みだった。母親を、疎み恨み、「居なくなってほしい」と思うことすらあった。それが、こうして「親なき子」であることを、同情されたり、それを良いように使う自分を感じると、周囲から、そして、自分から、「母の死」という事実や悲しみが、小さく折り畳まれていく感じがした。その事が、やはり時として堪らなく寂しい。母の熱で充たされたガラスの球体が、急激に冷えて、内側にヒビが入っていくようだ。
睦の母親は、春の手を握り、
「困ったことがあったら、いつでも家に来てね」と、彼女に言付けて帰っていった。
良い母親だ、と春は思った。子どもの無辜を信じて疑わない。人を頭から疑う事ができずに信じてしまうのは、母親譲りのような気がした。
睦は、母親の前での春の態度に、しばらくことばを失っていた。
「母親が死んだっていうのは」
「本当」
睦は再び黙った。睦の母親を懐柔したことへの不満と、睦の中の、死を揶揄してはいけないという良心が、せめぎあっているようだ。
「お前は、ジキルとなんとか、だな」
絞り出すように言った。
「ハイドね。ううん。それよりも、理解不能なら、夢野久作を読んだ方が良いよ」
二重人格ではなく、「普通」の女に淀む混沌を知りたいのなら。
睦の、何を言われているか分からない、という顔。すぐに分かる。何とも言えない睦の表情が、春には面白かった。春の含み笑いを、睦は不満に感じているようだ。
「お前、全然反省してないな。俺を騙したり脅したりしたことに」
「反省?申し訳ないとは思ってるよ。だから来た」
「謝れば済むのかよ」
「じゃあ、何をしたら許してくれる?何でもしてあげるよ」
春がしどけなく微笑むと、睦はすぐに赤くなった。面白い。典子が、睦に関心を抱くのは、案外反響定位とは関係なく、ただからかい甲斐があるからかも知れない。
「別に、何もしていらない。ただ、もういい加減な事言ったり、嘘吐くのは止めろ。素直になれ」
「‥‥」
「これ」
睦から、俊之の家から持ってきたという写真を渡された。春は、緊張しながら、1枚ずつ確認したが、援交写真はどこにもなかった。しかし学校で撮られた春の写真だけは、不自然にたくさんあった。
睦は言った。
「ヨシハルの秘密ってそれ?知らないところで、写真いっぱい撮られてたのが嫌だったのか?だから南戸に、あんなに怒ったんだろ?」
「‥‥」
春は、無言で写真を鞄にしまった。そういう事にしておこうか、と思った。
「‥‥ヨシハルって?」
「お前のあだ名だろ。自分で言ってた」
蔑称の事か。まあいい。
「俊之はお前の事が好きだったのかな。あのさ、ヨシハルには気持ち悪かったのかも知れないけど、あんまり俊之の事悪く思わないでくれよ」
「お人好しだね。私だけじゃなく、あんなのをまだ庇うワケ」
睦の顔が翳った。
「そりゃ、ヨシハルは特に嫌な思いをしたんだろうけど…俺が庇っても仕方ないと思うけど。でも、俊之は俺の友だちなんだよ」
「アンタだけだよ。俊之はそう思ってないよ」
「なんだよ。友だちだよ。俺がそう思うんだから、友だちなんだよ。それにさ、写真は、嫌がるほどのじゃないだろ。全部可愛く撮れてるじゃん」
「は?」
「女の子ってよく分かんないな。やたら写真映り気にするし。俺は良いと思うよ。ったく。本物も黙ってりゃ良いんだよ。いや、こんな事なら、家宅侵入なんてしなくても、お前はただ俊之に『写真返せ』って言えば良かったんだ。いや、それよりもまず、俊之はお前にとっとと好きだなら好きって言えば良かったんだ。俊之もお前も、グダグダ要らない事を考えてどんどんややこしい事を考えるから、本当にややこしくなるんだ」
睦は憤慨している。春は、「もう思いたいように思わせておけ」と投げやりになり、睦の顔を観察した。目と鼻と口、顔のパーツ全てが小さい。丸に点を四つかけば、上等な似顔絵になりそうだ。色白で貧弱そうでいて、せこせこしているその様は、春にセキレイを連想させた。
ふと、睦の瞳にかかった前髪が気になり、手を伸ばした。睦は、顔に朱を差し、仰け反った。
「なんだよ」
「別に‥それより、体は大丈夫なの」
「体って?なんかよく分かんないけど、大丈夫だよ。気を失ったときに、脈拍が異常に高かったんだってさ。月曜日も一応検査するらしいけど、今はもう、なんともないよ」
春は、睦の血液検査の結果を見た。細かい数値は分からないが、どこにも「低」を示すL、「高」を示すHがないのだから、正常なのだろう。南戸は、
「良かった。良かったよ」
と、涙ぐみながら叫んだ。
個室とは言え、騒がしくしている。春が「じゃあ」と言って、立ち上がったところに、ノックの音が響いた。睦が、ハッとして立ち上がった。点滴に、腕を持っていかれた睦を見て、春は睦の代わりに
「どうぞ」
と言った。中に入って来たのは、春にとって意外な見舞い客。西敦子である。
春や南戸と目が合うと、敦子は歩を止めて固まった。春は、クラスメートとして敦子を認識していた。
「西さん、睦と親しかったの」
敦子の視線は定まらなかった。モジモジした挙げ句、救いを求めるように、睦を見た。
「あ、ありがとう。来てくれたんだ」
睦が、そう言うのを聞いて、春はムッとした。私には「ありがとう」なんて言わなかった。どういう関係か、後で南戸に聞いてみよう。
「私、帰る」
何故か春の後に南戸も付いてくる。春が睦と話すとなると、どこでも南戸は付いてくるのに、なぜ敦子と睦を二人になることを許すのだろう。ますます気に入らない。敦子とすれ違い様、彼女の姿を一瞬、しかし、しっかりと確認した。美少女。潤んだ瞳。珊瑚色の唇。彼女が蝶なら、私は蜘蛛だ。加虐精神を惹起させられるが、男の子は、こういうナヨナヨしたのを護りたくなるものだろうか。
春は、おもむろに敦子の肩を叩いた。身をすくませる、敦子。
「ごめんね。フケが付いてたから」
笑顔で言う。
「あ、ありがとう」
ありがとう、じゃないだろ。マヌケ、と心で敦子を蔑んでから、部屋を出た。
さて、敦子を睦の見舞いに向けたのは、生玉典子である。典子は、敦子の母親が外出している間に、敦子を連れ出したことは、教師としては問題のある行動だ。今回典子に大胆な行動を取らせた理由が、二つあった。一つは、睦と敦子を接触させて、「ある事」を確かめたいという典子の思惑だが、それは、なかなか上手くいかない。典子の確かめたい事とは、荒唐無稽なようである。しかし、睦という人並み外れた能力を持った人間の存在が分かると、あながち有り得ない事ではないかも知れない。
もう一つは、焦りである。わずかな間を見つけて敦子と話をしていると、彼女の鬱傾向は強まっていくのがよく分かった。家の事を聞いてもほとんど語らず、学校に来ることは稀なのに、手足や額にいつも真新しい擦過傷がある。典子の、敦子の家庭への不安は、日毎増して行き、敦子を何とか母親から引き離したいと考えていた。
教師の職分を越えたところに彼女の意思があることを、典子は自覚していた。ただ、敦子の担任である一学年中は、彼女を見守り、観察する事ができるとも安易に考えていた。
目測誤り、睦と親しくさせたのも束の間、瞬く間に敦子の不登校は加速した。
敦子の母親の人格も、ますます荒んでいった。約束した時間に家を訪れても、居留守を使い、電話口で約束を忘れていたフリをする。猫なで声で謝りながら、別日を指定するが、再二再三と、約束を反故にする。典子は、敦子の母親に対して一切文句を言わないと決めていた。それだけで彼女は、典子を「他の人とは違う」と誉めそやした。敦子の母親は、結婚への不満を話す時間が多くなっていった。さりげなく、話を敦子の話題に向けても、「ああ、いつも通りよ」と曖昧な返事で話を濁され、また愚痴を始める。敦子を彼女の母親から完全に解放するのは困難だが、少なくとも、今より敦子自身の意思を発露させるのが、典子の試みだった。
南戸は、典子を信頼することに決めたらしく、睦の様子をよく知らせてくれる。彼は、喋るのは苦手らしいが、メールの文章は分かりやすい。観察力が優れていると分かる。そして、自分の弱点を知り、それを補うために他人を信じる事の大切さを知っている。素直だが、実体よりも自分を大きく見せることに憧れる睦と、他人の事となると、ともかく疑心暗鬼で、自分を過信する春。そして、天使のような愛らしさと引き換えに、生きる術を獲得できないまま、大人になろうとしている敦子。
彼ら三人には、心配の種が尽きない。
歳を経てから知る人一人の無力さを、彼らは受け入れる事ができるだろうか。特に、自分の殻に閉じ籠る敦子は、きっと世間という大海に放り出されるまで、上手く生きる術を何も学べないだろう。どうであれ、「一人で生きていこう」とするのは、生物として致命的な欠陥である。誰も一人では生きていけない。しかし、南戸は安心できる。彼は、睦や典子と離れても、また、信頼に足る宿り木を見つけて、逞しく生きていけるだろうと感じる。
南戸からのメールには、睦の血液検査と尿検査の結果が書かれていた。父親の健康診断で、話題になっていた項目があるらしい。「全部覚えるのは無理だった」と弁明しているが、この着眼点は良いと、典子は感心した。CRP、GPT、GOT…総括は異常なし。倒れた直後、発熱し脈拍が通常の二倍だったらしいが、今は異常なし。
典子が睦の体調を気にかけるのは、単なる保護欲からではない。彼の突発的な体調不良と特殊な感覚器官の間に因果関係があるのか、そこが気になる。そもそも、器官の構造が通常と違うなら、これまで睦を診た他の医師が見つけて話題になっていてもおかしくない。今まで健康に生きてきたのなら、精密検査を受ける機会などなかったかも知れないが。疑問は尽きない。典子は考えた。月曜日の検査はどうだろうか。妥当なところで、もう一度血液検査・尿検査、触診、口腔内の検査、ぐらいだろうか。
もしレントゲンを取ったとしても、睦の声帯まで調べる事はないだろう。典子は、ため息を吐いてから、パソコンに向かいメールを打ち始めた。